温かな香りが、覚醒を呼んだ。
痛む頭で考える。
――ああ、家に帰ってたんだ。
味噌汁の匂い。それと玉子焼き。
食器の触れ合う軽い音。
誘われるように目を開けると、そこは実家では無く、独り暮らしのマンションの寝室だった。
……ならばこの香りと音は?
「! 田仲ッ!?」
ガバリと布団を跳ね除けて立ち上がる。
一瞬眩暈がしたが、そんなことに構っちゃ居られない。
転げるように部屋から出ると、ダイニングキッチンに飛び込む。
求める人の姿はそこにあった。
「おはよう。やっと起きたか、酔っ払い」
窓からさす昼の日差しの中で、田仲がにっこりと笑って立っていた。
それは夢を見ているような光景。
パジャマの上に普段自分が愛用しているエプロンを着け、手には味噌汁をかき回していたお玉を持っている。
「お前、何度声を掛けても起きないんだもんな。腹ペコだったから、適当にやらせてもらったぞ」
「あ……ご、ごめん」
「準備が出来た頃に起きるんだから、ちゃっかりしてんな」
呆れたと言うように軽く口を尖らせる様に、思わず松下は見惚れてしまった。
――なんかこれって、新婚みたい。
ジンッと胸が熱くなる。
そんな松下を、田仲はまだ酒が抜けていなくて呆けていると判断した。
「二日酔い? じゃあ、お茶漬けかおかゆの方がいいかなぁ」
「だ、大丈夫。もう平気だって。それより、ごめん」
「ああ、これ?味は保証できないけど、玉子焼きだけは自身あるからな」
降られたお玉が示すテーブルの上には、綺麗な焼き色が付いた玉子焼きが湯気を立てて置かれていた。
「料理、上手いんだな」
「お姉ちゃんに仕込まれたんだ。いつか独り暮らしするような事があっても不自由しないようにってさ。ほら、早く顔洗って来いよ。一緒に食べようぜ」
「ああ」
促されて、慌てて洗面所に向かう。
「ちゃんと歯も磨けよ。酒臭いぞ〜!」
背中に掛けられた声が擽ったい。
一緒に食事――そんな些細なことがものすごく嬉しい。
松下を見送る田仲には、苦笑が浮かんだ。
「あの分じゃ、昨日オレにキスしたことも憶えてないな」
――こっちはおかげでロクに眠れなかったのに。
唇に感触が残っている。
あの後のことを思い出す。
明かりを消した闇の中、松下のベッドに横たわり、すぐ横に敷いた布団に寝ている松下の寝息だけを聞いて、ずいぶん長い間寝付けなかった。
漸く眠れたのは明け方近くになってからだ。それも極々浅い眠りだった。
「ったく、変だよな」
――たかが酔っ払いの悪ふざけに。お姉ちゃんやケンジにだって、されたことあるのに。
でも今回のは少し違うような……。
耳に残っているのは『好きだ』と繰り返した松下の声。
その声が今も胸の中に残っている。
感触と、声と――ひどく落ち着かない気分だ。
「何で……。オレ、変だよな」
小さく呟いてから、食事の準備を再開した。
二人っきりの朝食兼昼食は、松下の煎れた日本茶で幕を閉じた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま。美味しかった」
行儀良く小さく頭を下げた後、松下はさりげなく食べ終わった食器を片付け始めた。
「あ、オレもやるよ」
「今度はオレの番だよ。さっさと片して祭りに行こう。田仲は先に支度してて」
「二人でやった方が早いだろ?」
答えを待たずに布巾を手に取りテーブルを拭く。
だけどその作業は食器洗いよりも先に終わってしまう。
「なぁ松下、布団、たたんだ?」
「まだだけど」
「じゃ、やっとくよ」
擦ることを見つけて、嬉々として寝室に入って行く。
「なぁ、二つ折り?三つ折り?」
「二つ折りにしてくれないか?」
「どこにしまう?」
「とりあえずそこに置いててくれればいいから」
「OK! 早く片して祭りに行こうな」
休日の穏やかな時間の上を、声が伝っていく。
寝室のカーテンを開けて陽の光を入れると、大きな窓から見える眼下の眺望の中に、祭りの屋台が牽かれて行くのが見えた。
外は祭りの最中だと言うのに、防音の聞いたマンションの中は静かだ。まるで世界に、二人だけで居る錯覚が起きる。
松下の荒いものの方が、少しだけ先に終わった。
田仲の様子を見に寝室に入ると、ちょうどたたみ終わった布団の上に枕を置くところに出会った。
その時ようやく、松下は思い出した。
「なぁ……もしかして、オレ、その布団で寝てなかった?」
恐る恐る尋ねると、途端に田仲がむっとした表情を浮かべた。
「やっぱり昨日の夜のこと、憶えていないんだ」
「田仲が運んでくれたのか?」
「他に誰が居るって言うんだよ。お前があんなに酒癖悪いとは思わなかった」
田仲のあきれ果てた表情に、松下から血の気が引いた。
「……まさか……変なこと、した?」
瞬間に田仲の頬が赤くなった。無意識だろう、右手が唇の側まで上げられる。
その反応に、松下の唇の上にも感覚が甦った。
「もしかして……」
「お前、酒癖悪すぎ」
「キス……した……?」
