明鏡止水

「…死ぬかと思ったわよ。心臓が止まって」
「あはは、ごめんごめん」
 声の主は、宮代花梨だった。当直――なのだという。
 物音がしたので、様子を見にきたのだそうだ。
「――で、キミたちは、なにをしてたのかな? こんな時間に」
 廊下の明るい電灯の下で。宮代が、にんまりと笑いながら訊く。
 怒っているようには、みえないから。安心したのか――。
「あ、えっとその、幽れ――んぐ」
 素直に、真実を口走ったマリアの口を、慌ててふさぐ。
「忘れ物を、ね」
 にこり。わたしは、花梨に向かって微笑む。
「忘れ物って、なにを忘れたの?」
 じーっと。全員を見渡すようにして、花梨が尋ねる。
「宿題の、ノートとか」
「魂を――では、なくて」
 え――?
 慌てて花梨を見る、彼女は、那波の赤い瞳を、凝視している。
 那波は、なにくわぬ顔で、先ほどの場所に立っている。
「なにか――?」
 視線を感じたのか。那波にそう訊かれて、花梨は――。
「希薄なの。あなたの魂は。まるで――そう。どこかに、一部を忘れて
きてしまったかのように。それを、捜しているのではなくて?」
 そう答えた。確かに、那波には、なにかが足りないように思う。
 それは、視えないことに、起因するのだと思っていたけど。
 もしかしたら、心、感情――そういったもので、あるのだろうか。
 那波は、涼しげな表情で。にこやかに微笑みすら浮かべている。
「――まあ、私の思い違いなら、いいんだけどね」
 意味のない質問と思ったか。花梨は、那波の瞳から視線を外す。
 普通の人間に、霊だの魂だの言っても、通じないわけで。
 もっとも、那波は巫女で、あるのだから――。
 話の意味が、解らないわけもないだろう――とは、思うのだけど。
 そういえば――今日の宮代も、巫女装束を身にまとっている。
 彼女の父親は、この近くにある、宮代神社の宮ノ司なのだそうだ。
 彼女も本来は、そこの巫女なのだという。
 透矢とは幼馴染で。昔から、よく一緒に遊んでいたという話。
「宿直ってのは、そんな格好でやるものなの?」
 わたしの質問に、
「――まあ、そういうこともあるわ。暗いとこは、怖いからね」
 左の目を瞑って、ウインク。
 別に、夜の校舎の闇なんて、怖くもなさそうに花梨が言う。
「そうね。人は、闇を怖れるものだものね」
 だから、そう、わたしは応えた。
 ぎゅっと、再び透矢にしがみついて、震えるマリアの姿を見る。
 まったく――あんたも、魔女のはしくれでしょうに。
「それで。あなたは、ここでなにを祓おうというの?」
 訊かれて、にんまり。感心したように、花梨が笑う。
「幽霊よ。彼女によく似た――」
 再び、花梨が那波を見た。
「少女の幽霊。最近、宿直の先生が、見たって騒ぎだしてね」
「どうりで」
 こんな馬鹿っぽい女に、教師なんて務まらないと思ったのよ。
「あなたは、学校側に雇われた、退魔師ってことか」
「まあ、そんなとこだけど。――見た?」
「ばっちり。那波の顔をコピーした奴をね」
 わたしは、鏡のあった――はずの壁を指差した。
「ここに。透矢は、あの女の死体があるのじゃないかと言うけど」
「――いいえ。ここでは、ないわ」
 壁を、じいっと睨みながら――花梨が言う。
「花梨、訊いていいかな?」
 透矢が、その彼女の顔を、覗き込むようにして、言った。
「な、なにっ?」
 かぁーっと、頬を赤く染めながら。落ちつかない様子の花梨。
 ――コイツもか。
「まったく、なんでこう、どいつもこいつも…」
「えへへっ♪」
 マリアが、わたしの顔を見て笑った。
「うるさい、バカマリアっ!」
「う、おねえちゃんが怖いよぅ、透矢さん〜?」
 透矢に抱きついて、嬉しそうなマリア。
「む――なによ、この」
「――バカマリアよ」
 不機嫌そうな表情の、花梨の耳元でそっと囁く。
「バカマリアっ!!」
 花梨が、大きな声で、マリアを罵った。
