展覧会の紹介

砂田友治展
人間原像=生へのオマージュ
2002年2月1日〜3月21日
道立近代美術館(中央区北1西17)

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 なぜ、砂田友治さん(1916−99年)は、あれほど太い輪郭をかいたのか。
 ずっと、疑問に思っていた。

 図録にせよ、新聞の評にせよ、砂田さんがどういう絵をかいたかというよりも、何をかいたかとか、どういう姿勢であったかについて述べた例が多いような気がする。
 人生を肯定する姿勢や、家族愛などは、砂田さんからおのずとにじみ出るものだった。だから、そういう評論が誤りだという気はもちろんない。でも、砂田さんにとって、漁民とか、十字架とか、人間の実存とかは、絵をかく際の一種の材料にすぎず、あくまで主眼は、どういう画面をつくるかにあったのだから、ここではやっぱり、それについていくらか述べてみたいと思う。
 これは、いわばモダニストとしての砂田友治を評価する試みである。

 もとより筆者は実作者ではなく、絵画については素人同然なので、とんでもなく見当外れのことを記すことがあるかもしれない。
 ご教示、ご指摘いただければ幸いです。

 絵かきには、若いうちから才能を発揮して、後年の画業の発展を早くから示すタイプと、比較的年をくってから自らのみちを見出すタイプがあるように思う。
 今回の展覧会を見る限りでは、砂田さんは典型的な後者であったと思えてならない。
 40歳以下のときにかいた絵が、59点中5点しかないのである。
 83歳と、まあ長命といえる年まで生きたとはいえ、中高年以降の画業に偏った構成である。40歳以下のころの絵は、質的にもちろん悪くはないけれど、かといって、とりたてて作家の個性が現れているとは言いがたい。
 経歴をみても、いったん小学校の教壇に立つという回り道をしているものの、最終的に東京高等師範(のちの筑波大)を卒業したのは、じつに28歳になろうとするときである。戦後、学制が変わったから、単純な比較はできないけれど、その出発点において、スロースターターだったことは確かなようだ。

 一時は日展に出品したことからもおしはかれるように比較的オーソドックスな表現に取り組んでいた画家が、ぐっと個性的な画面をつくりだすのは、50年代後半になってからである。
 59年には「裸体B」で、独立賞を受けている。
 この受賞にけちをつけるわけでは毛頭ないが、独立賞というのは、年によって受賞者の数がぜんぜん違う。
 59年は、砂田さんを含め10人もの大量受賞だった。これは、史上3位の多さである。なお、この年は、砂田さんと同じく札幌在住で、独立展・全道展の会員の栃内忠男さんも受賞している。
 年によっては、ゼロということもあるくらいだから、独立賞というのは絶対評価なんだろうと思う。
 「裸体B」は、厚塗りで、人間を表した作品である。人間は、細部の描写を削ぎ落とし、ほとんどシルエットのようになっている。
 半立体作品が流行する昨今の独立美術の風潮では、とても入賞しそうなタイプの絵ではない。
 この時期の特徴としては厚塗りのほかに、鮮烈な色彩の対比や、でこぼこのある画肌などが挙げられるだろう。
 「裸体B」の、地の緑にせよ、人体のオレンジにせよ、何度も複数の色を重ね塗りしたすえに成った色彩である。
 そこには、理想とする色彩表現を求める画家の苦闘の跡がしのばれるのである。

 この時期の年譜を見ていて気になるのは、57年、東京芸大に半年学び、林武に師事していることである。
 林は、苦学の末東京美術学校に入り、その後も「絵とは何か」を極限まで問い詰めつつ独自の画業を切り開いていった、独立美術の先輩画家である。
 先に述べたように、この時期の絵が今回の展覧会にはほとんど陳列されていないことを考えると、この国内留学が彼の画業の歩みにとっていかに大きな出来事であったかがわかる。
 林武は、セザンヌに始まった、空間がどうの、マッスが、三角錐が、球がどうの−という、おそろしく厳密な追究を、身を削るようにして突き詰めていった画家である。
 この厳格さ、潔癖さが、以後の砂田の絵に向かう厳しい姿勢に反映しているように思えるのだが、いちど砂田さんに聞いてみたかった気がする。

 さて、さきに挙げた特徴は、60年前後の抽象の時代、続く60年代半ばの代表作「北海の男たち」に前後する時代にも、引き継がれる。
 2点出されている抽象画は、画肌や色彩の効果を追い求めることに急で、構図を成り立たせることには残念ながら成功していない。ただ、絵の具とカンバスの物質感は、異様なまでに迫ってくる。
 「北海の男たち」と、それに前後する作品は、たくましい裸体の男たちの群像が真紅で描かれ、背景はプルシアンブルーで塗られている点が共通する。
 真紅の下の層には、緑が塗られていることが多い。これは補色関係なので、鮮烈な効果を与える。
 プルシアンブルーの下にも緑が見え隠れしている。
 黄色や茶色、オレンジなど、さまざまな色も見えており、長期間にわたった作業をうかがわせる。
 この塗りの厚さが、空間の堅牢さをもたらしているのだと思う。

