第1章「ものみの丘」

――ものみの丘に、賊が出るってな?
――近寄らんほうが、ええべな。
 人々が、食うのもままならない、そんな…時代のこと。

「お腹、空いた…」
「ああ、そうだな…」
 奴の力無いつぶやきに、力無く、返す。
もう、何日くらい、食べてないんだろう…。
「あぅ〜…」
 並んで、ぐったりと木にもたれかかっている、奴。
名前は――無い。いや、
『知らない…』
と言ったのか。もう、よく覚えてねえ。
『…食い物を、出しな』
『持ってない…』
『そうかい。だったら、さよならだ』
 そんなやりとりをしたのは、いつのことだったか。
俺はそうして、今まで生きてきた。この、ものみの丘で。
だから、悪いことだなんて思ったことはないし、
「…なんで、こんなことになっちまったんだ」
 あの時だって、奴を斬って崖下へ蹴り落とす。
俺は、いつだって、そうして来たはずだ。
 なのに――
「肉まん…食べたい…」
 どうして、こんな奴が…斬れなかったのか…。
「しょうがねえ。ちょっと待ってろ」
 俺は、今までこうして生きてきた。だから――

「…食い物を、出しな」
「ひッ…野盗か? 出す! 有り金全部置いてくからっ…!!」
 ザくッ…
「さよなら」
 ごろごろごろと、血塗れの物体が崖を転がっていく。
「金…か」
 そんなものの使い方、とうに忘れちまったよ…。

「ほら、食え」
「うん…」
 どっかから逃げてきたらしい、汚い為りの娘に血塗れの肉まんを渡す。
2人いるってことは、俺の取り分も当然、半分だ。
「ちっ…」
「…なに?」
 狐色の髪を長く伸ばしたガキが、視線だけで俺を見ている。
初めて会った時から、ろくに口もきかねえ。…変な奴だ。
「服が汚れちまったんだよ」
 もともと、汚え、どうしようもない代物じゃねえか。
「川…」
「じゃ、お前は待ってろ」
 ふるふる…
「しょうがねえな。ほれ!」
 奴に、背を向けて、かがみこむ。
奴の脚じゃ、河原まで降りられないからな。
「逃げないようにたって、腱まで切るこたねえだろうよ」
 こいつが、どこぞの邸宅から逃げてきたという、証――。
「おい、なんで逃げた。捕まったら、見せしめに
「生きている、証が欲しかったから――」
「生きてるから、めしが食えるんだよ」
「生きてるって、言えるのかな…」
 同じことの繰り返し。殺して、食べて…殺して――
「…着いたぞ」
「なんか、光ってる。なに? …あっ、消えちゃった」
 そうか、もう、蛍の季節なのか。
「潰すなよ。そいつらだって、必死に生きてんだからな」
「生きて…いる?」
 じっと、手の平で動かなくなった、もう光らない虫を見つめる。
「わたし…輝いてる? 生きているなら、この虫みたいに――」
 俺は――
 下から覗きこむような視線を無視して、
 なにも、答えなかった。
 そんなの――輝いてるわけないだろう。
「薄汚れた、俺達みたいなのが…輝いているように見えるか?」
「ううん…でも、わたしは、輝いて生きてみたい」
 あの、蛍みたいに――と。
「そんなのは――」
 出来るわけない。無様に、汚らしく、生きていくしかないんだ。
「あれ…?」
 奴が、腱の切れた右脚をひきずるように、それに近づく。
小さな手で、拾い上げたそれは――
「布…か?」
 銀色に輝く――薄い布のようなもの。
「こんなものだって、輝いているのにね…」
 ぽつり…。
「貸せよ。ほら…こうすりゃ、少しは輝いて見えるだろ」
 布をひったくって、奴の頭にかけてやった。
「輝いて…るかな?」
「ああ…綺麗だぜ」
「そう…ありがとう」
 俺達は、まだ生きていられる。そう、信じていた――。

「春が来て、また次も春だったら、いいのにね…」
 冬が来て、ものみの丘にも、白い雪が降り積もっていた。
そんな、寒い日のこと。
「なんだ、元気ないな。腹、へったのか?」
「うん…肉まん、食べたい…」
「そうか。じゃ、そこで待ってろよ」
「うん…」
 とはいうものの…