「う…うぇぇぇん――!」
 大声に驚いたマリアは、透矢にしがみついて、泣き出してしまう。
「おねえちゃんにしか、バカって言われたことなかったのに…ぐすっ」
「よくも――」
 ここで、障害を排除しておくのも、悪くはない。
「よくも、わたしの大切な妹を、泣かせてくれたわね、宮代っ!!」
 やや大げさに――。
 胸の前で握った拳。歯を食いしばりながら、それを横になぎ払う。
「許さない。わたしの妹を貶めた罪、万死に値するっ!!」
「ひっく…おねえちゃん?」
 ぼーっと。夢見るようなマリアの瞳が、このわたしを見ている。
「ちょ、あんたが言えって言ったんじゃ――」
 慌てて、きょろきょろと周囲を見まわしながら、花梨が後ずさる。
 ムダよ。正義は、わたしに――香坂アリスにあるのだから。
「那波の捜し求める、心の欠片。魂の忘れ物――。それすら、あなたは
葬り去ろうという。人の心を持たぬ、あなたは悪魔よ――!」
 抑揚をつけて。感情を、押し殺すように、哀しい声で――。
 魔法――。これは、宮代花梨を討つ、闇の黒魔法。
「こ、この魔女がっ!?」
 ――くすっ。花梨の叫びに、思わず笑みがもれる。
「ひくっ…」
 マリアが、透矢にしがみつきながら、怯える瞳で花梨を見ている。
「マリアちゃん、大丈夫。僕がついてるから」
 それを宥めるように、優しく頭をなでる透矢。
 那波は――?
「わたくしの、心の欠片――」
 一歩も動くことなく。あの場所で――。
 ぼーっと、花梨のいると思しき方向を、見つめていた。
「く…なにが目的なの、あなたっ!?」
 花梨が、わたしを睨む。その表情が、良くない。
 わたしは、哀しげな――那波のような表情で、それを見返す。
「わたしは、ただ…那波の幸せを、心を、取り戻させてあげたい」
「アリスさん、わたくしは…」
「那波…大丈夫。あなたの心は、今もあなたの側にあるわ」
「え――?」
「感じてみなさい。あなた自身を。あなたの中にはない、あなたの姿を。
それが、あなたの、なくした半分――なのだから」
 ちらり、マリアを見る。ごめんね、わたしの大切な、妹――。
「…これが、わたくしの――?」
 那波が、胸の前で、両手を重ね合わせるように――。
 ぎゅっと。なにかを掴んだ。
 そうして、だんだんと見えてくる。
「な、なに、あれっ!?」
 花梨が、驚いて叫んだ。まだまだ、修行が足りないわね。
 那波の手は、それを掴んでいる。
 彼女に背後から覆い被さるように、抱きついた、その――。
 那波によく似た、女の白くて細い手首を。
「――捕まえた」
 わたしは、ソレを見据えながら言う。
 白っぽい、大陸ふうの衣装を身にまとった、実体を持たぬ、影。
「――なぜ解ったのです?」
 穏やかな声で、ソレが問う。
「那波、手を離しちゃダメッ!!」
「は、はい――」
 ぎゅっと、その手がソレを、強く握り締めている。
「――なんとなくよ。あんたが、過去に那波であったか、それとも別の
モノでだったかは知らない。でもね、今さらそれは、都合良すぎっ!」
 わたしは、ソレに応える。那波と同じ顔の、ソレに。
「これはもともと、わたくしの器――」
 那波の背を被うソレ――ナナミが、いとおしそうに、那波を見た。
 そうか、これが。健二の言っていた、ナナミというモノなのか。
「それは、牧野那波の身体。あなたのものなんかじゃないわ」
「わたくしの、邪魔をしようというの」
 優美なその、ナナミの表情が、少しだけ険しくなる。
「わたくしを呼んだのは、那波自身であるというのに――?」
「わたくしは――」
「手を離さないっ!!」
「はいっ!」
 再び強く握られて、ナナミが微かに顔を歪める。痛い――のか。
「わたくしが、那波の願いを叶えて差し上げようと…っ!」
「あなたの願いを、那波に叶えさせるのじゃなくって?」
「――ッ!?」
 ナナミの表情が、いっそう険しくなっていく。
