夢のあとさき

 ――状況を、整理しないといけない。
「大和――庄一?」
 あの男が、矢を燃やしたのか。
「まだ、終わらせるわけには、いかないんでな」
 ニヒルに笑う、庄一。
 彼は、那波の後方、数十メートルのところに立っている。
 隣に、見知らぬ小さな女の子。小学生くらいか。
「庄一、邪魔をしないでっ!」
 花梨が、庄一を睨む。
 位置関係――。
 真っ直ぐ伸びた長い廊下の最も奥。
 あの、鏡のあった壁の、手前にいるのがマリア。
 その手前が、わたし。どちらも、廊下の伸びる先――つまり、
「わはー、透矢ちゃんだーっ!」
 庄一の隣に立つ女の子が、透矢に大きく手を振った。
「知り合い――?」
「大和鈴蘭。庄一の、妹だよ」
 わたしの問いに応えながら、小さく手を振り返す透矢。
 ――つまり、わたしたちは全員、庄一のいる方を見ている。
 わたしの2メートルほど前に、透矢の背中。
「私は、終わらせるために来たのっ! 邪魔をするというなら――」
 再び、矢をつがえた花梨が、その先を庄一に向ける。
 透矢の1メートル前に、那波が。
 ――訂正。
 那波だけは、こちら――廊下の終端の方を向いている。
 もちろん、庄一と、女の子もだ。
 わたしと透矢と花梨で、正三角形が描けるか。そして――。
 透矢と那波のちょうど中間地点あたりが、矢の消失したところ。
 ――ナナミがいたところ。――ナナミは? 消えたか。ちっ――。
 花梨は、わたしの左前方――。
「無駄だぜ、花梨。その矢は、俺たちには届かない」
 庄一が、にやりと笑う。
 ――花梨は、透矢も、那波も、庄一たちも狙えるポジションにいる。
 身体の方向を変えれば、わたしとマリアも。
 つまり、かなりいびつな、扇の要――。
 ――どう動くか?
 静寂。
 花梨と庄一の、睨み合いが続く――。
 空気は、ぴりぴりと震えているようだ。
「透矢――」
 小さな声で、彼の注意を引く――。
 わずかに、彼の身体が後方へ傾ぐ。
 ――気付いてくれたみたいね。
「あなたは、那波を護る。いいわね?」
「アリスは――?」
 透矢は、前を向いたまま、小声で訊いた。
「さあ――どうしよう。距離がありすぎて、困っちゃう」
 相手は、遠距離攻撃用の武器を持っている。
 それも、火炎放射器かなんかじゃなくて――つまり、魔法?
「なんか、いんちき魔法使いみたいね、あいつら?」
「インチキは、アリスだと思うけど?」
「出来ないことを…出来ちゃうから、いんちきなのっ!」
 本当に、この世界の法則を――無視してる?
「さすがに、異世界から来たとか、うそぶくだけあるわ…」
「あんたたちのせいで、ナナミを仕留めそこねたっ!!」
 弓を構えたまま、花梨が。
 ――まるで庄一を叱るように叫んだ。
「それじゃ、こっちの都合が悪いんだよっ!」
 今度は、友達同士で喧嘩でもするように、庄一が怒鳴る。
「わたしは、透矢を迎えに来ただけなのっ!!」
「かえさねえって、言ってるんだ。解んねー奴だな、お前はッ!!」
「どーせ、私はもの解りの悪い…。いいから、透矢を返せッ!!」
 ぎりぎりぎり――。
 既に矢は、限界まで引き絞られている。
「こ…ンのバカ庄一がぁッ!!」
 ヒュゥ――ッ!!
 矢が、花梨の手を離れた。
 さっきと同じ。凄まじい勢いで突き進む、先の尖った凶器の矢。
 もちろん、距離がある分、到達するまでの時間はあるけど。
 当たれば、大怪我。最悪、死ぬ――。
 矢は、庄一に向かって真っ直ぐに進み――。
「え――!?」
 余裕の表情で、微動だにしない庄一めがけて突き進む矢が――。
「なんで?」
 呆気にとられて身動きの取れない花梨を、めがけて――?
 ――ありえないっ!?
「ッ!?」
 花梨の顔が、その一瞬に。恐怖に引きつっていくのが見える。
 戦慄。
「――っていうの。やってられないわっ!!」
 たくぅ――。
 勘弁してよね。
「アリスッ!?」
 透矢の声。ごめん。あーあ、なにやってるのかな、わたし――。
 なんで、矢が反転なんてするのよ。物理法則解ってるの?
