体験発表


 「主婦として、母として」

J.N.

 大阪から参りました。大東市っていうところからきました。皆様、 いろいろご苦労があると思うんですね。私の場合は結婚して子供を 産んでからこの病気が出ましたのでね。子供ができて、その幸せを かみしめているってときからでした。ぜんぜん判らない、誰もこの病気が 判らない、この痛みが全く理解されない状態の中での子育っていうのが いちばん辛い。すごく困難な時期がありました。それから、ここから どうやって立ち直ろうかって、その思いが、正直、痛み以上に苦労 しました。あの、私の場合は身体の障害はそんなに表面に出ていない んですけれども、もう18年位になるんですけどもね、いちばん子供が 親を必要としている時期に1ヶ月、2ヶ月家に引き込む、痛みの中で 引き込むっていう状態、そういう時期がありました。子育てと身体を 維持するのに一生懸命で、その時の事を考えただけで、もう涙が出て くるんです。

 そんな時期も脱しまして、今では子供も19才と15才になっています。 でも、ちょうどその子育ての時期に、子供たちに「お母さんはそんなに 具合が悪いの?」ってみたいな事はあんまり考えさせない様にしたん ですが、それが良かったのか悪かったのか判りません。非協力的とまで は言わないですけども、あのぅ、子供が支えになってくれてどこかに行く とかいった様なことは……。家族としてどういうふうにしてっていうのは 私自身よく判っていません。ただ、この頃特に感じるのは、今これから 先ですね、私の場合はどういうふうに乗り越えていこうかなって……。

 ここ何年か前からいろいろありました。主人が胃潰瘍になりましてね。 即、入院だって、手術するかしないかはもう一度診てみようってこと でしたけどね。大黒柱の主人が倒れたと同時に私は身体がきつかった もので、どうなるかなって思うなかでね、私自身とこの病気の考え方って いうか精神的な部分でも肉体的な部分でも、ちょっと考え方を変えよう と思いました。変えた考え方の内容というのは、今、私自身、 ボランティアをしているんです。三種類のボランティア。全然動けない方 をお風呂へ入れてあげたりね、手話で通訳するとかね、「ふれあい」とか いって全然動けない方のところへ行って話し相手をするとか、食事の世話 をするとか。そういうような形でね、やっぱり動けなくなるっていうのは どういうものなのかっていうのを、自分自身、身をもって、体験して みたり、学べたらいいなと思いまして。

 それともう一点、ASっていう病気のことがどうしても世間に広がって いないっていうのが、私自身、ものすごく悔しいっていう思いがあります。 それもあってボランティアをし始めたんです。そうしましたらやっぱり、 皆、知らないんです。いろんな種類の病気がありますけれどね。本当に、 先生ですらご存じなかったです。勇気を出して手を上げて、「こんなこんな 病気(ASの説明)、あるんですけどご存じですか?」ってことで始まり ましてね。「私らこうしてこうして、福祉医療についてね、こんな活動も しているんですよ」って。昨日でした。そういうふうな介護保険の セミナー、勉強会がありまして、そこでそういう話をしたんですけれどね。 全然、介護保険の対象外みたいなんですね。この強直性脊椎炎っていう病気 は……。そういうふうで、すごくショックと同時に怒りが起こりました。

 そういうふうなところにパワーを向けて活動して行こうというふうに、 現在私は思っております。ただそれだけのものを1週間の内に3日間、 そして後の4日間を家事とか、主人の仕事のお手伝いとかそういうので 本当にヘタしたら2時間ぐらい自転車に乗りっぱなしとかね、そういう ことが週3日かそこらぐらい続きます。どうしてもやっぱり、きつい時は ものすごいきつい痛みがくるんですよね。でも、ふだん元気だから 「何、してんの?、そんなことばっかり言って」みたいに、そういう ような事で身体はものすごくひどかったんですが、わかってもらえない 辛さ。

 ボランティアに行って、そういうお話ししますよね。例えば自転車 って言えば、尾骨が痛くて、サドルのところを工夫して、お尻を浮かす様 にしてみたり、自転車を歩行器がわりに押して歩いたり、子育ての時も色々 あったことなどをね。そんな中で、すごく不満っていうんじゃないんです けども、どうしてもこう自分の病気が一番苦労やみたいな、そういう つもりでは言ってないんですよ、「共にがんばろうね」みたいな形で お話しするんですけど、それが変に、苦労話ばかししているみたいに 受け取られたりするのがイヤなんです。