 図星――か。
「那波の身体を、乗っ取るつもりなのね」
「依代にすると…言ってもらいたい。そのための、巫女でしょうに」
 ナナミは、那波を見た。
「――そういうことか」
 不意に、透矢が呟く。いや――それは、たぶん、違うから――。
「あ、こらっ!?」
 透矢は、那波に駆け寄ると。
 自身の手を、彼女の両手に重ねるように、握り締めた。
「あの、なにを――?」
 バカ透矢め――。
 驚いた那波は、それでも、ナナミを放すことはしなかったけど。
「ありがとう…」
「はあ…?」
 ぽかーん、と。首を、大きく横に傾げる那波。
 突然、なにを言い出すのか、この男は。
 いつもながら、この男の思考だけは、まるで予測がつかない。
「なにも言わなくていい。あなたの優しさは、僕はよく解ってるつもり
だから。そう――無実の罪に問われ、地上を逐われたあなたは、病魔に
侵されながらも、不出来な僕の成長を見守るため。そしてまた、真実を
明らかにし、この世界を悪しきモノから護るため。最後の力で、自身の
一部を切り離し、僕の前に現れてくれたんだね。――それを、僕は」
「はあ…?」
 那波は、逆方向に首を傾げた。話に、ついていけてない。
「気付いて、あげられなかった。あなたの存在に――。あなたはずっと、
この場所で、僕を待っていてくれたというのに…!」
 ――にこり。
 那波の後ろの、ナナミが微笑む。
 それは、本当に、彼女は、透矢を待っていたということなのか。
 透矢は――最初から、彼女に話しかけて?
「あなたは、あの日の。あの山の中で出遭った、僕のママ…」
「そんなことも、ありましたね。透矢――」
 優しく微笑む、ナナミ。
「那波は、ママが生み出した、ママの分身なんでしょう?」
 にこり――。微笑むナナミ。
 いいのか、これで?
 あの時――。
「――那波は、どうなる。お前の願いが叶った時、那波は――?」
 透矢が訊き――。
「君の、母になるよ」
 そう、牧野健二は応えた。
 あれは、こういうことだったのか。だけど――。
「あなたが、透矢のママになるのはいい。けど、それじゃ、牧野那波と
いうのは、なんなの? 彼女の存在とは、なんだったの?」
 その問いは、ナナミに対して。
 透矢に対して――。
「わたくしと、一つになる。もとの、一人のナナミに戻りましょう」
 ナナミが、答える。
「透矢は、それでいいの? 牧野那波を、失うことになっても…」
「那波を…失う?」
「そうよ。その女は、那波の身体が欲しいの。人間の、那波の身体がね。
透矢は、勘違いをしているみたいだけど」
 キッ――と。ナナミがこちらを睨む。
 余計なことは、言うな――と。
 わたしは、その視線を、軽く流す。魔女を舐めないでよね。
「ナナミを追い出したのは、牧野那波の方。そうでしょう?」
「わたくしは、ただ…」
 目を伏せた、那波。やっぱり――。
「那波にとって、その女の存在は、重荷でしかないわ。だから、彼女は、
それを捨てて逃げた。いい? 那波は、それの存在を望んでいないっ!」
 あなたの母親には――那波は、なれないのよ。透矢――。
 なぜなら、彼女は――。
「透矢、わたしを――ママを、助けて。この、闇から――」
「僕は…ママ…僕は、どうすればいいの? ――ねえ、アリス?」
 視点の定まらない、透矢の瞳が、泳いで――。
 そう。記憶喪失である透矢は、世界の姿を知らないから。
 だから――。
「あなたのママは、もう死んだのよ。なら、そこにいるのは、なに?」
 わたしが、あなたの世界を教えてあげる。
 どうせ――すぐに、変わってしまう世界なのだとしても。
 それを、基盤としている限りは――。
 わたしたちは、此処にいられるのだから。
「ママは、死んだ…。そう、ママは、死んだ。僕が幼い頃に」
 なにも視えていないだろう、闇の中で。
 透矢が、独り言のように呟いている。
