月明星稀(後編)


 久保が戻ったことにより、サッカー部の練習はインターハイに向けて熱を帯びてきた。
 一度、何かに落ち込んで調子の出ないトシを久保が一喝する事件もあったが、神谷のフォローもあって何とかトシも立ち直った。
 不思議な事に、トシの調子が上がると一年全員の動きが良くなった。
「どうやら一年は、トシがムードメイカーらしいな」
 久保の言葉に、まったくだというように神谷が頷く。
「不思議なんだけど、なんかあいつには期待を持っちまうんだよ。とんでもない事やらかしてくれそうでさ」
 二人の視線が壁際に立ったトシに向かう。
 そんな事には気付かずに、トシは久保から与えられた課題通りに、壁際から数歩下がり助走を付けてボールを蹴った。
 風を切る音がフィールドに響き、ボールは凄まじい勢いでゴールに突き刺さる。構えていたというのに、キーパーの小笠原は反応するのがやっとのようだった。
「どうやら狙い通りだな。これでコントロールが付くようになれば、あいつの左は最高の武器になる」
「あのシュートはちょっと止められないぜ。ロングでも威力が落ちないし。良くもまぁ、あんなのが打てるもんだ。…それにしても田仲の左に良く気が付いたな」
「ああ。あいつの走り方に変なクセがあったからな。ほら、いつか遅刻の罰で走らせた時にどうしてもグラウンドに入ってきてただろ?それでピンと来たんだ」
「ふ〜ん」
 トシの話題を切り上げ、他の部員の指導に戻る。
 今年のサッカー部は、去年の今頃とは大違いで順調な仕上がりを見せていた。
 サッカーをするために集まってきた一年生には、特に目を見張る物がある。即戦力の掛西トリオを始め、須賀中の佐々木と新田も成長著しい。
―この分だとレギュラーは一年と二年が半々、って所かな。
 予定しているメンバーを頭の中で整理しながら、久保は自然に浮かんでくる微笑みを抑えられなかった。
―国立、今年こそ行けるかも知れない。
 病院のベッドに縛り付けられている時には半ば諦めていた夢が、少しずつ現実味を帯びてきた。



 本当は医者から選手としてのサッカーは禁じられていた。両親にも『指導だけ』と言って部活を認めてもらっている。
 始めはどれでもサッカーに関われるのなら良いと割り切ったつもりだった。
 けれども今年の一年を見て、気持ちは固まった。

 今年だけ、フィールドに戻ろうと思う。

 それがどんな危険をもたらすのかはまだ解らない。もしかしたら、せっかく今は化学療法で押さえ込んでいる病気が手痛いしっぺ返しをしてくるかもしれない。
 でも、自分が残せる物はフィールドの中にしかない。
 全力で走れる内に、ボールが蹴れる内に、出来うるかぎりの物を残そうと思う。
 今年の掛高は、その想いを受け取るだけの技量がある。



 平松がボールを取ろうと果敢に攻めてくる。そのテクニックとスピードにはいつも感心してしまう。弱いと指摘した左の動きもこの短期間に克服しつつある。
 それでも現段階ではまだまだだ。全国にはもっと素晴らしい選手がいくでもいる。
 フェイントで平松をかわすと、神谷にパスを送る。
 神谷は胸で一回トラップし、シュート体勢に入った。
 所がそこに白石が飛び出してきた。ボールを神谷の足ごと押さえつける。
「へへん、止めてやったぜ」
 白石が自慢げに胸を張ると、
「馬鹿野郎!危ないだろ」
 神谷の拳骨が飛ぶ。見事にそれは白石の頭にヒットし、激しい音を立てた。










 そして週末―



 約束していた通りに久保の家に泊るべく、神谷は久保とともに帰路についた。
 晩ご飯を駅前の中華料理屋で済ませ、途中商店街に寄ってビールやお菓子を買い込む。
 バスから降りる時には、既に辺りは夜の闇に包まれていた。

「それにしても、こ〜んなに大きくなった息子に、一人で留守番させるのが不安だなんてな」
 からかい文句が神谷から発せられた。
「どうも家の両親、目が届かないとオレが無茶すると思ってるらしいんだ。入院してからすっかり過保護になって困るよ」
「うらやましいね。家なんかオレが留守している方が清々するだなんてぬかしやがった」
 軽口を叩きながら肩を並べて歩く。
 と、行く手に深い闇が現れた。
「あそこだよ、星が凄い所」
「ああ、この前言っていた。確かあそこは古くなったアパートを建て直すとか…」
「ちょっと寄っていこうぜ」