「この、酔っぱらい」
田仲の言葉は、肯定の意味だった。真っ赤に染まりあがってしまった顔を背けてしまう。
確信した。この唇に甦った感触は、田仲に触れた柔らかさだ。
――それにしても……
「何で忘れたんだろう」
思わず呟いた声は、後悔の念に溢れていた。
言葉に驚いた田仲が反射的に顔を戻すと、目の当たりにしたのは松下の悔しそうに顰めた表情だった。
「松下……?」
心配になって伸ばした手は、松下に強く握り取られてしまう。
「ま、松下!?」
「ごめん」
謝罪の言葉に、田仲の身体から緊張が解ける。
「いいよ、もう気にしてないから」
許しの言葉と共に、目元に小さな笑みが浮かぶ。
――お互いに忘れた方が良い。……そう伝える笑顔。
気にしていないと言うのは嘘だ。でも、忘れるのが一番良い解決方法に思えた。
所がそれは、松下にとって拒絶に等しいものに映った。
手を握る力が、無意識に強まる。
その力の強さに、田仲の中に不安が生まれた。
「松下?」
「気にして……くれないのか?」
「何をだよ」
「キスした……事」
「だって松下……酔っ払ってふざけたんだろ?」
田仲の声が、微かに震える。
途端に、抑えていた松下の心から想いが溢れた。
「本気だって言ったら?」
「え……?」
「好きなんだ。友達以上として」
関が切れた感情は奔流となり、田仲に向かって真っ直ぐに押し寄せて行く。
頭が真っ白になり固まってしまった田仲の手を引くと、胸の中に抱き込んだ。
二人の身長はほぼ一緒。お互いの肩口に顔を埋めて、身体が密着する。――温かさが、二人の間に伝わり合う。
温もりが、田仲の抵抗する気をそいだ。
「ずっと好きだった。友達じゃなくて……愛する人として」
ただ呆然と抱かれている耳元に、体温以上の暑さの声が注がれる。
「あ、愛って、松下!?」
熱い告白に、初めて田仲から反応が出た。頭を後ろに反らし肩口から引き離すと、驚く内容を告げた『友人』を間近で見詰める。
言葉の真意を確かめようとした質問は、真剣な瞳に出会って引っ込んだ。
田仲の表情が驚きから神妙なものに変わっていくのを見て、松下は気持ちが伝わったことを確信した。恐れていた嫌悪の色はそこには無く、とりあえずの危険は去った。
「お前がマネージャーのこと好きなのは知ってる。だけど……オレを選んでくれないか?一生をかけて、絶対に幸せにするから」
それは、女性にするのならば正真正銘のプロポーズ。
さすがにこれには田中も呆れた。未成年の上に男同士で、いくらなんでもそれは無いだろう?
「本気だってのは解ったけど、オレ、男だぞ!?」
「うん?」
「それに誰かに幸せにしてもらうんじゃなく、自分で幸せになってやる!」
きつく抱きこまれたままだった身体を何とか少しだけ離して、力強い宣言があげられた。
そんな田仲の姿に、松下は素直に見惚れてしまった。
この柔らかな心が、真っ直ぐに先を見詰める瞳が、愛しくてたまらない。
「じゃあ訂正する。一緒に幸せになろう」
「だから〜、もう……プッ! ハハハッ!」
松下の満面の笑顔での申し出に、ついに田仲は吹き出してしまった。
新たに発見した松下の性格は、まるで強引な子供のようだ。頼りになって優しいと思っていた男の意外な一面を知って可愛いと思うと同時に、そこまでに想われていた事に嫌悪どころか嬉しさしか感じなかった自分に気付かされてしまった。
――駄目だ、もう負けだ。
突然笑い出されておろおろしている松下に、改めて笑いかけてやる。
「まったく、どこまで本気なんだか」
本気にしても冗談にしても、どうやら仕掛けられた勝負に負けてしまった。自分にホモッ気は無かったはずなのに、なんだか上手く丸め込まれてしまった。
拒絶ではない田仲の笑顔に、松下の表情が柔らかくほころぶ。
「田仲はオレのこと、好きか?」
それは止めの言葉。
「嫌いなわけ無いだろう?」
ただし求められているような関係の対象でなく、だけど『友達』の範囲だけでは収まらないのも確かで……
「じゃあ、好きなんだ!」
「好きだよ。でもね」
プロポーズを受けるつもりは無い。どう考えたって変すぎる。
だけど田仲だって知っていたはずだ。
――藤田東に居るのは変人ばかり。
そしていつの間にか、田仲も『変』に染まっていた。
嬉しさに目がくらんだ松下が、愛しい相手に向け微笑を浮かべた顔を寄せていく。
抵抗も無く、柔らかく重なるキス。
酔った上での曖昧な出来事でなく、脳髄の新から痺れるような充足感に包まれる。
キスされた田仲の方は、昨晩とは全く違う、不思議な戦慄に支配されていた。
やがてキスは熱を帯び、松下は気持ちに逆らう事無くのしかかるようにして田仲の身体をベッドに押し倒した。
田仲も今度ばかりは心底驚いた。この状況が何を意味するのか知らないほど純じゃない。
起こりつつある事態に怯え抵抗を始めたが、すでに機会は失われていた。
身体に力が入らない。左のキック一発で逃れられる筈なのに!
