展覧会の紹介

大観・松園から現代作家まで
さくらに見る日本の美
2002年4月9日(火)〜5月15日(水)
道立帯広美術館(緑ヶ丘公園)

 この展覧会を見に行ったとき、美術館のまわりは桜が満開でした。
 桜が咲いているときに桜の絵を見るのは、時宜にかなっているようでありますが、考えようによっては倒錯的な行為だなー、とおもいました。
 なぜなら、実物と絵をくらべたら、たとえどんな名画でも、ほんものの桜にはかないっこないからです。すくな帯広の桜くても筆者は、そうおもいます。
 ただし、絵を見ているうちに、考えがかわりました。
 いくら実物の桜のほうが美しいからといって、それは1年中見られるわけではありません。
 ちょうど満開の時期に見に来ることができれば幸運です。せっかくの花見でも、まだ一部のつぼみしかほころんでいなかったり、あるいは盛りがすぎて葉が茂っていたりして、自分の見たかった桜を目にすることができるとはかぎらないのです。
 時期だけではありません。松明にうかぶ夜桜、山あいの巨木、古刹の庭に咲く桜など、わたしたちがなかなか見ることのできない情景でも、絵ならいつでも見ることができます。酔っぱらいにじゃまされることもありません(今回は東山魁夷の出品がありませんが、夜桜と満月の対面を描いた彼の「花明り」について、京都に住んだことのある人が「あれは絵だから風情があるのであって、じっさいの円山公園は花見のどんちゃん騒ぎで落ち着いて桜を見るどころじゃないぞ」と話していました)。
 画家は、いわば自分にとって理想の桜を描いている−といえるとおもうのです。現実の、つごうのわるい要素は捨象して、自由に構成できるのですし、また、捨象しなくてはうつくしい桜は表現できないでしょうから。
 わたしたちがじっさいの桜を見て感動して、写真に撮ると、たいてい見た当時の感動に遠くおよばないものになってしまうのは、撮影の腕の問題というよりはむしろ、いかにわたしたちが現実を、現実のままに見ていないかの証左ではないかとおもうのです。会議や講演の録音がしばしば雑音だらけで聴き取りにくいのとおなじように、わたしたちは見たくないものを無意識のうちに捨て去って、きっと、桜の美しい部分だけを見ているのです。だからわたしたちは、桜の写真に、どうも現実感を抱けないのではないのでしょうか。写真に現実感がもてないというのは奇妙な言いまわしかもしれませんが、ほかに述べようがありません。
 むろん
 「いやおれは、醜くとも、葉の出た桜をかくぞ」
という画家もいるでしょうが、それも、裏返しの理想を描いているといえないでしょうか。

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 それでは、具体的に、近代の日本画63点を集めたこの展覧会に見られる、画家の技巧についてふれたいとおもいます。つまり、どうやって桜をうつくしく見せているのか、ということです。
 いちばんめだったのは、花の枝のまわりに、ぼかしたような部分をふくらませて、桜の花の明るさを表現するやりかたです。伊藤彬「春」、加山又造「花曇り」などが典型です。
 たしかに桜は、花自体が光を発しているかのようにまばゆく見えます。遠くから眺めると、霞のようです。これはちょっと写真では表現できますまい。 

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 とりわけ、たそがれどきの桜は、薄暗がりの中で幻想的な明るさを放っています。月夜などもおなじで、この世のものとは思えないほどのことがあります。
 関口雄揮(その節はお世話になりました)「花霞」は、そういう暗がりの中の桜を表現した作品で、この展覧会での筆者のいちばんのお気に入りです。
 舞台は、岩山のような丘です。桜の木が半分以上を覆っています。手前は川のようで、暗い流れの中、ほのかに桜の色が反射しているのがわかります。何より絶妙なのは、右上から月光が射しこんでいることが暗示されていながら、月じたいは描かれていないことです。
 こういう、光に対して鋭い感受性を示す絵に、筆者はよわいのです。
 同様に、渡辺信喜「春宵(しゅんしょう)」は、ほのあかるく浮かび上がる枝に接近して描写しています。
 鈴木竹柏「映る」も、月夜、池のほとりの緑のなかに、2本だけ桜を配した構図で、わずかに光る水面や暗い空が、深い静寂を見事に表現しています。
 暗さの中にあってこそ、桜の明るさは引き立つのかもしれません。

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 枝をぼかすのではなく、背景を明るくして豪奢な雰囲気を表した絵もあります。
 那波多目功一の二曲一双「旭日」は、桜自体は葉桜を写実的にかいたものですが、背景の金色がいかにも豪華さをもりたてます。

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 花びらを丁寧にひとつずつ描きこんだ作品もありました。
 吉田善彦の四曲一隻「桜」もそのひとつです。
 とにかく大きな作品で、筆者は
「すごい写実だ」
と舌を巻きました。
 でも、ちょっと待った。
 じっさいの桜の花が、すべて同じ大きさで、いっせいに正面を向いているなんてことがあるでしょうか!?
 あるものは半開き、またあるものは下を向き、あるいは向こう側を向いたり、手前の別の花と重なって見えたりするはずです。
 陶器の三島じゃあるまいし、花弁がびっしりと描かれているのも、画家による加工のひとつであったわけです。

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 最後に、大家とよばれる人たちの作品にふれておきましょう。
 横山大観「夜桜」は、かがり火に映ずる桜が題材ですが、手前に松を配するなど、破調の構図といえそうです。
 川合玉堂「春雨」。背景を霧のなかにぼかした、山水画の伝統をくむ一筆。外輪船のような水車を備えた二艘の舟が目を引きます。
 上村松園「小町の図」は美人画。あらわな肩、様式的に処理された髪。そして、はらはらと舞い落ちる花びらの数はわずかですが、そのかわり十二単には桜の文様がちりばめられています。背景は描かれておらず、単純ながら物語性を感じさせる画面です。
 小倉遊亀「八重桜」は、今展覧会ではめずらしい静物画。壷に生けた一枝の桜が題材です。昭和33年の作品ですが、40年以上経って描かれた最晩年の作品によく似ています。
 後藤純男「塔映・花」は、これもめずらしい、具体的な風景のなかの桜を描いています。三重の塔、墨で描かれた山の稜線、塀の向こうに咲く花などは、情緒に流されない堅実さをかんじさせます。
 ほんとうの締めくくりに、田渕俊夫「春風」を挙げておきましょう。
 わたしの記憶に誤りがなければ、昨年の「春の院展」で見たような気がします。波模様のなかにたった二つ配された桜の花びら。まるで抽象画のような画面で、なんと効果的で、しかも情感がこもっていることか! 対象をほとんど描かずに、対象の持つ豊かさを表現する。なんだか魔法にかけられたみたいな気分になりました。

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