第2章「神木(かみき)の杜」

――また、あの季節がきたな。
――ああ。だけど、今年は…あれがあるから大丈夫さ。
 人が、自然の猛威と必死に戦っていた。そんな、時代。

「どう、祐一?」
「ああ、悪くない」
 顔を左に向けて、言った。
そこには、俺と同い年くらいの巫女姿の少女がいて、
「くー」
もう寝てた――。
「寝るな名雪っ! 落ちるぞっ」
「だいじょうぶだよ〜。く〜」
 そもそも俺が、
『街を見下ろせる場所はないか――?』
 と、名雪に聞いたのが初め…
いや――
 そもそもは、
「俺が家を追い出されたから、か」
 名雪は知らないだろうが、俺の家は結構有名だ。いや――
「結構どこじゃないか」
 久瀬の名を出せば、この街の誰もが平伏すだろう。
 なんといっても――
「この地方を治める領主の名が――」
 久瀬。まあ、兄が2人もいるような身分じゃ、知れてるがな。
「くー」
 よく、寝てる。
「まあ、仕方ないか」
 朝から、掃除、炊事、洗濯と、休む間もなく働いてるからな。
「けろぴーは、ここ…」
 正直、こいつは偉いと思う。まあ…
「早起きするために、朝っぱらからガンガン目覚ましを鳴らしてくれる
のだけは、勘弁してほしかったが」
 おかげで、ここに来てから寝不足気味なんだ。

「ぬあ〜、戻ったか〜祐一殿…に、名雪」
 髭を着た神官服が言った。いや、神官服を着た、ひげ?
「あ、石橋殿、ただいま、戻りました」
 俺が、この水瀬神社に来ることになったのも、この宮司がいたからだ。
なんでも、久瀬家とは深い繋がりがあると言う話。
 見るからに人の良さそうな、信頼できる男。
「なにか、用ですか?」
「ぬ〜いや、お仕事は、はかどっておりますかな〜」
 名雪は、既に夕餉の準備にとりかかっているだろう。
「ええ、いい場所を教えてもらいましたよ。街のつくりなども、大まか
ですが、わかりましたし。後は、実際に歩いて…」
「そうですか。それは良かったですな」
 俺の仕事は、この街の現状を把握するということだ。具体的に言えば、
人口とか、正確な地図の作成など…。まあ、表向きには、だが。
「領主だってだけで、今まで、なにもしてこなかったってことさ」
「上に立つ人間がいるということは、安心できるということですよ」
「堤を築いてることだって、俺は知らなかったんだぞ」
 あの大木の上から、川が見えた。
 そこでは、大勢の人間が、なにか作業をしていて…。
「今年は、洪水の起こる年なんだそうだな」
 そう、名雪から聞いた。
「ええ…そうですな。今年は…。もう、10年に、なるのですな」
 どこか遠い目をした神主の姿が、妙に印象に残った…。

「祐一〜、ごはんだよ〜」
「ああ、今いくぞ!」
 名雪の料理は、まあ、問題ない。
「…ブハッ…!! な、なんだこれはっ!?」
「野苺のおみそ汁だよ♪」
 …そうか。山に入った時、なにかやってると思ったら…
「お前っ、味見したのか、これっ!?」
 想像しただけで、分かると思うが。これは…
「うん。苺、美味しかったよ〜♪」
 そう。普通に作る分には、なんら問題はないのだ…が。
「作り直せ。…ふつうのみそ汁をな」
「ええ〜? イチゴ、美味しいのに〜」
 こんなに赤いのに…
とか、ぶつくさ言いながらも、膳を手に厨に戻って行こうとする名雪。
がっくりとうなだれる姿が、哀れで――
「デザートは、苺がいい」
「うん♪ 練乳たっぷりだよ!」
 …俺も、甘いな。だが…
「名雪の笑顔に、なぜだか救われた気もしたのも、事実…か」
 なんで、だろうな?

