月は天の窓(前編)
<The moon’s a window to heaven>

 放課後の練習中に見上げた空には、もう月が出ていた。
 まだ太陽が出ているのに登ってしまった三日月は、夜の凛とした輝きとは違う、白く濁った光を放っている。
『空が薄目を開けているみたいだ』
 軽い目眩を抑えながら考る。まだ淡い月の光は、夜中に見上げるそれとは違って、優しげな印象を受けた。
「おい、何ボケてんだよ。まだ風邪抜けてないのか」
 脇腹を小突かれて我に返る。神谷のムッとした顔が目の前に回り込んできた。
「ああ、すまない」
「予選前なんだから、気合い入れろって言ったのはお前だろ。昨日も休んだくせに。しっかりしてくれよ」
 ゴール前の混戦を想定したプレー。GKとDFの層が弱い掛川にとって、自軍ゴール前の防御が大きな課題になっていた。スィーパーの赤堀が入部したとは言え、まだまだ弱い。夏の予選でも、MFの自分がDFラインに下がることが多かった。
「今度はお前が右から入るんだったよな」
「そうだよ。やっと目が醒めたようだな」
 機嫌を直した神谷が、微笑む。
 掛高に入って、神谷は良く笑うようになった。初めてヤマハで出会った時には、誰も信じないと言うように突っ張って無愛想だったというのに。
…だから、どう告げようか迷っていた。
 自分が予選を馬塩ビチームを抜けることを、彼はどう受け取るだろう。
『病気だ』と正直に言えば、納得してくれるのは解っている。でも、病院も病名も教えられないのだから、不信を買うのは必至だろう。
 そう、特に病名だけは告げられなかった。
 適当な病名を言ってごまかす事は出来る。だけれども、何故か神谷は繕われた嘘には聡い。
 それでも、もう時間がなかった。予選は来週末に始まってしまう。前置きもなくいきなり抜けるなんて事はしたくない。それこそ神谷は許してくれないだろう。
 誰にどう思われてもいい。
 ただ、彼にだけは信じていてもらいたかった。
『我ながら、我儘だな』
 自嘲の笑みが浮かぶ。
 そんな様子に気付いた神谷が睨み付けてきた。
 本当に神谷は、事自分に対しては鋭い。
 本来ならば『黙っていても通じる』と喜ばしい事なんだろうけれど、こんな時には困ってしまう。
「ボール行くぞ!」
 中央の混乱を抜けて、ボールが真っ直ぐにこちらに向かって飛んでくる。
 高く上がった弾道は、中空の月の前を横切った。
 ヘッドで合わせてゴールを狙う。
 シュートは小笠原の脇を抜け、バックネットに突き刺さった。
「ナイス、ヘディング!、じゃなくて、お前らもっとしっかりしろよ!」
 神谷が思わず声を上げてから、しまったと言うように顔を顰めると、DF陣に向き直り檄を飛ばした。




 大塚に連れられて入ったラーメン屋は、大盛りの上に値段も手頃で、いつしかサッカー部御用達の店になっていた。
「おっちゃん!いつものやつな」
 大塚の大声が店内に響く。
「おっ、今日も遅くまで練習だな。試合がんばれよ。チャーシューおまけしてやる」
「おっちゃん、愛してるぜv」
 店主の気前のいい言葉に、大塚の声が跳ね上がる。
 思わず同席した一同は、他人の振りをしてしまった。
「おい、お前ら何食うんだ?」
 そんな事にはお構いなしというように、大塚が訊いてくる。
「みっともないから、大声だすなよ」
 赤堀が小声で訴えても、何でだという表情をするだけで、一向に気にしていない。
 耐え切れず、久保が吹き出した。次いで神谷・矢野・服部と笑いが伝染して行く。
「何だ?お前ら変だぞ」
 ぽかんとした表情に、最後の赤堀も笑い始めた。注文を取りに来ていた店員も、喉の奥で笑いを詰まらせている。
「気持ち悪りぃな。ほら、さっさと注文しろ!」
 意地になった大塚に、笑いは爆笑へと変わっていった。


