桜 花(後編)






 先に神谷の家に寄って両親に挨拶をしてから、改めて久保の家へ向かった。

 バス停二つ分の距離を、肩を並べて歩く。
 私服に着替えた神谷は、いつもより口数が少なかった。






 久保の家に着くと、あれよと言う間に卒業祝いの席に着けられた。

 テーブルには手作りの御馳走。
 ノンアルコールのシャンパンまで用意しているあたり、久保家の明るい家風がしっかり出ている。
 食事の最後に久保の父親からプレゼントまで渡されて、すっかり神谷は恐縮してしまう。なのよ
 小さな包みから出てきたのは、革製の定期入れだった。
「嘉晴と仲良くしてやってくれよ。和が息子ながら、こいつは何処か抜けてるからなぁ」
「その上優柔不断なのよ」
 コロコロと笑われて、久保がムッとする。
 そんな様子に神谷は小さく吹き出してしまった。
―こいつが優柔不断? 全くの無から理想のサッカーチームを作り出そうなんて言う大胆な計画を持つ奴が、優柔不断なもんか。
 やっと緊張を解いた神谷を見て、久保はホッとした。―スポーツ店の前での出来事以来、見えない壁があるような感じだったけど、もう大丈夫。

 和やかに食事は進む。

 だが、久保の両親の何気ない会話に、再び神谷の態度が硬くなった。

「何だかルディくん思い出しちゃった。神谷くん似てるのよねェ」
「ああ、嘉晴とコンビ組んでいた子だね」
「髪と瞳の色を変えたら、そっくりじゃない?」
「う〜む、そこまで似てたかなぁ?たしかお父さんがプロでエースだったんだっけ」」
「きっとあの子もプロになるんでしょうね。凄く上手だったし」

 神谷の知らない、ドイツ時代の話。

「オレに、似てる?」
 訊いてきた神谷に、久保は困った風に笑った。
「そう…顔は似てるかな。サッカー好きなところも。でも他はそんなに似てないよ」
「そうか…」
 しばし考え込み、気を取り直したように食事を続ける。
 ことさら陽気に振る舞う姿に違和感を感じたのは、久保の思い過ごしではなかった。






 久保の部屋に上がり、明日から一緒に行おうとしている練習内容を検討したり、高校に入ってからの夢を語って過ごす。






 夕方。

 晩ご飯も食べていかないかとの誘いを断わって、神谷は暇(いとま)を告げた。

「じゃあ明日。北池公園な」
「ボールはオレが持っていくから」
「ああ」
 玄関先で手を振って、うっすらと赤みを増した西の空を背景に帰って行く。

 角を曲がって、姿が消える。
 その家の塀から、二分咲きの桜の木が顔を出していた。












 神谷から電話があったのは、夜もずいぶん経ってからだった。

 テレビの洋画劇場を見ているときに鳴った電話の向こうで、酔っぱらい特有の饒舌さで一歩的に喋りまくっている。

『花見してんだよ。出てこ〜い!』
 ケラケラと笑う。
 やっとの思いで場所を聞き出すと、お互いの家のちょうど中間点にある小さな公園に居るという。
 だけど会話が終わらない内に受話器の剥こうからブザー音がして、しばらくすると突然電話が切れた。
「公衆電話か」
 確かあそこの入口には、公衆電話があった。
 でも番号を知らないし、連絡の取りようが無い。
「ちょっと出掛けてくる!」
 映画を見続けている両親に声を掛けると、少しでも行くために久保は普段あまり乗らない自転車を引っ張り出した。












 今日はとことん焦る日だ。
 夜道を自転車のライトで照らしながら思う。

 やがて見えてきた公園の入口側にある電話ボックスに、人影を見つける。
―間違えない、神谷だ。
 もう切れている通話機に向かい、愉快そうに話している。

 自転車を降りてボックスのドアを開けると、アルコールの匂いがした。
「神谷…」
 声を掛けるとビックリして振り向き、通話機と久保を交互に見た。
「あれ?テレポートでもしたか?」
「電話、切れてるよ」
 言われて慌てて受話器に耳を押し当て、何も音がしないことを確かめた。
 バツが悪そうに、フックに掛ける。
「十円、切れてたかぁ」
 久保は十円でそんなに長電話が出来る訳じゃないと言おうとして、やめた。代わりに腕を取り、ボックスの外に連れ出す。

