展覧会の紹介

第五十七回春の院展 2002年5月28日〜6月2日 三越札幌店(中央区南1西3)
4月2日〜14日 日本橋三越本店/17〜29日 松坂屋美術館(名古屋)/5月2〜12日 秋田県総合生活文化会館/15〜24日 大沼デパート(山形市)/6月6〜12日 三越大阪店/14〜26日 ながの東急/29日〜7月7日 松江一畑百貨店/17〜25日 福岡三越/30日〜8月11日 倉敷市美術館

 だいたい筆者は以前から「春の院展」はあんまりたのしみにしてなかった。
 秋の本展にくらべるとやはり作品のスケール感でおとるし、そのくせ本展が北海道に巡回してくるけはいが周年事業の年しかないのがシャクだった。題材も、親分(平山郁夫)がシルクロードに熱を上げると、それに追随するやからが多すぎるようにおもえたのもつまらなかったし、画風もあまり実験的なものが感じられなかったのだ。
 しかし、ことしあらためて見ると、まあ作風の「院展調」なのはあまり変わっていないけれども、画題のアジア集中もかなり緩和されたようだし、なかなかおもしろくかんじられたところもあったので、いくつか気のついた点を書きとめておきたい。まあ、筆者の勝手な感想ですけど。 

  1. 抽象としての山
     院展はほとんどすべてが具象画といっても良い。
     ただし、自然描写を追究するうちに、象徴的な境地にいたり、ほとんど抽象に近い様相を呈するものもある。
     たとえば今野忠一「妙義」(同人)、大野百樹「大山」(同)といったあたりは、抽象画ですといわれればうなずいてしまいそうな、絵の具の塊である。
     とくに今野は、日本画らしからぬマチエールの盛り上げがなかなか激しい。
     
  2. 抽象画としての植物画
     突き詰めると抽象的になるというのは、植物を描く場合でもある。
     大野逸男「青い草」(招待)は、つゆくさなどの野草を写生した作品。小さな花をちらした、中心のない構図は、写生を突き詰めた結果のようで、それでいて植物画とは異なる「場の空気感」のようなものもあって好ましい。
     また、岸野香「記憶」(春季展賞)は、葉のない木々(おそらくカラマツ)を透かして冬の日が射しているさまを描いた風景画。ほとんどモノクロームの世界だが、びっしりと画面を埋め尽くした枝と幹の生み出すリズムは独自のものがある。
     やや似たアプローチの絵に、冬のブナなどの林を描いた奥山たか子「悸(むなさわぎ)」がある。
     阿良山早苗「秋草」はろうけつ染めのようなほぼ色を喪った画面で、野草の繁茂するさまを描いているし、伊藤深游木「深秋」は点描にも似た細かい色斑の重なりで山の紅葉を色あざやかに描写している。これは、技法への興味よりも、紅葉の美しさへの感動が前面に出ていて、好感を持った。
  3. 写真がうんだ光への感受性
     むかしの日本画では、家屋の中と外がおなじ明るさで描かれていることが多い。
     じっさいの明るさは相当ちがうのだが、人間の目は自動的にその差を補正してしまうのである。
     その明るさの違いに人間が気付くのは、おそらく写真の発明後であろう。フィルムのラティチュードでは、屋内と屋外を同じ露出で描写するのはとうてい不可能だからだ。写真でも映画でも、不自然にならないように苦心していたが、近年はわざと露出の差をそのまま出した表現も目に付く。
     たとえば、松田斉子「空ノ景」(奨励賞)、小野田尚之「午後の来客」(招待)はその一例である。
     後者でいえば、人間の目は屋外をほとんど真っ白なほどにまばゆく、屋内を薄暗く感じる前に、自動的に補正してしまうのだが、この作品は、かつての大和絵が雲などで画面の一部を描かないでいた伝統を、この明暗差を持ち込むことによって復活しているのである。
  4. 新時代の水墨画。その他
     独自のロマン的な表現を追求している画家は多い。
     墨を多用した、三日月のある薄暮の景色がうつくしい手塚雄二(同人)、必殺の(^_^;)群青を多用して満月の夜を描く福王寺一彦(同)はその代表格だろう。
     いっぽうで、これは好みの問題だけれども、今回の福井爽人は、いささか甘ったるさがすぎるような気がする。
     メルヘン調路線でいえば、堀川達三郎「寒夜」(奨励賞)、石井健「旅立ち」あたりが目に付いた。
     
     もともと「朦朧体」で出発したところのある院展だが、日本画伝統の輪郭線は一部で復活しているのはもちろんだ。ただ、たんに復活させるのではなく、どうしてここに輪郭が必要なのかを意識している作品があるのはたのもしい。
     たとえば枡田隆一「白風」(招待)は、冬枯れのトウモロコシという筋の多い植物を題材にすることによって輪郭線の必要性を主張しているかのようだ。
     一方、國司華子「発・表・会」(春季展賞)は、輪郭と面、マチエールといった要素の配置を考えぬいた人物画。といって、全体の印象はかろやかだ。

     それにしても「うーん」とうならされたのは、後藤純男「渓谷の春」(同人)である。
     画面の左半分は伝統的な水墨画の山水に近い表現をしながら、右に桜の花などを配して、全体的には明るくはなやかな作品に仕立てており、まさに新時代の水墨とでもいうべき一枚になっていた。おもしろい試みである。

     このほか、加藤厚「冬日」は、わずかに積もった雪が溶けかけている小学校の校訂を描いてわたしたち北海道人が思いもよらない美を描き出していた。前原満夫「朝つゆ」(外務大臣賞・奨励賞)は朝露のかかった蜘蛛の巣を描き文句なしに美しい。

 

(6月10日)

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