 とっさに、花梨の前に飛び出した、わたしの身体が、
「――ッ!?」
 一瞬の、激痛。浮揚感――。そのまま。

 その一瞬は、とても長く感じた。
 違うな。その一瞬に、とても多くのことを、理解したんだ。
「アリス、良かった…」
 気付いた時には、もとの世界にいた。
 透矢がいて、マリアがいて、那波がいる――。
 この世界の、学校の校舎。
 花梨は、さっきと同じ場所で、へたりこんでいるみたい。
 声をかけようと思って、失敗。
 俯いて、世界のすべてから、忘れ去られたかのように。
 宮代花梨は、生気のない顔をしていた。
 どうする――?
 それを考えようと、軽く目を閉じた、その時――。
「わ、なに? ちょっと――透矢っ!?」
 いきなり身体を強く抱きすくめられて、わたしは、嬉しくて。
 ――焦った。
 この世界のわたしは、そうしないといけないから。
 しょうがないよね。
 手を床について、わたしは、ゆっくりと、起き上がる。
 目の前に、透矢の顔がある。
「ごめん…」
 今にも泣き出してしまいそうな透矢に、なぜかわたしは謝っていた。
 少しだけ、今までのわたしとは、違うかもしれない。
 だけど、それも、いいんじゃないかと思った。
 ――わたしは、透矢が好き。
「ご無事で、なにより」
 さして嬉しそうでもなく、
 心からの笑顔で、那波がわたしに語りかける。
「ありがとう」
 わたしも、笑顔――。
「那波がね、反魂(はんごん)の法を、使ってくれたんだ」
 透矢が言い、わたしが訊く。
「反魂――?」
「生命の巫女の力。失われた魂を、呼び戻す奇蹟の力だよ」
 胸に突き立ったはずの矢も、傷も、血の跡すらも消えている。
 那波の使った、いんちき魔法――。
「便利な力――。危険な力でも…あるかしら」
「そうですわね。いんちきですから」
 にこり――。那波は微笑む。
 死んだ人間が生き返る。
 世界の法則を知っていたら、出来ない芸当。
 でも、ないのだな。
 世界を知らないのは、わたしも透矢と同じか。
「あなたがバカで、助かったわ」
 透矢にキス――なんてしたら、全員が怒りそうなので、やめた。
 くそ、バカ透矢め。
 よくも、こんな世界に連れてきてくれたものだ。
「やっぱりむかつくっ! 再起不能にしてやるっ!!」
 バッ――と。
 透矢の手を振りほどくように勢いよく立ち上がると。
 わたしは、ガラス製の固いビンを手にして構える。
 そして、透矢の顔をじっと見る。
 ――かあっ。
「そ、そんな頬を紅潮させて怒らなくてもっ!?」
 なにを怒っているの?
 とでも言いたげな、透矢の純粋な瞳を見た。
「――まあ、いいわ」
 わたしが生きていられる――此処にいられるのは、透矢のおかげ。
 それは、那波の力なんかじゃない。
 もちろん、那波の力は、本物。
 この世界にあっては、それはまぎれもない真実。
 異世界なんていっても、この世界の一部であることに違いはないから。
 ここは、瀬能透矢の世界だから。
 記憶喪失で、世界の常識すら曖昧な、透矢の世界だから。
 ――なにが起きたところで、ちっとも不思議なことじゃないんだ。
「運が良かったな」
 少しだけ、ほっとしたような表情で、庄一が言った。
 彼は、すぐ近くで、なにやら暴れている妹を必死に抑えつけていた。
 わたしが、世界から――いや、
「わたしが死んでいる間に、なにかあったの?」
 そういう言い方も、なんだかゾンビにでもなったみたいで、嫌かな。
 透矢が応える――。
「鈴蘭ちゃんがね…」
「放せー、バカ庄ちゃん! ボクは透矢ちゃんがいいんだー」
「――というわけで」
 透矢の説明は、いまいち説明になってないけど。
 要するに、
「あの子が、兄よりも透矢を選んだ…というわけね?」
「そうだよー」
「あ、こらっ!? バカ鈴蘭――ッ!」
 とててーっと、彼の腕をすり抜けた鈴蘭は、透矢に向かって走り。
「うんしょ…」
 よじよじと、その背中に上っていく。
 肩車のような格好になった。
「わはー、高いー♪」
「このバカ鈴蘭ッ、敵と戯れるな――ッ!?」
 という、庄一の叫びも――聞いてなどいない様子で。
 彼女は、透矢の頭を小さな腕で抱きしめていた。
「さて、仕切り直しね――」
 わたしは、庄一を見た。
 鈴蘭が寝返った今、戦力的にどうなのかはともかく、数で有利。
 まあ、それはもともとなんだけど。加えて――。
「こちらには、生命の巫女がついているわけよね」
 それはつまり、死を恐れる必要がないということ。
 もちろん、彼女にも限界はあるのだろうけど。
「死なない、兵士――か」
 わたしの呟きに、庄一がわずかに反応した。
 ぎり――と、歯を噛み締めるような仕種。
 那波を見れば、やはり、下を向いて――。
「当たりかしら?」
「反魂は、術者本人にも負担が大きい。そう、ざらとは使えねえさ」
 ス――ッ!
