まだ暑くなりきらない日差しが世界(フィールド)を包み込んでいる。
その世界の中心に据えられたボールを前にして、久保はもう一度周りを見回す。
午後の練習を締め括る恒例のミニゲーム。仲間がそれぞれのポジションで、キックオフの瞬間を待ちかねている。
最後に隣に立つ神谷に目で合図すると、みながいっせいに一つのボールを追いかけて走り出した。
夢のような光景。
誰かに『幸せの風景』を描けといわれたら、迷い無くこの場所を選ぶだろう。
真新しい学校の、真新しいグラウンド。
新調したそろいのユニフォームを着た仲間達は、全員が心からサッカーを楽しんでいる。
正直に言えば、確かに掛高のレベルは、フランクフルトやヤマハと比べれば未熟だ。
それでも一人一人がサッカーに向ける純粋な情熱は、どこのチームにも負けていない。
この『情熱』小祖が、一番大切だと思う。
この気持ちを持ち続けている限り、確実に掛川は強くなる。この前のインターハイ予選でも、それは十分に証明された。
神谷からボールは水野に渡り、PKエリアに入ったところで赤堀に奪われる。
赤堀のロングパスは、綺麗に大塚に通った。
パワーで中央突破を仕掛けてくる大塚に対し、服部が付いた。
執拗なディフェンスは大塚の隙を生む。服部に気を取られている背後から、神谷がスライディングでボールを奪い返す。
「久保!」
掛け声と共にパスが出る。
久保はサイドラインの限々で受け取ると同時に走り始めた。
しかし流れを察知して上がってきていた赤堀に進路を塞がれて、その間に大塚と石橋にも追いつかれてしまう。
だが神谷が逆サイドを走っていた。
送られてきた視線を捕らえると、神谷はチラリとゴール前の空間の二箇所を順番に視線で示した。ワンツーの合図だ。
躊躇う事無くサイドチェンジのパスを送り、シュート体制を取った神谷に気を取られたディフェンスを抜き去る。
シュートと見せかけた神谷から、ゴール前に走りこんだ久保に絶妙なパスが戻る。
ボレーで打ち込んだシュートは、GK小笠原の頭上を掠めてネットに突き刺さった。
『ああ、l気持ちいいな』
悔しがる小笠原には悪いが、思わず笑みがこぼれてしまう。
「ナイスシュート!」
声を掛けられると同時に肩を掴まれて振り返ると、そこには神谷の笑顔があった。
「お前も良いアシストだ」
神谷の胸を軽く拳骨で叩き、笑顔を返す。
気分がさらに浮き上がる。
所がその時、大塚の乱入があった。
神谷の首に手を回し、乱暴に引き寄せる。
「わっ!何すんだよ!」
慌てて腕を振り払い睨み付けて来る神谷の視線を、大塚は気性のまま豪快に笑い飛ばした。
「ったく、やってくれるぜ。てっきりお前が決めると思ってた」
「ば〜か、オトリだよ。あっちの位置のほうが確実だ」
「そうなんだよな〜。結構お前、回り見てるんだよな」
「どういう意味だよ」
「オレにも今度、あんなの回してくれよ」
「お前が良い位置に居ればな」
「おうよ、まかせとけって!」
大塚が笑いながら神谷の肩を叩く。神谷も抵抗無く自分よりも頭半分以上背の高い大塚の肩に腕を回し、肩を組む格好で愉快そうに笑った。
その光景に、久保にも自然と笑顔が浮かぶ。
神谷が笑っている。
始めてあったヤマハのグラウンドで自分以外は信じない態度を取っていた過去の姿を思い出せないほど、心から楽しそうだ。
神谷の笑顔は、何時も久保を暖かな気持ちにしてくれる。
だけど…最近少し変だった。
時々胸の奥を何かの力が押さえつける。
苦しいよな切ないようなl、不思議な感覚に押しつぶされそうになる。
自然に身体が動いていた。
笑い合う神谷と大塚の間に割って入って引き剥がす。
『何だ?』と言うように見詰めてくる二人に対し、にっこり笑って肩を押した。
「ほら、みんなもう戻ってるぞ」
「よっしゃ!じゃ、点取り返すか」
「させねーよ!」
久保に促されて二人が走り出す。
だが久保は、走り出した神谷の肩を背後から掴んで引き寄せた。