 足元が定まらないのを見て、取り敢えず公園のベンチに導き座らせる。
 神谷が飲み散らかしたらしいビールの空き缶と食べ終わっているスナック菓子の袋をまとめ、ゴミカゴに捨てた。

 ビール缶は3本。未成年の飲む量じゃない。

「誰かに見つかったら、補導されるところだぞ」
 隣に腰掛け注意するが、神谷は聞いていない。
 普段でも人通りの少ない住宅街だったから助かったのだ。
 まして今日は土曜日で、人通りは全くと言っていいほど無い。特別暴れたりわめき散らしていた訳ではなかったから、近所の人にも気付かれずに済んだのだろう。
 こんな時期に補導なんて、折角合格した掛高に合格取り消しされたらどうするつもりだ!
「お前、家に帰ったんじゃなかったのか?」
「ん、帰ったぜ〜。でもって、抜け出してきた。だぁ〜ってほらよォ」

 首で指し示した先に、二つの桜が並んでいる。
 片方は満開。もう一つは季節に合った二分咲きの花を纏っている。
 電話ボックスの横に一基だけある街灯と夜空に浮かぶ半月の光に照らされて、それはなかなかに美しい光景だった。

「きれェだろォ〜?昼間のより小ぶりだけどさ」
 上機嫌で肩を抱いて来る。―息が、酒臭い。
「お前、飲み過ぎだぞ」
「飲みたかったんだよ〜、いいじゃねェか」
 ちょっとふてくされて、そして急に俯いた。
「!気分、悪いのか?」
 慌てて背中を擦ろうとする久保の手を振り払い、神谷は立ち上がった。フラフラの足取りで満開の桜の方に近付く。

 木の根本で立ち止まり、幹に手を突っ張り、花を見上げた。

 花を見上げたまま、久保に声を掛ける。
「お前さぁ、ドイツに戻りたいって、考えたこと無いか?」
 座ったベンチから立ち上がった久保の表情が疑問で凍る。
「何言い出すんだ?」
 然し神谷話を止めない。
「じゃなかったらよ、掛北でも藤田東でも、清水だって帝光だって、ああ、クラブチームだっていいよな…」
「神谷!?」
「とにかくさぁ、どっかサッカーの強いとこ。お前が居ても『もったいなく』無い所」
 上を向いたまま愉快そうに言う神谷の態度に、久保は怒って立ち上がった。
「何を言ってるんだ!オレの決意は知っているだろ?お前だって解ってくれたじゃないか!」
 小走りに走り寄る。
 だけど神谷は体勢を変えない。
「桜ってさぁ、『日本』って感じするよなぁ」
 まるで先ほどの台詞を忘れたかのように、話題を桜に戻す。

 そして頭上の花に向ってジャンプした。

 だけど酔いは、普段の運動神経を鈍らせていた。
 ジャンプの距離は中途半端に終わり、着地の足元も大きく揺らぐ。

「おぉ?」
「危ない!!」

 久保は自分でも信じられないくらい強い力で、神谷の身体を背後から捕らえた。
 胸に深く抱き込む。
「大丈夫か?」
 驚きに目を見開く神谷の瞳を覗き込み、それがほんの少し潤んでいる事に気が付いた。
 酔いのためか…それとも…?
「あ、すまん」
 礼を言って離れようとする。
 しかし久保の腕の力は抜けなかった。
「離せよ〜、も〜う大丈夫だからさぁ」
 呂律の回らない舌を何とか平然と動かそうとして、ゆっくりと喋る。
 だが久保は首を横に振った。
「くぼぉ〜」
「神谷は、オレがいらないのか?」
 静かな声。
 だけどそれは苦痛に満ちている。
「久保?」
 瞬間、神谷の酔いがサッと引いた。首を捩ってまじまじと久保を見る。

