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卒業式会場の講堂から出るまでに、かなりの時間がかかってしまった。
ところが校門に辿り着くと、今度は他校の女子生徒達が『必死の決意・期待・恥じらい』をミックスした笑顔を浮かべ、互いに牽制し合いながら、花束やプレゼントを持ってこちらに向かってくる。
先程から何度も繰り広げられる光景。
「あらあら」
「嘉晴、お前人気あったんだなぁ」
この数時間で知った息子のモテ具合に、両親としては結構気分が良い。
男子からは友情のこもった別れの挨拶を、一部の女子からは恋心を送られ続けている。
帰国して半年だけしか通わなかった中学だけど、どうやら楽しい学生生活を送れたようだ。
だけど本人の方は、とても構っていられる状態ではなかった。
たった今卒業したばかりの校舎を振り返ると、外壁に設置された時計で時間を確認する。
―思わず背中を冷や汗が流れた。
もうこれ以上、時間を食うわけには行かない。
こうなったら強行突破だ!
「父さん、母さん、これ持ってて!」
父親の手にリレーのバトンのように卒業証書の入った黒筒とプレゼントを入れた紙袋を、母親には一抱え近くの量になってしまった花束を手渡す。
そして試合中さながらに、当りの状況を把握すると素速くドリブルコース…もとい脱出コースを読み取りダッシュをかける。
「あ、嘉晴!?」
「あとで神谷連れてくるから!」
振り向きもせずに声高に告げると、あっと言う間にその姿は駆け去っていった。
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ついこの前までは寒かったというのに、この数日で世界は急に春色を濃くしている。
沈丁花の香りが失せ梅が散ると、ほとんど間を置かずに硬い樹皮の下に眠っていた桜の蕾が一斉に目を醒した。
まだ咲き始めで花はまばらだけど、何処の世界にもせっかちな奴は居るらしく、木によっては満開になっているものもある。
待ち合わせに選んだ『一緒に理想のサッカーをしよう』と誓った想い出の公園にある桜も、気の早い内の一本だった。
大急ぎで走ってきた久保が目にしたのは、こちらに横顔を向けて静かに佇む神谷の姿だった。
満開になった桜の下に立った神谷は、凄く眩しそうに空を仰いでいた。
右手には卒業証書の入った筒。左手には在校生から胸に着けてもらっていたコサージのカーネーションを外して持っている。
微かに吹く風に髪を揺らし、たまに散る花びらを目で追う横顔は柔らかく微笑んでいた。
それは久保にとって、気持ちの良い光景。
思わず声を掛けるのも忘れて見惚れてしまう。
どのくらい見つめた後だろう。不意に神谷がこちらを向いた。
始めはいつの間にか来ていた久保に驚いて、次いでずっと見詰められていた事にバツが悪そうな顔をして、ムッツリと睨み付けてくる。
だけど一瞬で怒りの表情は消え、すぐに浮かんだのはからかうような笑顔だった。
「遅かったな」
「…すまん。ちょっとアクシデント」
「はは〜ん、捕まったな」
珍しく学ランの前を開けていると思っていたが、見ればボタンがずいぶんと無くなっている。
「うん、あ、ちょっと」
困ったように頬を掻いて照れる脇腹を、証書入れの筒で突いてやる。
「いいよな〜、モテる奴は。まさか卒業証書までブン盗られたか?」
「走るのにジャマだから、父さんに預けてきた」
「それにしても悲惨なカッコだな」
「そんなに酷いか?」
「ま、男の勲章だろ」
スイッと近付き、手にしていたコサージを差し出してやる。
「これでも着けろや。少しゃマシになんだろ」
言われるままに受け取って、安全ピンで胸に留める。増加のカーネーションはカサカサと乾いた音を立てて、心臓の上に赤い色を添えた。
「うん、これでずいぶん卒業生らしくなった」
神谷が満足げに久保を見る。
カーネーションから下がった白いリボンに書かれた文字は『ご卒業おめでとう』。これなら誰が見ても、ボタンが取れている理由が解るだろう。
「お前ん学校(とこ)じゃ、こういうの着けないのか?」
ちょっと言ってみただけの質問だけど、
「あ〜、盗られた」
間延びした答えが返ってきた。
神谷を軽い目眩と頭痛が襲う。こいつと来たら、サッカーのプレイだとずる賢いくらいに切れ者なのに、何で実生活だと抜けているんだろう?
