月明星稀(前編)
<つきあかりてほしまれなり>


 フィールドに吹く風は、いつも心地よい緊張感を運んでくれる。
 早朝の太陽はまだ熱を含んでおらず、少し肌寒い。
 しばらく風の香りを楽しんだ後、手に持っていたボールをセンタースポットに据えた。
 身体慣らしの為に軽くリフティングから始め、リズムが乗って来たところでドリブルに切り替える。
 余り動かすことが出来なかった身体のあちらこちらが小さな不平を訴えるけれども、そんな事に構っていられるほどの余裕は無かった。

―早く半年間のブランクを取り戻して、皆と…あいつと一緒にプレイがしたい。―

 結構深刻に思い詰めて誰よりも早く学校に来たのに、ボールを蹴っている久保の顔に浮かんだのは、紛れもない笑顔だった。
 どうやらいけそうだと確信して、ちょっと遠いけどシュートを試してみる。
 ボールはイメージした通りにゴールネットに突き刺さった。
 思わずガッツポーズをとってしまう。

 と、その時になって初めて背後に人の気配がするのに気付いた。
「久保…」
 掛けられた声に振り向くと、学生服のままの神谷が呆然とした表情のまま立ち尽くしていた。
「ただいま」
 にっこりと笑顔で答えると、途端に神谷が凄い勢いで飛びついた来た。
 胸に抱き締められてうっとりしたのも束の間、次の瞬間には拳骨で頭を叩かれていた。
「お〜い、病み上がりなんだから、もっといたわってくれよ〜」
 半ベソ状態で訴えると、神谷の表情が怒ったものから笑顔に変わった。
「もう身体の方は大丈夫なのかよ!結局見舞いにも行かせないで…心配したんだぞ」
「ごめん。でも、もう大丈夫。―ありがとう」
 改めて肩を抱き合い、笑顔で再会を祝した。





 着替えてきた神谷と、最近の出来事を話しながらボールを追っているうちに、続々と皆が集まって来た。
 二年とは喜びの再会を、一年とは初めての挨拶を、パスを交わしながらする。
「あと来てないのは田仲だけか?あいつ、どうした?」
 いつのまにやら始まってしまったミニゲームの合間に、神谷がケンジに尋ねた。
「トシの奴、結局寝たの最後だったみたいだから、寝坊じゃないっスか?」
 それを聞いた久保が笑う。
 何が可笑しいんだと目で語る神谷に、笑いを噛み殺しながら答える。
「こいつら名前で呼び合ってるのかと思ったらさ、なんだか羨ましくなっちゃって。そう言えばおまえと名前で呼び合ったことなんか無かったな」
 途端に神谷の機嫌が悪くなった。
「今更そんな恥ずかしいマネ出来るかよ。まったくガキじゃあるまいし」
 ぷいとむくれて向こうを向いてしまう。
 そんな様子に、久保の笑顔にほんの少し苦いモノが混ざったことには、幸い神谷は気が付かなかった。