 目にしたのは、昼間絡んできた三人に向けたのと同じような、酷く傷ついた表情。

「一緒に夢を叶えるんじゃなかったのか?」
「久保…」
「どこに行ったって駄目なんだ。オレがしたいサッカーは、お前とじゃなくちゃ」
「…お前だったら、どこででも自分のサッカーが出来るだろうが」
 神谷の身体から力が抜けた。
 捩った首を真っ直ぐに戻し久保から目を逸らすと、自分で立つのを諦めて寄りかかる。
 見えるのは、夜目に白く浮かび上がる桜の花びらだけ。
 背中越しに、久保が大きく息を吐いたのが解る。
 その吐息に背中を押されるように、神谷は思っていたことを口に出した。
「昼間のな、あいつらがオレを嫌うのも仕方がないんだぜ。ほらぁ、頑固だし口悪りぃし愛想は無いし。ヤマハでも浮きまくってたんだぜぇ〜。もうど〜しようもねェってぐらい」
 戻ってきた酔いに任せて一気にまくし立てる。久保の顔が見えないから、何を言っても平気だ。
「だからオレなんか構わずにさぁ〜。ルディとやらみたいにさぁ、プロ間違いなしの奴とかさ、お前にふさわしい相棒を見つけて…」
「お前、悪酔いしていのか?」
 低い声。だけど振り向かない。
 そんな神谷に、久保は焦れた。ぐったりと寄りかかってくる身体を反転させ、真正面から抱き寄せる。
 抱き締められた神谷は顎を久保の肩に乗せ、視線を今度は地面に向ける。
「酔って…んだろ〜な。でもな、何だろうな」
 酔いと屈折した思いに鈍ってしまった頭では、もうロクに考えられない。
「酔っぱらいの戯れ言なら、聞き流す」
 久保のキッパリとした口調に、小さく首を振る。
「なぁに怒ってるんだよぉ…」
 呟く言葉に、久保は小さな笑い声を発した。
「久保ぉ〜?」
「怒ってるよ・お前、忘れてるだろ」
「何を?」
「『お前サッカー好きか?』」
「!」

 腕の中で、神谷がピクリと跳ね上がる。
 反射的に上げた顔の触れそうなぐらい間近に、久保の真剣な表情がある。
―傷つきも怒りもなく…
 穏やかとさえ言える瞳が微笑する。

「神谷とのサッカーが一番楽しい。神谷は、オレとサッカーしても楽しくなかった?」
「楽しいに決まってるだろ!」

 思わず叫んで我に返る。
―忘れていた
 今日一日、感情の振幅が大きすぎて、忘れようとしていた。
―こんなに単純で、大切だった事

 今度こそ本当に酔いが醒める。
 神谷は久保の肩から顎を上げて姿勢を正すと、自分の足でしっかり立ち、向き合った。

「神谷…?」
「…オレも…お前とじゃなくちゃ嫌だ。一緒なのが一番楽しい」

 自分の言葉に驚き、次に納得する。

 蘇る、真新しいグラウンドの、真っ白なラインの幻影。

 あそこで思い描いた通りの、理想のサッカーをする期待と喜び。
 その夢が見られるのは互いが一緒にいるからで、きっとどちらかが欠けても叶わない。
 それに…そう、サッカーがなくっても離れたくない。
 人生で一番大切なパートナー。

 神谷の顔に、穏やかな笑顔が浮かぶ。
 言葉と共に笑顔を送られて、久保の表情が瞬時に喜びで輝いた。
「ったく、この酔っぱらいが。いつもの自信はどうしたんだよ」
「あ…」
 言われて神谷は、バツが悪そうに瞳を細める。
 その一瞬、久保の顔が更に近付いた。

 掠め取るような、柔らかなキス。

「え…?」
 何が起きたのか解らなくて閉じかけた瞳を再び見開いた神谷に、久保はニッコリと笑いかけた。
「これだけは覚えていてくれよ。何があってもオレは神谷が好きだ。神谷のサッカーも、神谷の事も、他の何よりも好きだから…一緒にやろう」

 聞きようによってはプロポーズのような台詞。

 そして神谷は、厳粛な表情で頷いた。












「しっかり掴まっていろよ、酔っぱらい!」
 自転車の荷台に座った神谷に声を掛ける。
 神谷は久保の身体に回した腕に、力を入れ直した。

 夜道を、自転車が疾走していく。

 行き先は神谷の家なのだけれど、二人の想いが走っているのは来月から始まる高校生活の方だ。

 車輪のたてる、シャーという心地良い音。
 それ以上に心地良い、互いの体温。

 道の先は暗くて見通しは悪いけど、二人ならきっと『夢』に辿り着ける。

 幸福に、二人共が微笑んでいた。






                                   終わり



                              1999.05.02執筆。
              コピー本「桜花」 サークル・azure blue発行(絶版)







前編に戻る目次へ



 題名の「桜花」には、意味を込めました。
「おうか」=「桜花」「追花」「謳歌」「逢彼」そして「追う彼」
 言葉遊びのようですが、音から浮かぶイメージで、この題名を決めました。