「…身ぐるみ剥がされなかっただけでも幸運か」
「ははは」
「笑い事じゃねぇだろ」
「ごめん」
素直に謝られて今度は脱力する。
「もォ、いい」
「ん」
久保お得意のニッコリ笑いが、神谷に止めを刺した。ヘタリとその場にしゃがみ込む。
「神谷?」
「疲れた」
「大丈夫か?」
「お前が言うか…」
俯いてしまった神谷の後頭部に、風に散らされた桜の花びらが一枚ふわりと舞い降りた。
サラリと流れる黒髪に絡む、白い花びら
本人は気付かない、その鮮やかな対比
久保は無意識に手を伸して花びらを取ろうとして、触れる寸前に動けなくなってしまった。
花びらの絡む髪のすぐ先に、無防備に晒け出されたうなじが見える。
花よりも鮮やかに、温かく滑らかな稜線が網膜を焼く。
心臓の鼓動が早まり、頬が熱くなる。
慌てて屈みかけていた身を起こし、神谷に背を向ける。顔を見られたくなくて桜を見上げた。
花の色と空の雲とが溶け合って、天に向けて何処までも高く枝を伸した桜の巨木が立っているような錯覚に襲われる。
―まるで、夢を追っているようだ。
高く遠く、遙かな空を目指して…。
勢いを付け、沢山の花を咲かせた枝に向かってジャンプする。指先に感じる、花びらの柔らかな感触が優しい。
いきなり桜の枝に飛びついた久保を見て、神谷が立ち上がり横に並んだ。
「久保ぉ、枝折るんじゃねぇぞ。桜は傷に弱いんだからな」
「そんなことしないよ。ちょっとさ、届くかなって」
もう一度ジャンプ。先ほどより上の方の花の塊に手が届く。
勢いで花びらが数枚散った。
「あ〜あ、ガキっぽい事すんなよ」
呆れて眺める。神谷は久保の頬が赤いのを、一生懸命ジャンプしたせいだと思って笑った。
その笑顔に、治りかけていた久保の動悸がまた少し早まっってしまう。
「神谷は届く?」
ごまかす為に挑発的に尋ねてみる。
「馬鹿にすんなよ」
挑戦されて神谷は、鼻で笑いながら久保に卒業証書の筒を手渡した。
狙いを先ほど久保が触った枝に定め、勢いを付けて身を屈めると、縮めたバネを解き放つように全身を伸して地面を蹴り上げる。
「おりゃぁ!」
威勢の良いかけ声と共に宙を駆け昇る。
目一杯伸した手の先が、久保と同じ桜の花々に触れた。
再び数枚の花びらが散る。
同時に神谷の髪に絡んでいた花びらも宙に放たれた。
久保の目にスローモーションのように、一連の動作が焼き付けられる。
着地して満足げな笑顔を向けられたとき、心臓が止るかと思った。
「こんなの楽勝!」
言いながら伸された手が、持たされていた卒業証書を取り上げた。
その筒でポンと頭を叩かれ我に返る。
「なにボケッとしてんだよ」
「あ…ああ」
「なんだよ、オレが出来たのがそんなに意外だったのかよ」
気を悪くした神谷が睨んで来る。
慌てた久保から言葉は放たれた。
「違う、見とれてた」
「はぁ?」
「わ!ああ、ああ〜」
ポロリと零れてしまった本音に、今度こそごまかしようがないくらいに赤面して口を押さえた。
そんな久保の反応に神谷は再現のない『?』マークを頭に浮かべた。
「お前、変だぞ」
「は…花が散って、綺麗だなって」
「???」
久保の顔と桜の花を見比べて、神谷は『こいつは自分の言った台詞に照れているんだ』と結論を出した。―確かに桜の花は綺麗だし、自分も久保を待つ間に散る花びらに見とれていたから。
とは言え今ひとつ納得はいっていない。
なにやら焦り続けている久保を見続けて、意外なことに気が付いた。
「?お前、第二ボタン残ってんじゃないか!」
てっきり最初に盗られたと思っていたのに…
指摘され、久保はちょっとだけ表情を歪めた。
「だって…仕方ないじゃないか」
「何が仕方ないんだよ」
「好きでも何でもないのに渡しても…相手に失礼じゃないか」
そんな台詞に、神谷は思いっきり顔を歪めた。
「あ〜あ、お前、結構ヤな奴」
「かみやぁ〜」
「変なとこ真面目なんだ。オレだったら喜んであげちまうな。…まぁ、可愛い子限定だけど」
最後におどけて、すっかり困ってしまった久保の背中をバンバンと叩いてやった。
「神谷〜」
「一人でモテやがって。こいつ、羨ましいぞ」
からかいの笑顔。
それを見て久保にも笑顔が戻る。
そして突然、自ら残っていた第二ボタンを千切り取ってしまった。
「?」
何をするんだという疑問符を浮かべている神谷に、盗ったばかりのボタンを差し出す。
反射的に受け取った神谷に向かい、満足そうに微笑んだ。