 面白がって足を踏み入れると、途端に星々の海に放り出された。
 今夜は月も出ていなく、この前以上に星は輝いていた。

「凄い…」
「な?町中でこれだけ星が見えるのってのも感動だろ?」
 もっと良く見ようと、闇の最も深い、隅に積み上げられた資材の山に向かう。
 二人揃って資材にかけられたシートに背を凭れ上空を見上げると、星空は圧倒的な迫力で眼前に迫った。
「あの二つ並んでいるのが双子座だろ?ならこっちの明るいのは」
「獅子座だよ。オレの星座だ。あの明るいのはレグルス」
「ふーん、じゃ天秤は?」
「乙女座の左下。あの明るい星が乙女座のスピカな。天秤は…う〜ん、ちょっとここからは見えないな。一等星がない割と地味な星座だから、夏になってからの方が見つかりやすいよ。乙女と蠍の間にあるから」
 一生懸命説明してくれる久保に対して、神谷の方の機嫌は悪くなっていった。
「どうせオレの星座は地味だよ」
 ブスくれた声に隣を窺うが、闇に沈んだ神谷の表情は捕らえられなかった。
「そう言う意味で言ったんじゃないんだけど」
「解ってるよ!」
「おい、待てよ!」
 拗ねて立ち上がる神谷を、腕を捕らえ引き寄せる。
 バランスを崩した神谷が久保の腕の中に倒れ込み、気が付けば神谷が久保を資材の山に押し倒したような格好となってしまっていた。
 離れようとする神谷を、久保は腕に抱き込んだ。
 抵抗する隙も与えずにそっと唇を遭わせると、軽く吸った。怖ず怖ずと神谷の唇が開かれると、その隙間から舌を差し入れる。
 いつしか口吻は、お互いを深く貪るような物に変わっていた。






 どうやって家の鍵を開けたのかも憶えていない。
 先ほどの口吻で呼び覚まされた身体の熱に翻弄されて、正常な至高は二人から失われていた。
 せっかく買って来た冷えたビールは、脱ぎ捨てた学生服と一緒に床に転がっている。
 照明の落とされた部屋は、それでもお互いの表情を追うには十分に明るい。
 絶え間なく響く声にはもはや意味はない。ただ、感じるままに声を上げ続けている。
 他の人間が家に居ないという事が、二人をより大胆にさせて行く。
 『身体を重ねる』ことで心まで重ね合わせて、上り詰めるのは何て気持ちが良いのだろう!






 カーテン越しに差し込む陽の光は、もう昼近い事を知らせている。
 先に目が醒めた神谷が伸びをすると、その気配で久保もまた目を醒した。
「おはよう」
 久保が言うと、
「こんにちは、だよ」
 神谷が笑った。
「あ〜あ、お前のお目付役で来たのに、結局は病み上がりを疲れさせちまった」
「なんの。社会復帰のリハビリさ」
「勝手に言ってろ」
 拳骨が、久保の額を軽く叩いた。
 それを合図に二人ともゆっくりとベッドを降り、散らばった福の中から自分の下着だけ選り分け身につける。
 神谷がカーテンを開けると、晩春の陽射しが部屋の中に溢れた。
「お〜お、太陽が黄色い」
 のんびりと言われた言葉に、思わず吹き出してしまう。
 そんな久保を一睨みすると、改めて神谷は視線を外に向けた。
 空は透明な青で、雲が所々に薄く掃かれている。
「なぁ、今頃の時間だと何座が出てるんだ?」
 誘われるように窓辺に立ち、空を見上げる。
 軽い目眩を抑えながら、頭の中で星図を整理した。
「そうだな、秋の星座だろう。白鳥にアンドロメダ、ペガサス、ケフェウス、カシオペア。あと山羊座かな」
「ふーん」
 それっきり興味を失ったように神谷は着替えを取り出すと、かって知ったる他人の勝手とばかりにシャワーを浴びに行くべく階下に降りて行った。
 取り残された久保は、そのまま空を見上げていた。
「真昼の星座か。考えたこともなかったな」
 昼間でも星は存在する。ただし太陽の光が眩しくて見えないだけだ。
 夜でも街の灯や強い月の光で、それは容易に姿を減らしてしまう。
―確かにそこに存在しているのに…
 何年も、中には何万年もの時間を越えて、星の瞬きは地上に達する。―という事は、もうずっと大昔に滅んでしまった星も、中にはあるのだろう。
 死してなお届く光。
―身震いする。せっかく届いても、他の光に邪魔をされて、誰にも気付かれないで消えてしまうかも知れない。
 それに光は、本体の死を認識しているのだろうか?

 寒気が始まった。そう言えば朝の分の薬を飲み忘れてしまっている。
 慌てて薬を取り出すと、一階の食堂に水を取りに降りた。








 シャワーで汗を流して出てきた神谷が見つけたのは、食堂の椅子に座ってうたた寝をしている窪の姿だった。
「おい、こんな所で寝てると風邪ひくぞ」
 軽く揺さぶると、久保の瞳がゆっくりと開かれていく。
 視界に神谷を捕らえ、僅かに微笑む。
「お前もシャワー浴びろよ。すっきりするぜ。その間に食べ物用意しておくからさ。例沿い子に張り付けてあるメニュー、レンジでチンしておけばいいんだろ?」
 湯上がりの温かい手に髪をぐしゃぐしゃにされる。
 気持ち良さに、久保の目が細められた。
「な、キスしよう」
 目を細めたまま、久保がねだる。
「しょうがねぇなぁ」
 石鹸の香りが近付き、やがて軽く唇が触れ合う。

 閉じた瞳の奥に、見えないはずの秋の星空が広がる。
 神谷の温もりをもっと強く感じたくて、だるい身体を騙しながら神谷の背に腕を回す。
―今夜は星空の夢を見るだろうな…
 何となく、そんな事を思った。












                                          終わり



                                   1994年7月14日脱稿
                                   初出:BODY CONTACT サークル・掛川高校OG会
                                   「天の軌道」再録(初版・再版とも完売)


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