「田仲、好きだ……たなかぁ」
キスの合間に名前を呼び続けられ、ついその切なく甘い声と表情に絆された。
――松下なら、良いか。
恋愛対象としてなら女の子(一美)が好きなのだけど、それと比べるのとは別次元で松下のことも好きなのは真実だ。
それに行為自体にも……ちょっとだけ、興味があった。
持って生まれた優柔不断さが様々な因子と交じり合い、最後の後押しをする。
キスに答えるようにさなかに腕を回し抱きつくと、許しを得て勇気付けられた松下の手が、パジャマを潜って素肌に触れた。
唇だけに降りていたキスが顔全体を啄むようになり、やがて耳たぶから首筋を辿り、肌蹴られた胸元にまで送られて行く。
そのままパジャマを脱がされても、田仲はされるがままだった。
共に全裸となった姿が、降り注ぐ昼の陽光に照らし出されている。
赤く火照り汗が滲み出した身体を摺り寄せて、初めての行為で湧き出す快感を追う。
擽られて、背が仰け反る。
愛撫されて、声が漏れる。
「あ……ああっ……う……んっ!」
「ふっ……うう、あ」
一瞬ごとに艶を増す声が、互いの感覚を煽って行く。
深いところで結ばれる頃には感覚はぎりぎりまで引き絞られ、介抱の瞬間は二人同時に訪れた。
「大丈夫か?」
「ん、ん〜。あんまり平気じゃない」
熱が過ぎ去った後のまどろみを終えて、最初に発したのはこんな質疑応答だった。
ずっと欲していた相手を腕にして手加減が出来なかった松下のおかげで、田仲のダメージはかなりのものとなった。――まあ、それと同等の心地良さも貰ったのだけど。
うつ伏せで寝ているのは、痛みを少しでも和らげるためだ。
痛みは、普段痛むことの無い一点から注ぎ込まれるように全身に染み渡り、指一本動かすのも辛い。
そんな田仲の様子を見て取り、松下は背中を優しく撫でて慰める。
「ごめん。今度はもっと上手くやるから」
途端に田仲のせがぴくりと跳ねた。
「今度って……?」
恐る恐る顔を上げると、自信満々な松下の表情が目に入った。
「コツは解ったんだ。次はそんなに痛くないように出来ると思う」
「松下ぁ……」
脱力だ。その自信はどこから来るんだ?
文句を言おうとして、しかし項(うなじ)にキスを落とされ言葉を失ってしまう。
「大好きだよ」
松下の優しい声。
その呼びかけに『オレも好き』とは言わない代わりに、、田仲は伏せた顔に微笑を浮かべた。
身繕いを整えてから、部屋の空気を入れ替えるために窓を開ける。
途端に外からは、祭囃子が聞こえてきた。
秋の風が二人の周りに優しく纏わり付く。
田仲の気持ちの整理はまだ今ひとつだけど……
とりあえずは既成事実も加わって、『両思い』になった二人だった。
祭りの喧騒の中、関と西尾は彼らの可愛い後輩のことを噂しあっていた。
「上手くやったかな」
「やったんじゃないか?」
「しっかし、茨の道だよな。ロミオとジュリエット?」
「まぁおかげで、楽しませてもらえそうだ」
にんまりとした顔を見合わせる二人の背後には、昇り龍ならぬ、j不穏なオーラが立ち上っている。
「ほんっと、オレ達って後輩だよな〜」
「だな〜♪」
……恐ろしい恋のキューピッドを持ってしまったことを、生まれたての恋人達はまだ気付いていなかった。
と、こっそりオマケv気付く人、居るかしら?
終わり 1998,3.29 azure blue発行コピー本(絶版)
トシ好き仲間の早坂さまといとうさまへささげたお話です。
一応BL小説風を狙って書いてみたのですが、何か間違っているような……(^_^;)
松下×トシも、好きなんですvvv
さて、これのDEEPバージョンを書こうか止めようか迷い中。どうしよう……。
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