 微かに風を斬る音がして、庄一が手にした日本刀を抜いた。
 切っ先を前に向けて、右手を前に突き出す。
「まあ、二度はないと思った方がいい」
 目の前に、真剣の刃がある。
 見たところ、普通の刀。もちろん、触れれば切れるだろう。
「これが、村正というものらしい」
 にやり、庄一が口許を歪ませる。
「ムラマサ? まさか、透矢のたわごと信じてる?」
 信じるも信じないも、それが世界の真実なんだろうけど――。
「健二は、熱心に捜してるようだがな。俺には、ただの刀だ」
 すぅ――と、右手を左斜め下へ引き。
 柄頭に、左手を添える。
 右手首を内へひねり――。
「烈風――ッ!!」
 右上に切り上げるかたち。
「間合いが――えッ!?」
 間合いが、広すぎて、刃は届かない。そう思った、のに。
「――クッ!」
 慌てて身体の前で両腕を交差させて、それを防ぐ。
 ――ムリか。
 重い石を投げつけられたような、強い圧力。
 台風の中を、歩いているような感じか。
 とにかく、激しい風圧を受けて――。
 また――!?
「おねえちゃん――ッ!?」
「アリスッ!」
 ――ズシャァァァッ!!
 マリアと透矢の悲鳴を聞きながら――。
 身体が、地面に叩き付けられた。
「グウッ――」
 意識がある分、今度のは痛い。
 矢が飛んでこなかっただけ、マシか。
 床が木の板ってのも――。
「ツぅ…女の子の身体、なんだと思ってんのよ…」
 さっきと、同じ――能力だ。
「大丈夫、おねえちゃん?」
 マリアが、慌てて駆けよってくる。透矢も――。
 那波は、じっと立っていて。花梨は、へたりこんだまま。
 先ほどの件が、まだ吹っ切れていないようだけど。
 こっちはこっちで、それどころじゃないんで。
「それが、あなたの術?」
「大気中の風を、自由に操る能力さ」
「ふうん。風も吹かない世界の人間がねえ…」
「――なにが言いたい?」
「別に――。生まれ育った環境とは、関係ないのかなという話」
「俺は地上育ちだよ。俺の祖先は、その昔――まあ、それはいい」
 再び、彼は刀の切っ先をこちらへ向ける。
「二度も死にたくはないだろう。大人しく――」
「那波を返せ? 鈴蘭を返せ? ――本人に言うのね」
 もっとも――、
「本人が、イヤって言うんでしょうけどね」
「嫌ですわ」
 すぅ、と。那波が倒れたわたしを庇うように――。
「那波ッ!」
「帰りなさいと、言っている――」
 庄一の前に立ち塞がるように、那波がわたしに背を向けながら。
 いつもより、少し低い声で言う。それは、宣告だった。
「あ、ああ…そうだな。君が、そう言うのならば…」
 気圧されたように、庄一はじりじりと後ずさっていく。
 ここから、那波の顔は見えないけど。
 もしかしたら、とても怖い顔をしているのじゃないか。
 ――にたり。
 鏡の中の、あの白い顔が思い浮かぶ。
 気味の悪い、笑顔――。
「2つ目の村正を見つけた。それで、いいか」
 自身を納得させるかのように、庄一が呟いている。
「香坂――アリスと言ったな」
 刀を鞘へと収めた庄一が、わたしを見下ろしている。
 わたしはまだ、床に手をついて、立ち上がれないままでいる。
「そうよ」
 左の足首が、ズキズキする。――折れたかもしれない。
「世界の仕組みは、知っているのか?」
「なんとなく、解った。一度、死んだおかげでね」
「そうか。ならば、なにも言うまい。花梨と…鈴蘭を頼む」
 ちら、と。透矢の頭にあごを載せて、愉しそうな妹を見た――。
「アホだが、力はある。少しは、那波の役に立つだろう」
 こいつも、なにを考えているのか、解らない。
 大和庄一は、ひらひらと左手首を返し返し、夜の学校を去った。
第8話