「でも、彼女が、僕のママになってくれたから…」
「マリアが、あなたのママに、なってくれるって」
 わたしは、透矢にそっと呟く。
「宮代花梨も、なりたいって。どれがあなたの、本当のママかしら?」
「本当の、ママは…僕が幼い頃に――」
「そうね。じゃあ、山であなたが会ったのは、誰なのかしら?」
「それは、マ――ママみたいに、優しくて、大好きな…人」
「わたしのことは、好き? マリアのことは?」
「好きだよ、2人とも。花梨も、那波も、僕の大切な――友達だから」
 ――ちくん。少し、胸が痛んだ。
 けど、ここから。
「ママではないけど、大切な…友達なのね? なら、あの人は?」
 透矢を後ろから抱きしめ、背中に頬を押し当てるようにして。
 ――わたしは、透矢に、それを訊く。
「大切な、人。失いたくはない、存在だから」
「あなたが会ったのは、牧野那波だった?」
「違うよ。あれは…那波の、お母さん?」
 ちらり、と。視界の端に、微妙な表情の、那波が映った。
 懐かしむような、哀しむような、曖昧な表情。
「――そうね。それは、那波じゃあ、ないのよね?」
「うん」
「那波の身体を手に入れても。それは、違う人だから――」
「そうだね。那波の身体を、あの人のものにしても、意味はない」
 すっ――と。透矢の瞳が、世界を見据えた。
 その視線の先に、那波とナナミがいる。
「那波は、那波だよ。あなたの身体に、なることはできない」
「身体がなければ、触れることさえ、叶わないっ!」
 ――ナナミが、悲痛な声を上げた。
「那波は、あなたの手を、掴んでいるじゃない」
「それは――。この子が、巫女だから――」
「こっちへ来てよ。僕に、その手を――」
 すぅ、と。左の手を、前に差し出す透矢。
「だ・ん・な・さ・ま――」
 ナナミの綺麗に化粧した唇が、そう動いた――ように見えた。
 旦那様――?
「那波、手を離してあげて」
 透矢が言い、那波が、ちらり――と、わたしの方を見た。
「離すなっ!! ――放さないで」
 え――?
 わたしは、その声のした方を、見た。
「宮代――?」
 宮代花梨が、透矢の弓を構えている。
「あんた――ッ!?」
「透矢に害を為す者は、私が討つ!」
 こちらを一瞥した花梨が、再び、ナナミに向き直る。
 矢は、その方向を向いて、めいっぱいに引かれている。
 それは――。
 普通の矢ではなく。なにか別の力が、込められているのに相違ない。
「やめるんだ、花梨。彼女は――」
「キミを見てきたのは、その人だけじゃないんだよ。透矢っ!」
 今にも、泣き出しそうな顔で――花梨が、透矢に微笑む。
「キミはもう、苦しまなくていい。私が、全て、終わらせてあげる」
 ぎりぎりぎり――。
 力いっぱいに引かれた矢が、今にもその手を離れようとしていた。
「放せっ! わたくしは、今ここで消えるわけにはいかない――。再び、
旦那様に、愛して頂かなければならないのだから…離しなさいっ!!」
 やはり、旦那様――。誰だ?
「那波、手を――」
 わたしの足が、一歩、二歩と、前へ進み――。
「誰も動くなッ! ――牧野さんを、巻き込むつもりはないわッ!!」
 花梨が、真剣な眼差しで、彼女を睨みつける。
「宮代…無理よ。やめて――」
 そこから射れば、ナナミもろとも、那波を射殺すことになる。
「手を離しなさい、那波っ!」
 わたしの声が、さして広くもない廊下に響き――。
「はい――」
 すうっ、と。那波の手を抜け出したナナミが――。
「旦那様っ、わたくしは、ここに――」
「動くなとッ、言ったじゃないのっ!! ――くッ」
 ひゅぃん――。
 風を切る矢が、透矢と那波の中間に飛ぶ。
「くそっ――」
 ――燃えろっ!!
 まるでスローモーションのように、ゆっくりと流れていく矢を、睨み
ながら念じる。一瞬の間に、炎に包まれた、その矢は燃え尽きて――。
「…違う。わたしは、なにも、やってない…」
第7話