―そして神谷の機嫌悪さのトバッチリは、朝練に遅刻してきたトシが一身に背負うハメとなる。…








 放課後の練習を終えると、二年でささやかな久保の退院祝いをすることにした。
 一年共を早く帰らせ、部室に食料を持ち込む。
「まずは我らのキャプテンの復帰を祝って!」
 大塚の音頭で、缶ジュースを軽くぶつけ合って乾杯をする。
―本当のところ、気分はビールといきたかったのだけれど、流石に校内ではバレるとやばいし、退院したばかりの久保にアルコールを飲ませるのにも抵抗があった。
 それに、昨晩の新入部員歓迎会の酒が抜け切れていないメンバーも居たりする。
「で、本当にもう身体は大丈夫なのか?」
 今日何十回目かの質問が矢野から発せられる。
「ん、平気。まだ絶好調とは言えないけどな」
 いいかげん返事をする事にも飽きているだろうに、久保の笑顔は屈託がない。その場の全員が思わず見惚れてしまう程に、心から嬉しげな表情だった。
「それにしても、結局なんて病気だったんだい?」
 赤堀の質問も、今日一日さんざん訊かれまくったものだった。
 しかしその質問だけには、久保も一瞬表情を強張らせてしまう。
「大元は内臓疾患なんだけど、色々合併症起こしちゃって、病名がいっぱい付いてるんだ。おかげで退院が伸びちゃってさ、腕なんて注射の痕だらけだよ。―見る?」
 おちゃらけた動作で袖を捲り上げる。
 差し出した腕の内側には、そこだけ皮膚の色が白く変わるほどの無数の針痕があった。
 隣に座っていた神谷の手が、無意識のうちにそこに触れた。指先で、軽くなぞる。
「ずいぶん、大変だったんだな」
 針痕を見る目が、まるで自分が痛みを感じているように眇(すが)められた。
―ドクン―
 久保の鼓動が跳ね上がった。触れられたところから痺れが全身に伝わって来るようだ。
「な〜に二人して世界つくってんだよ。混ぜろよ!」
 面白がった大塚が久保の背後から羽交い締めを掛けてくれたおかげで、ようやくと緊張が解ける。
「おい、こいつ一応病み上がりなんだから、もっと優しく扱えよ」
 神谷が噛みつくと、大塚は豪快に笑い飛ばした。








 久保の身体を気遣って、祝賀会は学校の閉門時間を知らせるアナウンスと共にお開きとなった。
 薄暗くなった空にはずいぶんと星が輝きだしていて、明日も晴れそうだと教えてくれている。
「じゃ、また明日な!」
 皆、それぞれ自宅へと散っていく。

 久保と神谷の乗るバスは同じで、肩を並べてバス停に向かった。
 バスを待っている間も二人の会話は尽きず、久保は神谷を自宅に誘った。








「神谷くん、いらっしゃい」
 玄関口で、久保の母親が出迎えてくれる。
「おじゃまします」
 ぺこりと頭を下げて、半年ぶるの久保の部屋へと上がった。
「おふくろさん、なんか痩せないか?」
 ドアを閉めてから尋ねると、
「うん。母さんには苦労掛けちゃったから。病院と家との往復で、大分無理したんだろうな」
 学ランをさげるハンガーを手渡しながら、小さく溜息を吐いた。
「…悪い」
「気にしなくて良いよ。親不孝したのはオレなんだし」
 ハンガーを壁のフックに掛け、座卓を挟んでいつもの位置ににあぐらをかいて向かい合った。
 今後の練習内容のことを話し合っていると、軽いノックの音がして、次いで久保の母親がコーヒーとお菓子をのせたお盆を持って入ってきた。
 慌てて立ち上がろうとする神谷を軽く左手を振ることで抑えて、母親はコーヒーとお菓子をそれぞれの前に出した。
「もうすぐお夕食だから、これでごまかしててね」
「あ、いえ、すぐ帰りますから」
「駄目よ、もう用意しちゃってるんですから。学校でのこと、聞きたいわ。だからこれはワイロ」
 優しい微笑みは、やはり親子という事か、久保とよく似ていた。
 そしてこの笑顔に神谷はとっても弱い。
「じゃ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「よかった」
 からになったお盆を持って、久保の母親が退室する。
 煎れ立てのコーヒーの香りが、部屋中に漂う。
「相変わらず、本格的だな」
 口に含むと、ほのかな酸味と苦みが広がった。
 気分が落ち着いた所で部屋の中を見渡す。
 すると机の上に山積みになっているプリントが目に付いた。
「なんだ、あの束は?」
「あ、あれか。入院中に学校から出た課題だよ。おかげで何とか二年に上がれたんだ」
 実際の話、学校から与えられたプリントでの学習と、他の皆と同じ内容の定期テストで平均以上の点数を採る事が、久保の進級の条件だった。
 本来ならば出席日数の関係で留年は確実だった所を、事情を知っている校長や磯貝先生の尽力もあり、新設校としてのフレキシブルな対応で特例を認められた。
「入試の時だって、こんなに勉強しなかったぞ」
 自慢気に机の上からその内容をパラパラとめくると、思わず神谷は深い溜息を吐いた。重い束を久保に突き返す。
「オレだったら一枚目でギブアップだな」
「おまえと一緒の学年でいたかったからな」
 すかさず返ってきた久保の答えに赤面する。
「そんな臭い台詞吐いて、恥ずかしくないのか?」
「本当の事だもん、別に恥ずかしくなんかないさ」
 久保はコーヒーのカップを傾けながら、しれっと言い返した。
「やっぱりおまえ、恥ずかしい奴だよ」
 赤面したままそっぽを向いてしまう。
 そんな神谷の子供じみた動作に、久保の笑みが深さを増した。
「しかし、本当に掛西トリオが揃ってたんだな」
 むくれてしまった神谷の機嫌を取ろうと、話題の転機を謀る。
「今年の1年は大収穫だな」
 話題が変わり、待ってましたとばかり神谷が改めて振り返った。
「だろう?あいつらのトリプルカウンターアタック、見せてやりたかったぜ。ビデオで見るより迫力があった」
「そう言えばこの部屋でお前と見たんだっけな」
 何気ない会話から出た台詞に、二人してどきりとしてしまう。