 すごく、あのぅ、心の持ちようっていうんですか、ああいうのですごく 左右されるんだなぁって、ここ5、6年ぐらいでそういうような形でやる 事によってね、すごく私自身、成長させてもらったなぁっていう……。 だからこうストレスの無い状態を極力持続するようにしているんです。 それともっとやっぱり積極的に動く、気持ちを前に持って行くって大事な ことなんやなと思ってます。主人が一言、言うたんですよね、私も一緒に 働いていた時期がありまして、働いたぶんだけ痛みも強くなるとか、 そういう時期がありましてね、そうしたら主人が「働かなくてもいい」 って。「ただただ、自分の身体を維持してくれたらいい」ってことを ポロッと胃潰瘍になって言いましたのでね、「ああー、そうか」と心を 切り替えまして、今現在6年目ですかね、きつい痛みが無いのは。

 ほとんど今はきついのは無いです。7年ほど前、わりときついのが 2ヶ月ほど出たんですけど、その時はもう本当きつかったです。 もう足が前に出ない、寝返り打てないというのがきびしく続きましたが、 それ以降無いんですけども、それから、頭の切り替えっていうか、 病気に対して持っていく姿勢っていうのを私は私なりに変えていこうと 努力しました。どう言ったらいいんか、ストレスの無い生活、っていう のはどういう事かなっていうのが、どんなんかっていうのを探している 状態なんですよね。だから、これから先、この病気は一生続きますのでね、 どうなっていくんか判りませんけれども、毎日、挑戦っていうか、毎日 こうー、何か、何かしていこうという思いで日々がんばっているん ですけれども。
 以上です。

田中会長 人間っていうのはどんどん変っていかなならん もんですね)


 「皆さん、よろしゅう頼のんます」

K.T.

 私、大阪から参りました高木と申します。10日前に会長さんから 「どうや、いっぺん体験話でもひとつ、しゃべったらどうや」いう感じて、 「そうですか〜、だいたい何人ぐらい話されるんですか」言うて。 「女性ばっかりやで」「えッ!!それやったらもう足震えてガタガタ するわ」、そういう返事したんですが、でッ、「そんなに話、内容、 喋れませんで」言うて断わったんですけど、今日来たら印刷されてまして。 急遽、昔話なのですけどね、高校時代に、昔、8ミリカメラ言うてあった んですよね。今はちょっと。で、高校時代にキャンプ、1泊、友達同志で 5、6人で行ったんですよね。遠くから写してもろうて、映してみましたら 「ぼくの姿勢悪いなぁー」って。

 おふくろが、いつも「姿勢、あんじょうしいーや」言うてましたけど。 で、写真見て、「こんな状態なんかなぁー」って、今で言うと猫背 みたいな感じで……。まぁ写真を見たんですけどね。で、それから 就職して、10年ぐらい信用金庫、外交、いろいろ飛び跳ねていましたけど。 それから、ちょっと痛みが出てきて、今の福島区、厚生年金病院ってある んですけど、そこへちょっと通ったんですけど、それが、あのぅあんまり 思わしくなくって、その脇に、今現在は無いんですけど阪大病院言うて あったんです。その時に今の辻本先生という方と巡り会ったんです。 その時から今ずっとおつきあいしてるんですけどね、阪大病院から。 そのときから痛みも多少、私の場合は首から背中にかけて痛みが出る ことがあったんですけど。辻本先生に白浜の温泉病院ってとこを紹介 されまして、そこである程度リハビリで、今現在、身体をけっこう 動かせるわけですけど、そういうリハビリをやっていて良かったなぁ という思いがします。

