スバル元首ながい克酬先生の
      生い立ちとプロフィール



1937年(昭和12年)5月11日


  東京都葛飾区に出生され、姉2人の下に「永井

 家の長男」となられました。


  生まれた時、非常に元気で勢いの強いお子さん

 だったようです。

 お母様の「ミドリさん」は産後の肥立ちが良く
           なく、ながい克酬先生が1歳の時に亡くなられました。

           その直後は長女の「恵子さん」が親代わりになって育児をして下さ

           ったようです。

           
  幼少期になって「愛媛県松山市」に引っ越され、叔母と祖母の手

           によって養育されました。


                ・1984年(昭和59年)

           「ながい克酬先生」が47歳の時、先生の首の上に80kg以上の

           男性が落ちてきて「バキーン」という音がされ、頸骨の5番と6番

           の間の筋が4分の3切れてしまわれました。
これは、ながい克酬先

           生が野球をされていて、走塁をされ、スベリ込んで
起き上がろうと

           した時のことです。

            実は「ながい克酬先生」は走るのが速くて、選球眼が良く「イチ

           ロー選手」のように、ピッチャーが投げてくるボールを右へでも、

           左へでも、自由に打ち分けることが出来る技を持たれていたのです。

           
その日も、2番バッターで4打数3安打で1塁に出られたのです。

           3番バッターがライト前ヒットを打ったので、1塁から3塁に走塁

           を
されてセーフでした。ところが、先生が起き上がろうとした時、

           真上にライトからの返球が来て、サードの選手が飛び上がってキャ

           ッチをしたのです。その後、先生の首の上に落ちてきたわけです。

           
すぐに「ながい克酬先生」は救急病院であった「日赤病院」に運ば

           れ
即、入院となられました。その時、先生の奥様(和子さん)は

           医師から
「よくこの人助かっていますねぇ!」と言われたそうです。

           
15日間入院されてから、医師に呼ばれ「レントゲンの結果『筋』がくっつきそうも無

           いので手術しかありません!!」とハッキリと言われ「
手術しなければ、3年位で神経

           がボロボロになって植物人間になります!! 又、追突事故をされたら命が危ないです

           よ」とまで言われました。

それでも、先生は手術には応じられなかったので「15日だけ
入院させてあげましょう」と医師に言われ、結局

手術をされることなく
退院をされたのです。

 と
ころが、約一ヶ月後、先生が車で信号待ちをされていた時に、突如ドーンといって、一瞬の内に後続車に追

突をされたのです。一時は
意識朦朧となられたそうですが、とりあえず近くの病院へとお願いして、そこで応急

処置をしてもらわれました。その際、医師がレントゲン写真を見て「これはひどいのぉ!!」と言って驚いたの

で「ながい克酬先生」は「これは、今日の事故のせいじゃないのです!」と説明をされました。
以前に、日赤の

医師から「追突されたら、命はないですよ!」と
言われていたので、先生は心配になられて愛媛大学附属病院に

行かれて診察を受けられたのですが、やはり2人の医師がレントゲン写真(8枚)
を見て首を傾ける位でした。

 しかし、診察の結果では、先生の症状は良好だったものですから医師
も手当ての仕様もなく「何かあれば来て

下さい!」と言うより仕方がなかったようでした。その後「50歳」の時、再度検診を受けられた時には、なん

と首の骨が真っすぐに戻っていたそうです。これも「神々様の奇蹟」だとしか説明の仕様がありません!