「久保ぉ…これどういう意味だよ」
不審そうな声を出す神谷に、更に笑顔の光度を増してみせる。
「ハンパに残しておいても仕様がないだろ?」
「何でオレに渡すんだ?」
「ほんの、シャレ」
「お〜ま〜え〜はぁ〜!」
思わずボタンを握り込んでパンチ一発。
だけども久保は素速く身を翻すと、神谷の正面に回り込んだ。
「代わりに神谷の第二ボタン、貰える?」
「てめぇ、調子に乗るんじゃねェッ!!」
怒りで真っ赤になった顔で睨み付けても、久保には全然通用しない。にこにこと笑い返されて、神谷は…諦めた。
「まったくもう…」
「苛めたお返しだよ」
「はぁ〜」
深い溜息。握ったままだったボタンをどうしようかと考えて、面倒なのでポケットに突っ込んだ。
「…じゃ、さっさと行こうぜ」
卒業式の後に、この公園から掛川高校に行こうと言い出したのは、どちらが最初だったろう。
「なんだ、ボタンくれないんだ」
「馬〜鹿。そうそう冗談に付き合ってられるか」
久保に盗っては冗談でも無かったのだけど。本当に貰えたら嬉しいな〜と思っていたりして。
先に歩き出した神谷の背中に複雑な視線を送ると、久保は小走りに後を追いかける。
公園の出口で神谷に追いついた。
互いに顔を見合わせ頷くと、肩を並べて掛川高校へと出発した。
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まだ誰も居ない校舎に『卒業の挨拶』と洒落込んだのは、入学が待ち遠しすぎたからだ。
閉められていた校門を、見回りに来た警備員に頼み込んで開けてもらう。
当初の予定ではよじ登って侵入しようと計画を練っていたのだから、これは幸先の良いことだ。
「そんなに高校生になるのが楽しみなのかい?」
春休み中のバイトだという警備員は大学生で、高校時代野球部に所属していたと、バックネットが設置された野球場を見て懐かしそうに呟いた。
その手前にあるのが、まだラインは引かれていないけれど、たぶんサッカーグラウンドになる空間だ。
道路に面したフェンス側に二つ並べられた真新しいゴールポストが二人を出迎えた。
「すげぇ…」
そっと触れて、神谷が呟く。
久保の方は地面の感触を楽しむように、しゃがみ込んで指先で土を摘み上げた。
そんな二人の少年の様子に、警備員は笑顔を深くした。
「じゃあ、帰る時に声を掛けてくれよ。宿直室に居るから」
手を振って、真新しい校舎の方へ去っていく。
「「ありがとうございます!」」
その背中にハモった礼の言葉を書けると、二人は並んでグラウンドを見渡した。
微かな風が、春の香りを運んできている。
太陽の暖かさと、花の柔らかさと、夢の甘さ
そのまま眺めていると、引いていないはずの白いラインが見えてきたような気がした。
「…いよいよだな」
「ああ、これからだ」
改めて向き直ると、お互いに神妙な表情をしている事に気が付いた。
「本当に、一から始めなきゃな」
「言い出しっぺが、今更言うか?」
「決意を新たに、ってヤツさ」
自信に満ちた瞳が、同意を求めて真っ直ぐに見つめてくる。
―ああ、この目だ。
神谷は思う。
隠すことの無い信頼の色を浮かべて見つめられる事が、何でこんなにこそばゆいくらいに嬉しいんだろう。
高校の三年間を無駄にしてしまうかも知れないような夢に賭けようと決意したのも、それが自分にとっても理想的に思えたからなのは勿論だけど、一番の理由はこの瞳が見据える先を一緒に見たいと思ったからだ。
「まぁ、よろしく頼むぜ」
笑顔で手を差し伸べる。
交わす握手は力強く、温かい。
それは二人だけの、少し気の早い入学式だったのかも知れない。
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警備員に見送られて学校を出る。
駅までは一本道。
土曜日の昼下がりの商店街では、子供や学生の姿が多い。
春の光の中、泳ぎ回るように人は行き交う。
二人の足がスポーツ店の前で止ってしまうのは致し方ないことだろう。
ウインドウに展示されたシューズに目が行く。
バスケと野球用に挟まれて、サッカーシューズが置かれている。
「お!アディダスのニューバージョン」
「履きやすそうだな」
「でも高い〜」
別段買うつもりもないので冷やかして笑う。
気分が浮かれている。
中学を卒業して、高校に入るまでの自由時間。