「祐一は、好きな人とか…いる?」
「…ブハッ…!! な、なんだそれはっ!?」
 普通のみそ汁を持って、戻ってきた名雪が、突然、訊いたから。
「ゲ、ゲホっ…お、お前は…」
 どうしてこう――
「ごめん。おみそ汁、また失敗してた…?」
「そうじゃないっ! どうしてっ…急にそういうことを訊くんだと」
「聞きたかったから。祐一のこと」
 悪気は、ない。それは、分かる、のだがな。
「そんなことを聞いて、どうする?」
「え? あ、えっと。祐一くらいなら、結婚しててもおかしくないって
いうか…身分の高い方は、結婚も早いって聞いたから」
「まあ――確かにな」
 兄たちも、既に嫁をもらって…今も後継争いに励んでいるだろうが。
あれ――?
「お前…なんで、それを…?」
 俺が久瀬家の人間だってのは、秘密にしていたはずだが…?
「え〜? 憶えてないの? だって、祐一は…」
「…自分で、言った?」
「うん。初めて会った時に、自分で言ったんだよ♪」
 そう――だったか?
『宮司殿に、久瀬祐一が来たと伝えてくれないか』
 ああ、そういえば…
「この街で、久瀬の名を言えば、誰でも平伏すに違いないよ」
 …お前、平伏さなかったじゃん。
「なら訊くが…お前はいるのか。好きな奴とか」
「え――?」
 人に話を振るだけ振っておいて、その態度はなんだ。
「い、いるの…かな? あ…ううん、わからない…んじゃないかな」
「行き遅れるなよ。まあ、お前なら、引く手あまただろうがな」
 家事全般もそつなくこなすし…。なにより、
「綺麗だ――」
「え、なに? なにか、言った?」
「いや、なんでもない。いい眺めだったな、と言ったんだ」
 なにを、誤魔化してるんだか。
「うん。あの場所はね…祐一だけに教えた、私の――」
 …なんだ? もしかして、俺は――
「とっておきの場所なんだよっ」
 名雪の笑顔が、こんなに――

「好き…なんだろうか?」
 布団の中で、そう呟いた。なんだか、眠れなくて…。
 …ト…
「…ん?」
 …テン…トン…♪
「この、音…?」
 寝巻きの乱れを直して、廊下に出た。
 …テテテン、トテテン…トン、テン、トテテン♪
「名雪…か?」

 優雅な調べが、月に溶けて…
「…祐一? 起こしちゃった、かな?」
 そっと、弦を弾く、彼女の後ろに回り込んで、座る。
「続けてくれ…」
「あ、でも、あたし、楽器とかよくわからないし…」
 なんだ、適当に弾いてただけか。
 でも――
「寝れなくてな。暇つぶしぐらいには、なるだろう」
「あたしも。なんでかな、眠れなくて…」
「その、琴は?」
「倉庫で見つけたの。神主様に訊いたら、持ってっていいって」
「倉庫で? 随分、古いものみたいだな」
「何代か前に、奉納されたものらしいって、言ってた」
「大事なものなんじゃ、ないのか?」
「そうかもしれない。ねえ、祐一…知ってる?」
「なにを…?」
「この神社のどこかに、なんでも願いの叶う、不思議な織物が隠されて
るんだって? 本当だったら、素敵だよね♪」
 なんでも願いが叶う…か。なら、俺なら、なにを――?
「織物っていうと、服とかか? そういや、いつもと少し、格好が違う
ような気がするな。それが、その――」
 なんでも、願いが叶う…。なら、俺は――
「あはは…これは、ただの儀式に着けるものだよ。本当はね、これを…」
 倉庫に探しに行っていたのだと。
「それで、その琴を見つけたってわけか」
 …テン…トン…テン…♪
「綺麗だな…」
 月明かりに照らされた、彼女の姿が、とても――
「綺麗な、音だよね♪」
 月に溶ける、澄んだ――その、瞳が…
「祐一?」
 その、唇が――
「ん…ゆう、い…ち…? んんっ…」
 ああ、俺は、こんなにも、彼女が――
「名雪っ!」
 だから、力いっぱい、名雪の身体を――抱きしめた。

 翌日――
「ふむ…かなり工事も進んでるな。そろそろ、完成か」
 10年に1度、やってくるという洪水。それを防ぐためには、堤を
築かねば、ならない。それも、もうすぐ終わる。
「あ、おはようございます」
「ああ。おはよう。もうすぐ、完成だな」
 随分と街の人間とも馴染んでしまった。尤も、俺が久瀬の人間だと
いうのは、未だ秘密にしたままであったのだが。
「そうだな。これが完成すれば、儀式をして終わりさ」
「儀式…?」
 そういえば、名雪が儀式の服がどうとか言ってたな。
「ああ、龍神に神子を捧げるのさ。なんだ、知らないのか、あんた?」
 それは――
「それは、どんな…?」
 聞いちゃ、いけない。そう、判ってた、のに――
「あそこに、穴が作ってある。その中に――」
 あの、中に…
「生贄を入れるのさ。なに、すぐに終わるさ」
 …俺は。

