◆白石城の歴史◆

天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに鎌生氏郷に与えた。
鎌生氏家臣鎌生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。
慶長3年(1598)上杉領となるやいなや上杉氏家家臣甘粕備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎
によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。

白石城は標高76mの最頂部には本丸、ニノ丸、中ノ丸、西曲輪、中段には沼ノ丸、南ノ丸、巽曲輪、帯曲輪、厩曲輪を置き
丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸、外曲輪を配置した平山城である。
本丸は高さ9m余りの石垣の上に土塁を囲み三階櫓、巽櫓、坤櫓、大手門、裏三階門を備え、御成殿、表、奥の諸建物があった。
二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、本柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。
元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、
公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。
その後按察府設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。


参照:白石城管理事務所発行パンフレット

写真出典:俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡




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