展覧会の紹介

北山寛明展 2002年2月5日〜10日
さいとうギャラリー(中央区南1西3、ラ・ガレリア5階)

 沖縄の大学で日本画を学んだ若手画家の札幌初個展。大作が5点と、たくさんの小品が展示されている。
 小品は、猫をモティーフにしたユーモラスなものあり、夜景を描いた叙情的なものありで、いろんな技法にトライしている最中のようにも見えるので、ここでは大きな作品に絞って書いてみたいと思う。
 いちばん筆者が感心したのは「無常」と題された、3双6曲相当の、滝を描いた作品だった。
 滝の絵はふつう、縦長の構図になるが、この絵の滝はずいぶんと横に長い。沖縄はもちろん、日本国内にもちょっとなさそうな滝である。海外に取材したか、あるいは、想像で描いたのかもしれない。
 しかし、この滝は、実際にあるものを写実的に描写するのが眼目ではなさそうだ。
 辛抱強くちらばめられた白い絵の具の飛沫がつくるリズムが快い。また、一種の物質感というか、抵抗感のようなものが感じられる。離れて見ると、漠とした白の帯なのに、画面に近づくと、抽象画のように大小の白の点がどこまでも画面を埋め尽くしている。日本画だから、フォーブ調の油彩のように絵の具を盛り上げるところまではいかないが、それでも絵の具の物質感は充分に伝わってくる。
 よく「オールオーバー」という言葉が使われる。たとえば、巨大な画面の大半を同一の色彩で塗りつぶしたバーネット・ニューマン(米国の抽象表現主義の画家)の作品は、ある程度近づいて見ることで、視野すべてがその絵に占拠されたような効果が生じる。しかし「オールオーバー」ということでいえば、ニューマンの絵なんかより、この「無常」のほうがはるかに見る者の視野を快く占めるように思う。
 滝の名画といえば、岩橋英遠の「蝕」を思い出す。あちらが、自然の実相を厳しくとらようとした作品だとするなら、「無常」は、絶え間なく流れ、飛び散る水に神経を集中させた絵だろう。一瞬一瞬で形を変えていく水。しかし、全体としてはいつまでも形を変えない水。その、瞬間と永遠の出合いがおもしろい。

 その反対側の壁に掛かっていた「芭蕉飛沫」は、意欲的な作であると思う。
 あんまり自信がないのは、筆者が、戦後さまざまに展開された革新的な日本画の実作をあまり見ていないためである。ただ、たとえば横山操や加山又造の日本画が、もっぱら西洋の前衛との対峙から生まれたのとは対照的に、この絵は日本の過去、具体的には琳派と対話することから生まれているようだ。
 バショウの株が二つ描かれ、その間を黒い川がY字状に流れている。この川は、抽象的、デザイン的であり、尾形光琳の「紅白梅図」を思い出させる。
 さらに、中央部分には、金色の大きな三日月が描かれている。大きさといい、位置といい、実際の月というよりも装飾的である。
 ただ、全体として光琳と印象をかけ離れたものにしているのは、いま言ったモティーフが描かれていない地の部分は、銀色地に青の絵の具が飛び散っているからだ。ある意味で、光琳よりもデザイン的なのである。
 近代の日本美術の世界では、デザイン的というと、どちらかというと悪口であったのだが、筆者はむしろ日本人の特質だから、絵はもっとデザイン的でいいんじゃないかと思っています。

 さて、残る3点はごく写実的な絵である。
 その筆力は大変なものであるけれど、とくに新しい試みを盛り込んだ作品ではない。
 4双8曲に相当する大作(横幅は、さいとうギャラリーの横の壁面を埋め尽くす大きさ)の「豊饒の時」。海を臨む高台の草原で、馬が草をはんでいる絵である。
 絵のなかで最も大きなモティーフである2頭の馬が、右端に描かれ、しかも右を向いているのは、デザイン的な観点からいうと左右逆じゃないかという気はするけど、まあいいや。
 与那国島あたりに取材したようだが、風景自体は、霧多布(きりたっぷ)あたりにもありそうだ。そのせいか、題名とは裏腹に、広漠とした寂しさを漂わせる一枚だ。
 「生命の律動」は、林の中でやすらうつがいのヤギを、また「孤独の光」は密林の中に生きるオウムや亀、カメレオンなどを描き、南国ムードが感じられる。鳥は2羽、亀は4匹いるのにどうして「孤独」なのかわからないけれど、あるいは見る側の心境を反映した言葉なのかもしれない。そう見ると、にぎやかな光景だからこそ寂しさをうつしだしているといえなくもない。

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