―サッカーとこれからの事だけを考えていればいい。隣にこいつが居れば何も心配はいらない。
そんな状態だったから、突然の出来事に二人は何の構えも取れていなかった。
「よう、神谷じゃねェか」
不意に背後から声が掛けられる。
振り向くと学生服の集団が、こちらの方を少し気にしながらも通り過ぎようとしていた。
声を掛けたのはその中の一人だった。
列を抜け出して、真っ直ぐか宮野法に向って来る。他にも二人が立ち止まった。
三人は先に行く仲間にすぐ追いかけると声を掛けると、神谷に向き直った。あまり友好的とは思えない笑みが浮かんでいる。
「…ちっ」
神谷の小さな舌打ちに、久保は状況を漠然と捉えた。
「菊水中のヤツ?」
「ああ」
答える横顔は無表情だったけれど、そこに怒りと痛みが潜んでいる事を久保は見逃さなかった。
「一緒にいるのは『久保嘉晴』じゃないか。本当にお前、有名人のオトモダチだったんだな」
突然話を振られて、久保は目を見開いた。
神谷は久保を庇うように袖を引いて、その場を離れようとする。
だけど行く手は、別の男子生徒に塞がれた。
「これから送別パーティーなんだ。お前も一応元部員だからな。来るか?」
「なんならオトモダチも連れてきて構わないぜ。久保嘉晴なら大歓迎だ」
言葉とは裏腹に、口調は嫌味に溢れている。
久保は確信した。
こいつらは神谷を追い出したという、菊水中サッカー部の当事者なのだ。
「遠慮する。オレが行っても場がシラケるだろ」
神谷が睨みながら、無愛想に答える。
その答えに、三人はやれやれというように肩を竦めて見せた。
最初に声を掛けてきた男が、今度は矛先を久保に向ける。
「あんた凄いよなぁ。アジア大会ベスト11だろ?弱っちかったヤマハも強豪にしちまうしさ」
「あ…」
なんて答えたら良いものか解らない。
「お前ら、パーティーなんだろ?遅れるぞ!」
早く行けと神谷が怒鳴る。
だがまだ彼等は絡んできた。
「でももったいないよな。掛川高校なんだって?あんな新設校、せっかくの才能の持ち腐れになっちまうぜ。まぁもっとも…」
再び神谷に向き直る。
「お前にとっちゃやりやすいよな。好き勝手に出来そうだし、突っ走っても天才がフォローに入ってくれるだろうしさ」
言葉に、神谷の怒りが煽られていく。
「なん…だとォ」
身を震わす神谷を見て、満足げに笑う。
その様子に、神谷よりも先に久保が怒りに切れそうになる。
―なぜこんな何も知ろうとしなかった奴に馬鹿にされなくてはいけないんだろう!
一瞬即発の寸前
だが、意外なところから助け船は出された。
「谷口、やめろ」
今まで三人の内でただ一人少し離れて黙っていた男が、絡んでいた『谷口』に近付いて肩を叩いた。
「北沢ぁ」
「言い過ぎだ。学校卒業したんだし、もういいじゃないか」
「あ〜あ…」
急に興味を無くしたように、谷口は引き下がった。神谷と久保の進行方向を塞いでいた残りの一人も、身体を避ける。
「すまなかったな。卒業して浮かれてんだよ」
北沢は軽く頭を下げると、仲間に声を掛けた。
「ほら、行くぞ!」
早くいこうと促す。
神谷は顔を背けると、一刻も早くここから離れたいと言うように、無言で久保の腕を引いた。
然し久保は腕を振り払って、去ろうとしている三人の背中に声を投げつけた。
「オレはお前達なんかとサッカーをしようとは、絶対に思わない!」
強い口調に、三人が振り返る。
「神谷のことが解らなかったあんたたちとじゃ、きっと楽しいプレイは出来ないだろうな」
神谷が初めて聞く久保の冷たい声。
驚いて久保を見る神谷の目に飛び込んだのは、酷く傷ついたような表情だった。
だけど三人はそれには気付かないで、軽く笑って小走りに立ち去っていった。
言いたいだけ言ってさっぱりしたのか、久保の表情が軟らかくなっていく。
神谷に見つめられていたことに気付いて、恥ずかしそうに笑った。
「久保…」
「お前、大変だったんだな」
半年だけだったけれどそれなりに学校を楽しんだ自分と比べ、ずいぶん辛かっただろう。
「―ふんッ…」
同情され、神谷は無愛想にそっぽを向く。
中学時代の悲しみと怒りなんて、もうどうでもいい。今は信頼、し認めてくれる久保が居るから。
―だけど…
別の想いに、神谷は歩く速度を速めていった。
続く
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