「わっ!何だよ久保!?」
コケそうになって焦る神谷の叫び声に、しかし久保のほうはもっと焦っていた。
『お…オレは何を?』
だが焦る心とは裏腹に、腕が勝手に神谷を抱き寄せてしまう。
距離が縮まる程に、胸が熱くなる。気持ちが優しくなって行く。
「久保っ!」
「さっきのプレイ、良い判断だった」
怒りの声を発する神谷の耳元に、とりあえず思いついた言葉を送った。
その言葉に、神谷の怒りがスッと引く。
「だろ?」
誇らしげに振り向いて―――眼前の久保の表情に赤面した。
「お前、なんて顔してんだよ!」
「え?」
「いい!戻るぞ!!」
神谷は久保の腕を振り払うと、ムスッとした表情に赤さを残し、大またで中央に戻っていく。
「おい、神谷」
背中に呼びかけても振り向いてはくれない。
その代わり、声だけは戻ってきた。
「そういう顔は、北原さんにしてやれよ」
「え?」
言われて自分の頬に手のひらを当てる。だけどそんな事しても自分の表情なんて解るものじゃない。
「…美奈子にする顔?」
どんな顔してたのか?…と頭を捻った後、不意に解ってしまった。
『つまり、好きな相手に向ける顔!?』
それも特別に好きな人に向ける顔。
自然に赤らんでしまう顔を隠すように、神谷を追って俯き加減で走り出す。
『そりゃあ、神谷の事は好きだけど…』
気心の知れた親友で、大切な相棒で、夢を追う仲間で…
「親友なんだから、好きに決まってるじゃないか」
自分を納得させるように神谷の背中に向けて小さく呟いてみる。
その呟きはすんなり心の中に沁み込んで、透明な響きとなった。
「オレは神谷が好きだ」
続いて呟いた言葉は、しかし何処かで不協和音を立てる。
なぜ?
気持ちに偽りは無いのに、息が詰まる。
痛みが少し変わった。それは何処か、甘い痛み。
でも痛みの本当の意味は見えない。
だから今は、目の前の神谷の背中を見つめ続ける。
やがて先にポジションに着いた神谷が、大きな声で怒鳴った。
「なにトロトロ走ってんだよ!」
乱暴な口調とは裏腹に、口元には笑みが浮かんでいる。
全速力で走り、センターサークルの神谷の隣に立った。
「ごめん」
「ったく、変なとこで抜けてんだから」
神谷の言葉に、皆も笑って窪を見る。
『ああ、幸せだな』
息苦しさが消えて、全身を再び暖かさが包み込む。
世界の中心に神谷が居る。
『幸せを形にするとしたら、神谷の姿をとるんじゃないか?』
ふと過ぎった想いに、妙に納得してしまった。
意識しない笑みが浮かぶ。
それはとても柔らかく、愛おしむような優しい笑顔。
先程神谷をうろたえさせたのと同じ表情。
しかし今度は、そんな顔は皆の爆笑を誘った。
「暑さに脳みそ茹ったか?」
「しかられて笑うなんて、マゾだな」
からかい言葉が、辺りに優しい風を呼ぶ。
それは皆にとっても『幸せ』な光景。
ひとしきり皆と笑った後、頃合を見計らって久保は笑顔を引っ込めると指導者の真面目な表情に変えた。
「よし、じゃあ後10分、張り切っていこう!」
「おうっ!」
一斉に上がる雄叫び。
そしてたった一つのボールを追って、『幸せの世界』の仲間達は走り出す。
親愛・友愛・恋愛としての『好き』
サッカーに向けるような興味の対象としての『好き』
他にも視・聴・味・嗅・触の五感で覚える『好き』もある。
数え切れないさまざまな意味合いを持つ言葉。
でも共通するのは『好きだから大切にしたい・手に入れたい』という欲求を生む事だ。
その内のどれに重点を置くかで人生が変わる。
得られる事で覚える『幸福』は何物にも変え難く、得られなかったことで覚える『失望』は深い悲しみで包み込む。
久保が自分の抱える感情の本当の意味に気付くには、それからさほどの日数は掛からなかった。
そして久保と神谷の二人にとって、この季節は忘れられないものとなった。
続く
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