 そのあいだに白浜で今の家内と巡り会って。で今、会員であるO君 とも出会うようになったんですけども。そういういろいろ巡り会いの中で、 まぁ辻本先生という名医というか、なにっていうか、どう表現すれば いいのかわかりませんが、辻本先生のおかげで……。労災病院とか、 病院、病院で、もうだいぶ通ったんです。労災病院で62年と63年にかけて 両足に人工股関節を入れたんですけど、現在まぁまぁ10年以上経って いるんですが、今のところ歩行には困難じゃ無くって、おかげで痛みも 無く、現在に至っているんですけど。「やっぱり人の巡り会い言うのは 大事な事やねんなぁ、やっぱりええ先生に当たってんやなぁ」という思い でいっぱいです。

 というのは、あのぅ辻本先生自体は開業医で、個人で病院開いてられる んですけど、たまに行くと「先生、死ぬまでつきおうてやー」言うて、 冗談めいて話しているんですけど。まぁ先生も年と共にですね、まぁ、 なんていうんですか……。今までのところ痛みも無く、一種類だけの 薬で済んでるんですけども、おかげで人の手を借りず、自分一人で 歩けるのは有難いなぁと思っています。
 以上です。


 「乾癬に病んで」

F.I.

 東京、立川から参りましたF.I.でございます。私は 乾癬 という病気でございます。乾癬に患っていらっしゃる方は多いと 聞いてますけれども、私の知る限りではいなく、この会を通じて お話しできたらと思っておりました。なかなか、勇気が出ませんでした。 乾癬はご存じのように皮膚が赤く(かひ)なって、白い粉のように からだから落ちます。人々から「気持ちが悪い」「きたない」と 嫌われます。わたくしは皮膚疾患をひた隠しにして過ごして参りましたが、 どうしても赤い皮膚を隠す手もなく、くちさがない人々から誤解や中傷 にも耐えてきました。

 大学病院、国立などいくつかの病院を通院、入院とくりかして治療を 受けました。完治することなく必ずどこかに残る。そして再発する時は 以前よりも範囲が広がり、現在では健康な皮膚の方が少ない状態です。 薬も副作用で悩み、わたくしは医薬にも不信を持ち、心は硬くなり、 貧しい精神状態でした。今回、井上先生の再診を得て皮膚科受診を 薦められまして治療を受けました。先生はじめ、看護婦さんの扱いに、 私はとても嬉しく、また皮膚も快方に向かい喜んでおります。今回、 Mさんより電話を頂き、とっさにこの病気のことを話そうと思ったのです。 初めて病気を話す事ができました。命を与えて下さいまして有難う ございます。会長さん、井上先生、はじめ皆様に感謝して終わりたいと 思います。

乾癬の発病
  • 21歳頃
  • 病名を告げられた時、23歳
 原因不明のため治療がむずかしい。
 温泉治療を慶応大学付属病院で勧められた

ASの発病
  • 14〜15歳頃、膝関節痛から始まり、腰痛、股関節痛と進む
  • 病名を告げられた時、64歳
 現在は、手、指、および足指、足関節痛の繰り返しと ブドウ膜炎 の再発の繰り返しです。


 「思い切らなきゃ、かわれない」

Y.M.

 大阪府から参りましたMと申します。Mさんから私もお電話を 頂きまして、3分か5分位ということだったんでお引き受けした んですけれども、そのあと会長からおとといにお電話を頂きまして 15分と言われまして、なんか、すごい焦ったんですよ。なにも考えて 来ずに、こっち来てから一生懸命原稿を書きまして、ちょっと長過ぎて 申し訳ないと思っているんですが、私も病歴からお話しします。

 私も高校1年生の頃にいきなり坐骨神経痛になりまして、でもその後 すっかり直ってしまって、何事もなかったように過ごしてたんです。 けれども、それからたまたまスキーで怪我をしてしまいまして、まぁ 「ムチウチ」になったんですが、スキーで「ムチウチ」って変な感じって 思ってらっしゃる方もいらっしゃるでしょうけども、たまたまスキーで ぶつかって谷側にずっと頭から落ちていきまして、そこに人がいまして、 その人の背中に頭からぶつかったせいで「ムチウチ」になって しまいました。その「ムチウチ」を治療なさった先生が「こんな長引く 患者は初めてだ」とおっしゃって……。