 結局全員が大塚と同じラーメンを頼み、店主の約束した通りにいつもより一枚多いチャーシューを味わった。
 毎度恒例の大塚のおかわり攻撃を横目に、今日の練習の話題に花が咲く。
「オレDFに下がるよ。中学の時はそうだったんだから」
 矢野が何度目かの提案をする。
「でも、MFだって苦しいんだぜ。久保一人に負担が掛かっちまう」
 服部の意見に、もっともだと神谷と赤堀が頷く。
「なあ神谷」
「何だよ久保?」
「おまえ、MFやってみないか?」
「はぁあっ?」
 いきなりの提案に、言われた本人だけでなく一同が驚く。大塚もラーメンをすする手を止めた。
「ゲームメイクしてみないか?いけると思うんだけど。CFには大塚に入ってもらってさ」
 どうやら久保が本気で言っている事に気付き、神谷の機嫌が悪くなる。目が据わって、眉が顰められた。
「ゲームメイクって、じゃあ、お前はどうするんだよ。ディフェンスに専念か?言っとくがな、掛高の主将はお前だぞ。お前がゲームを組み立てないでどうするってんだ」
 神谷の言葉に同意して、他の皆も口々に不平を言う。
 そんな様を、久保は複雑な心境で見詰めていた。皆が自分をかってくれているのは嬉しい。でも、これは冗談なんかじゃなく、本当にそうなってくれないと困る事なのだ。
「まったく神谷の言う通りだぜ。お前が下がるくらいなら、オレが下がった方がマシだぜ。パワーなら自信があるからな。相手の一人や二人、皆まとめて吹き飛ばしてやる!」
「そうだよ。大塚だったらバックから相手キーパーまで、飛ばしに行ってくれるよ」
「そうそう。…じゃねぇぞ赤堀!いくらオレだってそこまでは無理だって!―っと、とにかくオレは反対だぞ」
 皆がうんうんと頷いて、久保を見詰めた。
 一瞬どうしようかと迷った。
 病気のことを告げるのには良い機会かもしれない。都合のいい事に、今ここにいるメンバーは部の主力ばかりだ。
 それに神谷がいる。
 彼には一番最初に告げなくてはならない。けれども一対一で面と向かって告げる勇気は無かった。
 躊躇いの時は過ぎ、久保は思い切る事にした。
「でも、オレは神谷にやって欲しいんだ。ずっととは言わない。せめて年内だけでも」
 慎重に選んだ言葉は、皆の強い否定で跳ね返された。
「!?選手権の間中って事か?冗談言うんじゃねぇよ!」
 胸ぐらを強く捕まれ揺さぶられる。鼻先に突きつけられた神谷の目は怒りに燃え上がっていた。その視線に、久保の中に哀しみが生まれた。
「冗談じゃないんだ。部活中に言うつもりだった。今度の予選に、オレは出れない。医者から止められたんだ。病院のベッドが空き次第、入院する事になってる」
 皆が一斉に緊張した。胸ぐらを掴んでいた神谷の手が離される。顔色は、神のように白くなっていた。
「マジ…なんだな」
 神谷の質問に頷く事で答える。
「病気って、どこが悪いんだよ!お前、今日だって練習してたじゃないか」
 黙り込んでしまった神谷の代わりとばかりに大塚が声を張り上げる。店内は、一同の異常を察して静まってしまった。
「だから、しばらく入院すれば大丈夫なんだって。早めに手当てしないとダメだって言われて、オレ自身が戸惑ってるぐらいなんだから」
 一度言葉を紡ぐと、自分でも不思議なくらいに落ち着いて嘘が言えた。本当はしばらくなんかじゃ無い。早めの手当なんて言うのも嘘。
 でも、絶対に真実は告げられない。
「しばらくって…だから年内なのかい?」
「ああ、予定ではね。何とかってややこしい病名なんだけど、集中して治療すれば早く治るんだって。だからさ、すまないけど、頼むよ」
 本当にすまないという久保の表情に、一同からあきらめの溜息が漏れた。
「病気じゃしょうがねぇな。ま、今年の選手権は諦めるか。来年のインターハイが勝負だな」
 大塚が、場をとりなそうとして、なおさら明るく言い放つ。
「そんな気持ちじゃダメだよ。久保が居なくちゃダメだなんて思われたく無いだろ?なぁ、服部」
「矢野の言う通り!オレ達だけでも行く所まで行ってやるから、安心して治療に専念しろって」
 代わる代わるに慰めの言葉が上がる。店主までが体力を付けろと言って餃子を差し入れしてくれた。
 そんな中で、神谷だけが何も言わなかった。ただ黙って久保を見詰めていた。怒っているとも悲しんでいるとも取れる泣き出す寸前のような瞳が、真っ直ぐに睨み付けている。
 こんな目をさせるつもりなんて無かった。居たたまれなくなって俯く。
「MF、引き受けた」
 店を出る時に、漸く開かれた神谷の口から出たのは、それだけだった。