 去年の秋、この部屋で中学生大会のビデオで、掛西中の試合を見た。
―そしてその夜、初めて肌を重ねた。
 おそらくは興味半分の出来事だったのだろう。
 しかし二度目の時―久保が入院を告げた夜、それは微妙に意味合いを変えた。
 あの時触れ合ったのは、身体だけでは無かった―
 何か不思議な感情の交流があったように、それぞれが心の内で感じ取っていた。
 しかしその思いは、今だに口に出されることはない。

 何となく間が持てなくなって、二人はひたすらコーヒーと菓子を口にする事で沈黙に耐える。
 やがて、階下から肉を焼いている香りが漂ってきた。
「…もうじきご飯みたいだな」
 ようやく久保が口を開く。
 神谷は無言のまま頷くと、なにを思ったのか急に立ち上がり、久保の隣まで来て座り直した。
「どうしたんだよ」
 心の中の焦りを表面に出さないように苦労しながら、目の前の神谷に笑いかける。
 ところが、神谷の方も内面の焦りを出さないようにと必死だった。久保ほど器用ではないので無表情になってしまったが、頬が淡く上気してしまうのは隠しようがない。
 不審に思った久保が僅かに眉をひそめるのを合図に、
「キスしてみないか?」
 思い切って言う。
「はぁ?!」
 久保の答えはまったく気の抜けた疑問符だった。
 次の瞬間、神谷の拳骨が飛ぶ。
 しかし久保の右手はその鉄拳をしっかりとキャッチした。
「人が勇気を出して言ったのに、その反応はなんだ!」
 腕を取られたまま神谷が怒りの言葉を吐くと、久保は掴んだ手に自分の頬を軽く擦り寄せる。
 いきなりのリアクションに驚き目を剥く神谷に向かって、久保は囁くように答えをし直した。
「しよう。お前となら何度だってキス出来る」
 頬を寄せていた手をずらし口元まで導くと、甲に軽くキスを送る。その感触に、神谷の身体が軽く震えた。
 腕を離し、目を開けたまま顔だけ近付けて行く。
 唇が触れ合った時に、初めて瞳は閉じられた。
 触れ合うだけのキスを交わし、相手を抱き締めもせずにすぐに離れる。
 顔を真っ赤に染め上げながら、互いの瞳を覗き会う。
「…オレは、寂しかった」
 神谷がポツリと告白する。
「サッカーをしてるとお前のこと探しちまって…そのうちに気が付くといつもお前を思い出していた」
「神谷…」
 告白に、久保の心が躍り出す。もしかして―たった今語られているのは、ずっと望んでいた言葉ではないだろうか?
「お前が退院してきたら確かめようと思っていたんだ。―オレのこの気持ちは何なのかって。だからキスした」
「で…答えは出たのか?」
 訊ねる声が震えてしまう。ヤケに喉が渇いて、水が飲みたいと頭の隅で考えた。
「どうやら、お前を『特別』に好きらしい」
 言った後、今までつかえていたものが取れて、神谷は晴れやかに笑った。
 そんな神谷を、久保は縋り付くように抱き締めた。
「なんだよ久保」
 とっさに避けることも出来ず、すっぽりと腕の中に捕らえられたままに尋ねると、
「オレなんかずっと前からお前が特別だぞ」
 泣き笑いしているような声が頭上から浴びせられた。
 顔を上げると、互いに複雑な表情をしていたことに気付き、吹き出してしまう。
 その時、階段を上ってくる足音を聞き取って、笑いながら離れた。
 軽いノックの音と共に、ドア越しに久保の母親から声が掛けられる。
「盛り上がってるようだけど、ご飯だから二人とも降りていらっしゃい」
「いま行くよ」
 笑いを抑えながら返事をすると、二人は食堂へと降りていった。