「こんな時期に、ここを通る奴なんて、いるわけないな」
 …しょうがねえ。
「ちょっと危険だが…」
 街まで降りて、手に入れてくるしかないか――。

「ほら、持ってきたぞ。…おい、どうした?」
 壁に穿たれた穴の奥。それが、俺達のねぐらだった。
その暗い穴ぐらの中。苦しみ悶える奴の姿が――。
「どうした、おいっ!?」
「ハアッ…ハッ…グウッ…!」
「なんだ、これ? すごい熱じゃないか!?」
「ハッ…ハァ……あ…に、くまん…どこ?」
「肉まんなんて、どうでもいいっ! お前っ――!?」
 流行り病か――?
「しっかりしろ! 今、薬取ってきてやるからな!!」
「い…やだ…も、う…ず…っと…い…」
「な、おったら! 治したら、ずっと一緒にいられるっ!!」
 だから――

「待っててくれ。必ず…」
「どこだっ! どっちいきゃあがった!!」
「逃がすでねえぞっ! おめさ、あっちけ!!」
 …ちっ。
「なんで、斬れない…!」
 薬を探しに忍びこんだ、大きな邸。
 ばったりと――
『なんて、運の悪い。こんな時に、来なければ…』
『ひッ…泥棒!? お、お願いします、生命だけは…!』
『………』
 ――斬れ!
 俺の脳が、そう命令している。
 ――斬れ!!
 身体が、動かない…。
「なんで…」
 ――斬るんだっ!!
「なんで、斬れない…!」
 声を上げたら、斬る。そんな恫喝、俺が消えれば、それまでだ。
「殺っておかなきゃ、ならない奴だったんだ。それを…!」
『殺さないの?』
 初めて会った時に、「奴」が言った言葉を思い出す。
『どうして――?』
「…知るかっ!!」
 くそっ…いまいましい…。
「遠回りになるが、仕方ねえか」

「は、ハッ…ア…ハァ…おい? 生きてるな、おいっ!?」
 情けねえ…。この俺が、背後から斬られるなんてよ…。
「……に…く…ま…ん?」
「馬鹿っ! 薬だ。…ほれ、飲めよっ」
「う、ん…」

「ハッ…ハァ…くっ…は、ハッ、ハッァ…!!」
「がんばれよ、もうすぐ…春だ…」
「は、は、…る…?」
「河原の…花が、綺麗で…見たいって、言ってたろ?」
「あや、め…」
「ああ、あやめだ。紫の花が、一面に咲いたら綺麗だって――」
 お前が自分で言ったんだ。
「そんなことも、忘れたなんて言うなよ、おい」
「あ、あ…あやめ…ハ…咲、いた?」
「もうすぐだ。もうすぐ…だから」
「うん…たのし…み…。ね、かわら…つれて、って…」
 呼吸が荒い。素人目だって、もう――
「ああ…行こう。あやめ…咲いてると、いいな?」
 一瞬…こいつの握り締めた、あの、布が――
「光った?」
 …だろうか。もう、こんな布きれには、用はない。
から――
「行くぞ。ちゃんと掴まってろよ」
 するりと手のひらから抜け落ちた、あの布は。

「さ…いて、ない、ね…」
 河原に、さらに軽くなった、細い…身体を横たえる。
「すぐに、咲くさ。…ほら、もう、つぼみが…」
「みた…かったね。いっしょ、に…」
「ああ、見ようぜ。2人で、満開になった、この、花を」
「みた…か…った………」
 力なく――
「おいっ!? まだ…死ぬんじゃねえっ!!」
 その目が――閉じた。

「春が来て、また次も春だったら… か」
 そうだな。そうしたら…
「ずっと、お前も咲いて――輝いて――」
 奴の死体を埋めた、この河原で…
「なあ、あやめ」
『知らない…』
 ずっと、名前もなく、生きているんだかも、わからなかった奴。
せめて、名前くらい…やってもいいだろう?
「なあ…あやめ?」
 いいよな、こんな名前で…も…な。
「ハ…最期だから、教えて…やるよ。俺の、名前は――」
 祐…
「――ッ!?」
「…賊が。こんなとこに隠れてやがったか」
「き…さ…」
「天罰だっ! この極悪人めっ!!」
 ずぶっ…ずぶり…
「くっ…いい…のかよ? 感染るぜ…お前…ら…」
「うつる…なにが?」
「お、おい…こいつ…まさか…流行り…」
「ま、まずいっ! ここにゃ、近づいちゃなんねえっ!!」
 走り去る、街の人間――。
 そうだ。お前らなんかにゃ…

「この場所は、もったいないぜ。なあ――」
 お前の、望みどおり…ずっと、一緒に…
「春が来たら、一緒に………」

                      第1章  ― 完 −
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