 駅前で皆と別れて、二人で家路についた。
 バスの中、久保と神谷の間に気まずい雰囲気が流れる。
 いつもなら一つ手前のバス停で久保が降りるまで色々な話題で盛り上がるのに、今日は会話の糸口を掴めない。
 窓の外には、西の空に傾いた月が、刃物のような煌めきを発していた。昼間の優しさは微塵も残していない。
 帰宅ラッシュに重なり、少し込んでいる車内で、空いていた座席に神谷は久保を座らせた。普段ならバランス感覚を養うためだと言って二人とも座らないのにだ。
 始めは渋っていた久保も、神谷の無言の圧力に負けて席に着いた。
 見下ろしてくる瞳が、まだ睨んでいる。
「ごめん。お前にだけは先に言おうと思ってたんだけど、良い機会だと思ってさ。怒るなよ」
 しかし神谷はまだ睨み付けている。まるで初めて会った時のように、人をはねつける目だ。
「―お前、嘘ついてるだろう」
 絞り出すような声が問い詰める。
「嘘なんて…」
「ついてる。ごまかせると思ったのか?あいにくお前との付き合いはそんなに薄っぺらじゃ無いつもりだ。さっき目を逸らしただろう?」
 俯いてしまった時の事を言われているのに気付いた。
「本当はそんな簡単な問題じゃないんだ。違うか?」
 答えられなかった。
 本当は答えたかった。
「ごめん」
「謝るな」
 そのまま二人とも黙り込んでしまう。
 久保の降りるバス停に着くまで、二人とも無言だった。
「朝練、出るんだろうな?」
 久保がタラップに足を掛けたときに声が掛けられた。
「ああ。その時に他の皆にも説明するよ」
「…そうか」
 返事は素っ気ないものだった。
 走り去るバスを見送ると、窓越しに神谷と視線が絡んだ。
 さよならと手を振る。精一杯に微笑んで見せたが、神谷からの笑顔は返ってこなかった。