 まぁ、今考えれば、それが結局、強直性脊椎炎のせいというか、 判らない段階ではあるけれども、人に比べたら少しそういう面で治り にくいということだったのかなというふうに思いました。それから 交通事故にも会いまして、また「ムチウチ」をやりました。なぜこんなに 「ムチウチ」になるんだろうと思ったんですけども、結局、その後、 その「ムチウチ」のせいで首から腰にかけて痛いんだと、不自由ながら ずっと過ごしてきたんですけれども、10年ぐらい前に、まぁやっぱり、 あまりにもひどいということで病院に行きましたら、いきなり 「強直性脊椎炎」と。まぁたぶん皆さんの中では珍しいと思うんです けれど、行った初めての病院で「強直性脊椎炎」と言われまして。

 当然、聞いた事もない病気ですし、先生は「とにかく、これは何も 治療する方法は無いので、痛み止めを飲むだけです」と言われました。 そう言われながらも、自分はどうしていいのか判らないという状況に なりました。自分だけがどうしてこんなふうになってしまったんだろう とか、なんかもうどん底につき落とされた気持ちで過ごしてました。 まぁたとえそうであっても、自分自身がもっと初期の段階でしっかり して、まぁ「友の会」の事とか知って、その対応とか、もっとしっかり やればよかったかなと思ったんですけども、当時は痛み止めを飲むと いう事しかしてこなかったせいで、どんどん進行していってしまい ました。

 進行していってからは、どんどん、もぅ気持ち的に非常に暗くなって、 周りの人とかのやさしさとかにどっぷりとつかった甘えた状態で過ごして いたような気がしまして……。その頃っていうのは、「無理をしない」 っていうのが私の日々の生活のテーマだったんですけど、無理をして 結局遊びに行った次の日、会社を休んでしまったりとか、そういう事を してしまう時期もあって、もしかして会社を休んでしまうんじゃないか っていうのと、でも遊びたいっていう、そのへんのなかなかバランスが とれなくて、会社もけっこう休んだりした時期もありました。すぐ会社に 電話して「今日、ちょっと体調、悪いんで休ませていただきます」と 言えば、それで許されているっていうことに対して、本当に甘えて いました。

 そんなことを繰り返していて「これじゃいけないな」って思って、 「自分自身にムチ打たなきゃいけないな」って思って、去年なんです けども、突然ニューヨークへ一人で行こうと思って行ってきました。 海外旅行って10年ぐらい前、この病気になる以前にしか行ったことが なくて、飛行機に乗ること自体、7年か8年ぶりで、当然パスポートも 切れている状態でしたけれども、たまたまニューヨークに高校時代の 友達が住んでいて、帰ってきた時に遊びにおいでよと言われて、 なんかこう踏ん切りをつける意味でなんかしてみようと思いました。 重い荷物はどうするのかとか、長時間のフライトで腰は大丈夫かとか 心配することが次から次へと出てくるんですけど、最大の課題は 英語が出来ないことなんですけど、とにかく1回思いきって何か やってみようということで去年行ったんです。それがなんか自分自身 にとってすごく良くって、思ったよりぜんぜん大丈夫で10何時間で 着いた後もいきなりアパートに荷物を置いてそのまま出かけられた ぐらいでした。なんか元気で遊びになるとこんなに元気になるもの なのかなと思ったんです。

 行く前に小松原先生に行こうということをお話ししたんです。 「そういう行こうと思うことこそ大事なことだ」と言われて、 すごく勇気づけられてそれを実行しました。病気である自分を 甘やかしていたのは自分自身だったんだなって思っています。 それを自分自身も分かっているのだけど、何か変れるきっかけの ようなものが欲しかったんだと思います。それ以来なんかこう変れた ような気がしますし、出来ない出来ないって考えるんじゃなくって、 とりあえずやってみようという気持ちに変ってきたなと思いました。
 以上です。

田中会長 海外旅行でちょっと面白い話があるんですけど、 小松原先生のお話が今出ましたのでふっと思い出しました。海外旅行 なんかに行くときに言葉の問題とか、からだの問題とかあって、 そうするとそこにストレスがかかってくる。しかし、多少のストレス っていうのは人間を活性化させるものであるっていうことを言って おられたことがあるんですよね。ストレスっていうのは必ずしも 悪い面ばかりじゃないということを、今、ふうっとMさんの話しを 聞いていて思い出しました)


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