1987年(昭和62年)秋

 美容カットコンクールに於いて30年間
の念願が叶い、全国優勝をされました。

 この間の「コンクールに打ち込まれる努力は人並み以上で、他の人では到底無理ではないか」と言われる位で

あられたそうです。

 この時のお歳が「50歳」だったのです。

                 
       スバル元首様の        美容技術コンテスト         美容技術コンテスト 優勝!!
          理容時代            日本一時代

・1991年(平成3年)9月

 伊勢神宮へお参りに行く途中、突然
「わたしは神です!」と中年の女性の声が頭の中でハッキリと聞こえ「こ

れからは、私の言う通りにしなさい!!」と命令されたのです。
この時「54歳」だったそうです。

  その後、男の声の神様が毎日スケジュールを出され、修業が始まられたのです。その神様から「お前は、大勢

の中から選ばれたのじゃ!! 
これからお前は、この悪い地球を救う仕事をしていく救世主となる
のじゃ!」と

男神様から使命を与えられたのです。


・1992年(平成4年)

 「AOKヘキサーを立ち上げよ!!」と指示され、松山の自宅に実現させられたそうです。この時、親戚の寺

坊さんや周りの者や兄弟にまで反対され「克ちゃんは頭がおかしい! 精神病院に入れた方がいいんじゃない

か!」とまで言われたのですが、息子さんであられる「克彦様」が「親父のことを、とやかく言うな! 気に入

らんのなら親戚付き合いを切ってもえぇ!!」と克酬先生を
かばわれたそうです。


・1994年(平成6年)〜2004年(平成16年)


 「AOKヘキサー」を立ち上げられたことにより、まず「東京の
ヤクザ 稲川元組長」・「神戸のヤクザ 山口

組長」等、430通・23ページに渡る長文を送り付けられました。文面の中で「必ずお前等を潰してしまう

!!」という風な内容を入れられていたので、1週間もしないうちに松山のヤクザが事務所へ「イチャモン」を

つけに押しかけてきたり、家のプロパンガスのホースを外してガスを出しっぱなしにされたり、車のタイヤに穴

をあけてパンクをさせられたり、車に傷を付けられたり、車の底に発信機を付けられたり、事務所の鍵穴に楊枝

を詰め込まれたり
「ながい克酬先生」が何処かに行こうとされると必ず尾行が付いたり、又、中の「神々様」が

「ここの喫茶店に入ろう!」と言われた所には、必ずヤクザ風の男が5〜6人待ち伏せしていて、必ず飲み物か

食べ物に猛毒を入れられたりされていたのです。
それでも「ながい克酬先生」の中の神々様は「飲んでいい」・

「食べていい」と言われたので、先生はその通りにされていらっしゃいました。しかし、口に入れた瞬間に口び

るが痺れられたそうで「あっ、やはり毒が入っているのだな!」と分かられたそうです。

 
「ながい克酬先生」が車で走っていらっしゃると、急に真横に大型トレーラーが先生の車に寄りかかるように

接近してきて、左へ
ざるを得ないように事故をさせるように迫ってきたり、横から、後ろから、前からビー

ムランプを点けたまま突進されたこともあられ、
危うく難を逃れてこられました。又、ピストルを胸元に突きつ

けられたり、元ボクサーが殴りかかってきたり、ドスで突きかかってきたりもされてこられました。

 
「ながい克酬先生」は、日本一周に於いて「悪」を焙り出す旅もされ、
その時にも前記したようなことが多々

あられたそうです。
又、AOKの宣伝にテレビ局や新聞社に申し込まれても、訳の分からない理由で断られ続け

ました。

 
何故、このように危険な目や、嫌な目に合ってこられたかというと先述した23ページの手紙に「お前等を必

ず潰す!!」と書かれたので
「ながい克酬先生」を潰せばヤツ等は健在でおれる!!という理由があったからな

のです。
このような事は「ながい克酬先生が57歳〜67歳まで」続いたのです。この間、先生が命拾いをされ

たのが145回、その内「毒殺」されかかったのが83回もあられました!! 
しかし「神々様」は「ながい克

酬先生を守ってくれていたのです!!」一般的には、到底考えられないですよね!!