「まだ、決まったわけじゃないさ…」
 俺は、彼女になにをしてやれる…?
「まだ、彼女がそうだと、決まったわけじゃない!!」
 神子…
「神子…だ。神の、子。巫女…」
 違うっ! そうじゃないっ――!
「そんな、意味のない儀式…続けさせちゃ、駄目なんだ…」
 本当に、俺は…久瀬は、なにも解ってなかったんだ。
「この街のこと。巫女という存在の、意味…」
 だから――
「違うって言ってるだろうっ! この馬鹿がっ!!」
「…ゆういち?」
「あ…」
 な、ゆき…?
「あ、ああ、なんでもない。気にするな」
 なんで、目を反らさなきゃ、ならないんだ…?
 そんな必要なんて――
「なあ、昨日…儀式がどうとか、って…言って…」
「うん、もうすぐだね」
「なあ、その、儀式ってのは、…その、舞かなんか踊ったり…」
 石橋殿が、祝詞を奏上して…それで――終わりだ。
「龍神様に、花嫁を捧げて、怒りを鎮めるんだよ」
「…そうか。その、花嫁ってのは、もう、決まって…」
 聞くなっ! 祐一、やめろっ!!
「決まって…るんだよ、な?」
「うん。こんな、こんな名誉なことって、ないよね♪」
「なにが、名誉だよ。今時、生贄なんてっ――!」
「私…神主様の、本当の娘じゃ、ないんだよ」
「ああ、知ってる」
 ここに来た時に、聞いた。
「お父さんはね、10年前の洪水で…帰って、来なかった――」
「それとこれとは、関係ない」
「あるよっ! ある…。神主様はね、今まで私を育ててくれたんだよ?
両親のいない、こんなわたしを…。だから――」
「石橋が、やれって言ったのか?」
「違うよっ! 神主様は、とってもいい人だよ。これはね…街の女の子
全員で――くじ引き。う〜ん、外れ…だったのかな」
「そんな、ことで…」
 そんなことで、決めていいことじゃない。
 くそっ、なんだよ…なんで、こんなに矛盾してやがるっ!!
「わたしはね、人の役に立ちたい。今まで、迷惑ばかりかけてきたから。
だからね、これは――」
「俺は、ちっとも迷惑なんて…かけられてねえよ」
「変な食事だしても? 朝、早く起こされても?」
「お前…あれ、わざとっ――か!?」
「うん、祐一が、わたしのこと、忘れないように。ううん…忘れても、
いい。こんな、女の子もいたんだって、思い出して、くれたらって…」
「忘れ…られるか。忘れ…」
 こんなに大好きな女の子のこと、忘れることなんて…
「だからね、これは、願いが――」
 あの夜、織物に込めた、私の願いが叶ったのだと――
「それじゃ、やっぱり…」
 この、千早という服が…どんな願いをも叶える。
「まあ、わからないけど。私は、そう信じてるよ。神様が、願いを聞き
届けてくれたんだって。だから…もう、思い残すこと、ないよ――」
「俺は…」
 後悔ばかりだ、名雪。
「…逃げ、ないか? 2人で、どこか、遠く。誰も追ってこれないよう。
決して、離れえぬよう…流されぬように…」
「私がいなくなれば、この街の人々は洪水で流されてしまうんですよ?
なら…わたしは、この街になくてはならない存在…なんだよ」
「名雪、お前は、どうして――」
 そんなに、馬鹿なんだ…。
「誉めてほしいよ、祐一。名雪は、立派な女の子だって」
 馬鹿だ。お前は、救いようがない、大馬鹿だよ…。
「立派に…役目を果たしてこい。俺は、絶対…」
 絶対に、忘れないからっ!
「祐一っ! う…ぐす…ゆうひっ…ゆういちーっ!!」
 …ぎゅっと…。
「名雪っ!」
 例えお前が、誰のもとに嫁いでも…俺は――
「お前を、離さない、名雪」

「…終わり、ましたな〜」
「…石橋殿か。…あいつ…笑ってたか?」
 俺は、名雪の最期を…見てやることも出来なかったのか…!!
「祐一様、これを――」
 名雪の――願いの叶うと言われた、織物…
「あの子の変わりに、貰ってやっては…いただけないか」
 本当に、どんな願いも叶うというのなら、俺は――

                      第2章  − 完 −
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