 最初は単なる夏バテかと思っていた。
 それからだんだん風邪を引きやすくなり、いったん引くと長引く事に気付いた。
 秋になっても体の怠さは収まらず、貧血が始まった。
 急に高熱を発し、酷い寒気と大量の汗に襲われる。
 歯を磨いている時に出血し、白い泡が赤く染まった時、胃を決して病院に行った。本当はもっと早めに行くつもりだったのだが、嫌な予感がして延ばし延ばしにしてしまっていた。
 最初に行った医者から別の病院を紹介され、そこで自分のカルテを見てしまった。
 書かれていた病名は『白血病』だった。
 説明を求めると、医者は全てを語ってくれた。
 白血病の事、その治療法、そして残された時間を。
 その医者は白血病での治療では国内でも屈指に上げられており、すぐに骨髄移植の検査がなされた。しかし両親にも親戚にも、適合する型は見つからなかった。
「化学療法を続けていって、適合する型が見つかるまで頑張りましょう」
 医者には言われたが、その間サッカーが出来なくなるのが辛かった。
 サッカーと命のどちらが大切かと言われれば、やはり命の方が優先されるべきだろう。
 それでも、選択は難しかった。
 医者から告げられた寿命は、化学療法を受けて5年、受けなければ半年以内。サッカーが出来ない5年と、期間が限られてしまうサッカーと…。どちらをも選び切れない。
 先程の神谷の態度が思い出される。
 すっかり中学の時のように、頑なになってしまった。
 神谷とサッカー。
―限りなく自分の中で大きな存在となってしまっているものを失って、自分にはこれからの『生』が耐えられるのだろうか。
 ベッドに転がり、机の上に飾った写真立てを見詰める。
 美奈子と遊園地に行った時のものと並んで、夏の予選で勝ち進んでいた時に雑誌記者が撮ってくれた神谷との写真がある。
 写真の神谷は本当に嬉しそうに笑っている。肩を組まれて、自分も恥ずかしいくらいに幸せに笑っていた。
 窓の外から、最後の秋の虫の音が聞こえていた。
 この部屋で、神谷と抱き合ったのはつい先週の事。あの時は月は満月に近く、虫の音ももっと大きかった。
 ずいぶんと昔のように思えてくる。
 あの時の喜びを思い出すのは容易い。受け入れてくれた神谷の動作の一つ一つは、脳裏に刻みつけられて消えることは無いのに。
「裏切りと、取られたのかな」
 独り言がやけに部屋に響いた。
「このままじゃ、駄目だ」
 思い切って立ち上がる。時間は9時を回ったばかりだ。まだ神谷も起きているだろう。
「神谷の所に行ってくる。後の事を打ち合わせないと」
 母親に言うと、返事を待たずに飛び出した。






「篤司〜、ちゃんと戸締まりしておいてよ!」
「解ってるって、うるさいな!」
 父親が出張中と言うことで、母親はこれ幸いとパート仲間と誘い合い、カラオケスナックへと出かけていった。
 風呂上がりの髪をタオルで拭きながら、TVを点ける。
 画面では、コメディアンがサッカーのミニゲームをしていた。
「結構良い動きしてんな」
 冷蔵庫から牛乳を出し、コップに注ぐ。一気に飲み干すと、冷たい感触が喉から胃まで伝わっていった。
『ゴォォ〜ルッ!!』
 アナウンサーが、必要以上の騒々しさで叫(わめ)いている。リピート画面のシュートは、確かになかなかのヘディングだった。
「久保程じゃ無いけどな」
 言ってから、さっきの事を思いだして不愉快になった。
 久保が嘘をついた。
 病気というのは本当だろう。最近学校を早退したり休んだりする事も多かったし、時々酷く怠そうにしていた。
―体の不調を悟られないように無理をしている事などお見通しだ。
 だから、いつ相談してくれるだろうと待っていた。
「あんなところであっさり言いやがって。それもいきなり入院だとォ?」
 皆に入院を告げたときの久保は、明らかに何かを隠していた。いつもなら会話の途中で視線を外さないのに、
合わせるとスルリと逃げてしまう。
 病名の所で言い淀んだので、たぶん質(たち)の悪い病気に罹ったので皆に言いづらいのだろうとふんで、二人きりになるまで問いつめる事は控えた。
 なのにバスの中でも彼ははぐらかした。
「オレはそれっぽっちの存在なのか?」
 コップを洗い桶に突っ込み、改めてTVの前に陣取る。
 番組の中では、コメディアンチームが女子サッカーチームに辛勝していた。
―その時、玄関のチャイムが鳴った。
 さては母親が忘れ物でもしたのだろうと腰を上げる。
「なんだよ、鍵持って出たんだろ?いちいち人を使うなよ」
 ドア越しに不平を言うと、
「神谷、オレだ。話がある」
 久保の声が返ってきた。引き戸に掛けた手が一瞬緊張する。
 曇りガラスを通した人影は、確かに久保のものだ。
 ドアを開けると、いつになく真剣な表情で立っていた。
 視線が、真っ直ぐに絡みつく。
「入れよ」
 顎でしゃくって招き入れる。
 擦れ違ったときに触れた肩先が、やけに小さく感じられた。







                                             続く



   
 注・この作品を書いた当時、実加ちゃんの存在は発表されていませんでした。ご容赦を。


                                        

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