 70年代に入って作風が一変する。
 いちばん目立つ変化は、色数が増えるとともに、明度が上がったこと。また、絵の具の厚みはいくぶん減り、荒々しさが退いた。反対に言うと、マチエールに頼らない絵画空間づくりに乗り出したのである。
 ここで筆者の目に浮上してきたのが、冒頭に掲げた輪郭線の問題である。
 「北海の男たち」では、図の人体、背景ともに彩度の高い色が使われていただけに、黒々とした線で双方を区切っても、あまり違和感がなかったし、むしろ図を浮かび上がらせるために必要なことといえる。
 70年代以降、「王と王妃」などでは、引っかいたような白の細い線を何本も走らせることで輪郭としている。ところどころ、薔薇色や黄色も用いている。
 あらためてはっきりと引き直した線というよりは、図と地の間に挟まれ、それぞれのマッスに見え隠れしている線である。
 図と地をつなぎ、通底させるかのような輪郭線が、奥行きに乏しいモティーフと具体性を欠く背景という現代の絵画特有の道具立てのなかで、従前の写実的な、線遠近法的な空間とは異なる、絵画的な空間を生み出しているのである。
 もともと、陰影によってモティーフを際立たせるというやり方は用いない画家である。モティーフのボリュームと、配置の妙も、空間をつくるのに役立っている。
 しかも、図と地で用いられている色が、下塗りで相互にいりあっている絵画空間では、彩度や明度の明確な差でモティーフを浮かび上がらせるわけにもいかない。画面全体の調和を考えた時、図と地で、用いる色彩を明確に分けてしまうわけにもいかないのだ。
 図と地を調和させつつ図の存在感を際立たせる…。この困難な課題を、「王と王妃」「王と家族」などの作品で画家は練りに練った構図で突破しようと試みる。しかも、「北海の男たち」では、人物の頭部を細くするというモジリアーニ的な方法論で解決しようとした、空間とモティーフのつりあいという難問を、人物のボリュームをしっかり確保するという前提をクリアした上で、である。そのため、全体としてはきわめて安定感のある構図になっているのだが、その反面、すみずみまで構築され尽くしたことによる、ある種の息苦しさのようなものも、ちょっと感じてしまうのは筆者だけだろうか。  

 ここまで筆者は、家族性とか風土とかの語をあえて用いず、技法中心に語ってきたが、画家の人間性を軸に語りたい絵が1点ある。
 それは、93年の「アダムとエヴァ」である。
 このころから西洋絵画に伝統的に採用されてきた画題を使うことが多くなっているが、それほど伝統にこだわらないかきかたをしている。
 この絵は、アダムとエヴァが一本の木をバックに、赤い果実を一緒に手にしている。しかし、筆者がこのシーンで思い出すのは、ルネサンスの画家マサッチオ「楽園追放」で、嘆き悲しむ男女の姿である。
 それに比べて、この絵のなんと明るいことか。これから楽園を追われる悲しみはみじんもない。これから新しい家庭を、新しい歴史をつくっていくんだという明るさと意思と希望にみちている。

 さて、「アダムとエヴァ」も含め、80年代以降の絵に特徴的なのは、  

である。
 1点めと2点目は、つながりあっているといっていいと思う。
 構図を、簡素で力強くしようと思ったら、必然的に画面を構成する線は単純な直線になり、図のかたちもシンプルなものとなる。そして、構図を強調するためには、図を地から浮き立たせる必要があるが、さきほども述べたように、色彩の差違によって図を区別するのでなければ、図を輪郭で囲むしかない。
 また、細い線が縦横に走るようになり、これまで厚塗りの下から顔をのぞかせていた下層の絵の具が、こんどは、線と線の間から見えるようになった。複数の色を塗り重ねることによって生じる画面の厚み、存在感は、また別の方法論によって保障されたことになる。
 そしてまた、この細い線によって、画面全体に運動感が与えられることになる。ますます簡素にがっちりと構築された絵画空間を揺さぶっているのだ。 

 しかし、画家はひとつの画風に安住することなく、さらに試行をつづけていく。
 90年前後からは、太い灰色の輪郭線は変わらないものの、青や朱などの原色が大胆に用いられるようになった。モティーフには、十字架降下など西洋絵画特有のものが繰り返し登場するようになる。
 とはいえ、これほど彩度の高い青、朱、白などを同一の画面で調和させ、纏め上げるのは容易なことではない。太い輪郭線もともすれば全体の中に埋没しかねない。
 この時期の画家の苦闘ぶりが、手に取るように分かる資料が出品されている。さまざまな構図がかかれたおびただしいダンボールのエスキースである。言葉は悪いが「絵バカ」としか言いようのない、すごい執念がつたわってくる。
 最晩年になって、やや原色が後退するとともに、構図もかなり整理されて、シンプルなものになる。また、これまでの人間の家族に代わって複数の天使が登場する。
 これらの作品こそ、太い輪郭を導入して20年近い苦闘の末に到達したひとつの頂点であると思う。推測だけど「あれも盛り込みたい、あれとこれを両立させたい」といった欲張りさが消え、結果オーライになったんじゃないだろうか。

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 けっきょく、絵画のことから画家の姿勢のことに戻ってきてしまうのだが、よく
「絵かきは自己模倣に陥ってはおしまいだ」
ということをきく。ただし、そうは言っても、自らの画風を発展させていくのが絵かきだから、その言葉を実践する人はけっして多くない。
 砂田さんは80歳をすぎても、自己模倣に陥ることなく、不断の歩みで未踏の領域に挑み続けた。いまから画業全体を振り返ると、そこまでしなくてもいいんじゃないかと言いたくなる節がないでもない。それでもなおかつ、理想の画面を求めて探求を続ける姿勢が、見る人を感動させるんじゃないだろうか。

 

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