1999年(平成11年)

 中の神様「タヌマ神本体様」の指示により
「神々が与えた使命」という本を代筆させられたそうです。
今現在

多くの人々に読まれております。又、先述の「克彦様」のアドバイスにより「ホームページ」を克彦様に立ち上

げて頂かれ、
こちらの方も数多くの人々に読まれております。


2003年(平成15年)

 
雑誌取材を受けられ、世間にスバル元首様の実績が広がっていかれる。

                         
           高松秀郎氏とのトーク形式で                    スバル元首様と
             「国際グラフ」に掲載される             ファンクラブスタッフの皆さん

 
2003年(平成15年)秋

 悩みや難問を解決して頂いた多くのファンや、先生の実績や評判を聞き、支援されたいというファンが集い、
       スバルズ ファイヤー スピリッツ
ファンクラブ「
Subaru’s Fire Spirit」が結成されました。


2003年(平成15年)11月29日

 今までの実績や今後のご活躍が、2年に渡る厳選なる審査の結果、審査員満場一致で認められ、日本文化振興

会より日本中で半期にたった一人しか選ばれない「社会文化功労賞」を受賞されました。


          
  講演真っ最中のスバル元首様              福井「ヴィクトリア迎賓館」にて授賞式が執り行われる                   賞状と勲章


2003年(平成15年)12月4日

  愛媛県松山「ローズハウス」にて社会文化功労賞受賞祝賀パーティーが開催され、ながい先生に処置をして頂

き、善くして頂いた方々、他、沢山の方が集まられました。


2004年(平成16年)10月

 実は「ながい克酬先生」は、社員
から「車の免許を取られたら如何でしょうか!」と薦められ、福井自動車

校に行かれ入校をされました。その時の先生の年齢は
「67歳」でした。先生が入校されると、70歳の方が高

齢者講習に来ている有様でした。
「ながい克酬先生」は、毎回キチンと教習所の先生方にも挨拶をされ「受講態

度は抜群でした」と教習所の方は言われておりました。ですから、
すぐに自動車学校では有名人となられ、周り

の生徒からも大変慕われておられました。そして、普通自動車の筆記試験一発合格!! 実技も一発合格!!で

「普通自動車免許」を取得されました。そのすぐ後に、大型自動車にも挑戦され、これも実技だけでしたが一発

合格をされました。
その年の暮れには、福井自動車学校の田中副校長にお礼状と写真を入れられて「来年春(4

月と5月)に普通自動二輪と大型自動二輪の免許を取らせてもらいにきますので!!」と予約の手紙を送られ

ました。

                                                       

2005年(平成17年)4月

 「ながい克酬先生」は、福井自動車
学校に行かれ、田中副校長に「昨年、お願いした自動二輪の教習を受け

来ました」と話をすると手を横に振って「受けない方がいいですよ!!」
と再三反対をされました。それでも先

生は、無理に強くお願いをされ入校テストをパスされました。


 しかし、予約時間のスケジュールの件で、学校側の対応が悪かった理由で「ながい克酬先生」から入校を断り

福井で一番大きくて厳しい
自動車学校である「新田塚自動車学校」に入校され、普通自動二輪の教習を受けられ

て免許を取得されました。次にすぐ大型自動二輪にも
挑戦をされ、一発で合格されて免許を取得されたのです。

この時も「ながい克酬先生」の受講態度はとても良かったので、学校内で一躍有名になっておられました。


「ながい克酬先生」は、免許取得後すぐに「ヤマハドラッグスター1100cc」スバルUくんと「BMW R1

200CL」スバルVくんの大型バイクを購入され、現在も視察探索で乗られておられます。


         
       
スバルくん(ヤマハドラッグスター1100cc) 69歳の時 

                              
                     スバルTくん(カワサキZZR400) 71歳の時

      
      スバルUくん(ヤマハドラッグスター1100cc) 72歳の時

                   
                    スバルVくん(BMW R1200CL) 70歳の時


2005年(平成17年)

