薄氷<2>



 塾の講義は午前中に国・数・英、昼休みの後に理科・社会と続いて、最後に模擬テストが行われる。
 終わる頃には日が暮れてしまうのが難点だ。サッカーボールを蹴る暇も有りはしない。
 短期コースを選んだためのハードスケジュール。
 だけどこの苦しみの後に与えられるだろう新生活のためだから耐えられる。




 掛川駅前の大きな進学塾は、市内だけでなく近郊からも生徒が集まっている。
 二人と同じ中学からきている生徒も結構いたけれど、顔を合わせれば軽く挨拶する程度で、あまり親しくはしなかった。
 唯一の例外はヤマハで一緒な矢野くらいだけれど、サッカー以外でも友人付き合いの広い彼は、同じ中学の友達とつるんでいる方が多い。

 他人から見れば二人で孤立しているように感じてしまうけれど、 二人にとっては、この他人との距離が居心地良かった。



 それでも……心の底では悲しんでいる。



 講義中、隣に座る神谷の横顔を時折盗み見ながら、久保は先程の事を思い出していた。

 自分のサッカー生活は、誰が観ても順風満帆だろう。
 いつも仲間が回りにいたし、ドイツでは貴重な体験も積めた。

 比べて神谷は恵まれていたとは言い難い。
 人から聞かされる噂は、半分以上が悪意に満ちている。特に中学の部活では良いことを一つも聞かない。
 ヤマハでは少し評価が良くなるけれど、傷ついた事を隠したまま自分の道を寡黙に進んだ神谷を、誤解している人間も多い。

 彼を知ろうとすれば簡単に気付けるのに。 
 無愛想なのは見かけだけで、心を開けばとても優しい顔を向けてくれる。
 口が悪いのはただ話し下手なだけで、嘘や人をわざと傷つけるようなことは決して言わない。
 本当の神谷は名前の通りに『情に篤く』て誰よりも真っ直ぐなのに……。

 あまたのサッカー推薦入学話を断ってゼロからのスタートを選んだのは、自由な楽しいサッカーをすると同時に、神谷を本来の姿に戻したかったからでもある。
 神谷が誤解されたままなんて嫌だ。
 自分の大切な相棒がどんなに素晴らしいかを、皆に見せつけてやりたかった。

 講義を受ける神谷の真剣な横顔に、突然触れたくなった。
 お前はひとりじゃないと、温もりで教えたかった。




 時折こっそりと、久保が自分を見ていることに神谷は気付いていた。

『やっぱり、朝のアレはまずかったのかな』
 弱みは見せたくなかったけれど、部活で寂しい思いをしていたことをバラしてしまったようだ。
『気にしなくて良いのに』
 アレはもう、過去のことだ。確かに怒りは残っているけれど、自分にもかなり落ち度があったのだから仕方がない。

 今は信じられないほど充実している、
 ただ時々思い出して、荒れてしまうだけ。

 本当は同情なんてされるのも嫌だ
 だけど不思議に、久保が向けてくれる視線は気持ちよかった。
 だって彼は真っ直ぐに自分を見てくれる。
 悪い噂もいっぱい聞いているだろうに、惑わされずに共に夢を追う相手として認めてくれた。

 神谷もまた時々、講義の合間に気付かれないよ久保の横顔を見ていた。
 初めて得られた、大切な親友。

 そして時々不安になる。
 また失ってしまうのではないかと想像するだけで、胸の奥が苦しくなる。

 孤独には慣れていた。
 いや、慣れていると思っていた。
 でも……もう、過去の自分には戻りたくないと願ってしまう。





 時折すれ違う視線が苦く甘い澱となっていることに、二人はまだ気付かないでいた。





                           続く 2004.01.03