 食事は、帰ってきた久保の父親も交えて、楽しくすることが出来た。
 聞かれるままに学校のことを話し、入院中の久保の失敗談などを代わりに教えてもらったりと、食事の間中笑いが絶える事はなかった。



 泊っていけばという申し出を断って、神谷は家路についた。
 送ろうとする久保を玄関で押し止めて、しょっちゅう振り向いては手を挙げて挨拶を送り夜道に消えていく。
 見送ると、久保は屋内に戻った。
 部屋に上がる前に食堂を覗くと、両親が向かい合ってしんみりと会話をしていた。
 何事かを話して溜息を吐いた母親が、久保が立っていた事に気が付いて寂しげに笑った。
「良かったわ、神谷くんが来てくれて。嘉晴のこんなに楽しそうな顔、久しぶりに見たわ」
「母さん…」
 父親が母親のテーブルの上に置かれた手に自分のそれを添える。慰めるように軽く叩くと、母親の笑みが明るさを取り戻した。
 と、父親が突然思いついたように言い出した。
「そうだ嘉晴、今度の土曜日、神谷くんに泊まりに来てもらえないかな?お前一人にするのは心配だからな」
 両親は、この週末にはっ蹴る秒間者の家族の集いに出席するために、留守にすることを思い出した。定期的に行われてるこの集まりは、貴重な情報交換の場だった。
「そうね、その方が母さんも安心だわ。聞いておいてくれない?」
「うん、解った」
 複雑な心境で、久保は頷いた。








 帰り道、そこだけやけに闇が深い場所を見つけた。
 近付いてみると、アパートでも建つのだろう、結構広い空き地があった。
 中央には地鎮祭の注連(しめ)飾りが残されており、済みの方には建材とおぼしき物が青いシートを掛けられて積まれている。
 ちょっと興味が湧いて入り込み、街灯の光もほとんど届かない闇に身を浸した。
 周りの住宅からは、不思議と音が伝わってこない。
 現世から隔離されてしまったような感覚に襲われる。
―そして空を見た。
「…すげぇ」
 思わず感嘆の言葉が口をついて出る。
 地上の光に邪魔されない夜空には、満天の星が輝いていた。
 星座の事はあまり興味がないが、北斗七星ぐらいは知っている。二つ並んで光っているのは、たぶん双子座だろう。天の川に頭を浸すように、空に横たわっている。
「月があってこうなら、出てなかったらもっと凄いんだろうな」
 細く欠けている月が、夜空をほんの少しだけ明るくしていた。これが無ければ星の輝きはもっと増すだろう。
「今度、久保にも教えてやろう。こういうの好きそうだからな」
 先程触れ合った唇を軽く右手の親指で擦って、一人微笑んだ。









                                          続く





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