 もう一つの「奇蹟」があります。

 
それは「ながい克酬先生」が突如左肩がうずかれ、腕が上がらなくなられたので、福井市の先生の宿舎の近く

にある整形外科に行かれ、
レントゲンを撮ってもらわれました。その際、先生は医師に「20年位前に首に人が

落ちてきて、5番と6番の『筋』が殆んど切れてしまったのです!」と説明をされ、肩の写真と併せて首の写真

も撮って頂かれました。首の写真を見た医師は「これは、奇蹟ですねぇ!6番
の上に5番の骨がうまくのっかっ

ていますよ!」と説明をされました。
しかし、腕の方は写真の写りに問題があり、医師の紹介で県立病院に行か

れ、MRI
を撮ってもらわれたのです。診察の結果「肩の筋が殆んど破れていて、近い内に腕が上がらなくなり

ブラブラ状態になり
ますよ」と宣告されました。その時「ながい克酬先生」は医師から手術の方法などを、しっ

かりと聞いて帰られました。

 
「ながい克酬先生」が「中の神々様」に聞いてみられたところ「神の奇蹟で治せます!!」と言われたので、

先生はすぐに会社のヒューチャー
先生にお願いして「神々様の奇蹟による手術」を受けられました。ヒューチャ

ー先生から「一日だけ安静にして下さい!」と言われたものですから、一日は安静にされておられましたが翌日

からは、大型
バイクで早速走り回られ、その日より連日「視察探索」に走っておられ
ます。そして、今では「な

がい克酬先生」の肩の痛みはスッカリ取れ、腕も真っすぐに上に上がるようになられました。

「神々様の奇蹟」は、本当にスゴイです!!



2007年(平成19年)11月

 福井から松山、そして、九州の佐賀、兵庫、滋賀にまで、各支社への激励訪問に大型バイクを走らせ、向かっ

下さいました。その時の走行距離は、約2000kmであられました。
普通70歳の人がしかも免許を取得して

間もない中で、バイクでの
長距離走行など、誰もなし得ることはできないですね。これも「奇蹟」としか言えま

せん!!


                      
                    スバル元首様が未来にお乗り下さるバイク「ゴールドウィング」

  ながい克酬先生は、各自がオーナー意識を持って自立し、各自の与えて頂いた「使命」を発揮すべく「素直・

まっすぐ・感謝心 及び 反省心 及び
忠誠心」を継続するように社員教育にも力をそそがれておられます。

 また会社の歴史の内容は、全てながい克酬先生が手掛けておられます。

 日々、お忙しく「ながい克酬先生にお会いさせて頂きたい!! お話を聞かせて頂きたい!!」と遠方からも

来られたり、処置客へのご対応等
、沢山の事をなさって下さり、現在に至ります。




ながい克酬先生の処置対応実績の一部>

突然予約もなく、脳梗塞で集中治療室に入院されていた父親をもつ息子さんから「父親を助けたい!!」と、

 松山から福井へ着の身着のままで駆けつけた相談客
の対応にも、即、自らのご予定を変更され処置対応下さい

 ました。その結果、父親は翌日には話し始め、食事も歩行も出来るようになりました。



相続争いから兄弟間で「裁判」になり、多額のお金を請求されるという相談客からの処置対応に入られ、次回

 の裁判時での対応、告訴人
への対応等までも細かくご対応下さり、一ヶ月もたたず、次回の裁判も行われるま

 でに告訴取り下げとなり、争いに終止符がうたれました。



何度も「受験」に落ちた娘を持つ親達の処置対応も数々こなされ集中力が付いた、緊張しなくなったと好評で

 見事合格されました。



自信を失う出来事があってから「対人恐怖症・引きこもり」になっていた高校生を処置下さり、その後、間も

 なく自らが計画し「四国八十八
ヶ所参り歩き遍路」を実行されたり、大学受験の準備もされたりと、元の活発

 さを取り戻されました。





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 Copyright 2009 AOK ながい克酬先生のすべて
会社の歴史
大まかな業績内容
ながい克酬先生について
ながい克酬先生の  処置対応実績の一部
 ながい克酬先生のこと・・・  ・・・・・目次・・・・・
スバル元首様
戦時中、8ヶ月頃
スバル元首様 7歳
スバル元首様 4歳
「ながい克酬先生」のこと・・・