母をたずねて

「ちゃんと、説明してもらわないとね」
 わたしは、強い視線で、その中年男を見すえる。
「フッ…愚かだな、君も」
 その彼の呟きは、たぶん、透矢に向けられたもの。
 指で、眼鏡のフレームを持ち上げるような仕種で、彼は言う。
「こんな小娘にかまけて、一生を棒に振る気かね?」
「一升瓶を棒に振られましたが、なにか?」
 透矢が、股間を両手で押さえながら、うめいた。
 ――情けない姿ね。自業自得だけど。
「警察関係者なら、この変質者を逮捕してくれないかしら?」
 わたしがそう言うと。男は、ククッ――と小さく笑う。
「あいにく、警察とは縁遠くてね」
「でしょうね。こそこそと、こんな場所で死体を掘り返してるような男。
あなた、何者なの?」
「私か? 私は、那波の父さ。牧野健二という名のね」
 男は、真剣な表情で、そう言った。
 嘘を言っているようには、見えない。
「那波の骨がどうとか、殺されたとか言ってたのは?」
 ククッ。再び彼――健二は、低く笑った。
 ――気味の悪いやつ。
「牧野那波は、私の母さ。彼女は、私がまだ幼い頃に殺されてしまった。
下らん神話などを信じる、愚かな民衆によってな」
「それを…その人の亡骸を、さがして…?」
「そう。あの防空壕は、日本という国の暗部そのものなのさ」
 なるほど、あれは防空壕だったのか。
 神話というのは、ナナミ神話――?
「ナナミ神と、あなたのママ――那波さんが同じ名前であるのは、関係
しているのかしら。それに、この町の名前も」
 この町が、那波町という名前なのも。
「無論、関係ある。この地こそが、那波なのだから」
「なに…?」
 この地が、那波? それとも、この血――と、言ったの?
 男――健二は、にやりと笑う。
「母の、那波の魂は、あの洞窟にはなかった。なぜか?」
「…なぜ?」
 ――彼女は、そこではないどこかで死んだ。
 ――既に成仏した。つまり、行ってしまった存在。
 ――もともと存在しない。那波とは、彼の妄想の産物。
 いろいろと、考えることは、できるけど――。
「私は、思うのだよ」
 まるで遠い世界を見るように、健二は語る。
「私が母と慕ったあの人は、一個の人間なのではなく――。『母』という
概念そのものなのでは、なかったのかと」
「概念上の、母親?」
「そう。生命にとって、普遍なる存在としての、母」
「人の形をしているだけで、ヒトではない、モノと?」
 それは、怪――というものか。
 或いは、神――。それを、ナナミと呼ぶと。
「この町は、那波という名だ。私の母であった、那波というモノもまた、
この大地の生んだもの」
「母なる大地――?」
「その概念が具現化したモノが、那波というヒトであるのではないか。
すべての母たる存在。それが、ナナミという神の正体なのではないか」
「そうかなあ?」
 それは、少し違うような気がする。
「神話にみるナナミが、母性を描いたものだとは思えないけど…」
「それは、そうだろう」
 男は、また小さく笑った。
「日本という国では、大地は伊邪那岐、伊邪那美の子でなくてはならん。
大陸から流れついた、素性も判らぬ娘では、都合が悪いからな」
 日本列島が、大陸から離れたものであるのは、地理学では正しい。
 ――けど。
「神話には、七波という王がいるだろう。大国主――とは、呼べないか」
「攻め寄せた軍勢は、大和だったってこと?」
 それも、おかしい。
「七波は、軍勢を追い払っているわ。自身の生命と引き換えに、だけど」
 大国主は、天照に国を譲っている。
「武御名方は、そもそも諏訪の神であったという」
「――それが?」
「出雲とは、縁もない。なぜ、彼が大国主の子とされたのか」
「改竄――?」
「大穴牟遅というのが、大国主の名とされる。大国主とは、称号なのさ」
「つまり、王――というわけね。七波が大国主でも、いいわけだ」
「七波というのは、ナナミ――つまり、この土地の代行者を表わす」
「名代ってわけね」
 つまり――。
 ナナミが流れついたというのは、日本が大陸から離れたことを表し。
 それを追ってきた軍勢――が、大陸系ともいわれる、大和の朝廷か。
「七波が敵の軍勢を破ったのは、恐らく真実。その後、国譲りが行われ、
ナナミは岩戸に封じられた。つまり、神の名を剥奪されたと言っていい。
ナナミ神話は、大和に対する、七波の些細な抵抗であったのだろう」
 自説をとつとつと語る、牧野健二という男。
 それが正しいかどうかは、どうでもいい。
 彼が、なにを考えて。なにがしたいのか――。
 わたしは、それを知りたいだけだから。
「つまり――。我々は大和に勝ったのだと、暗に自慢してるわけね」
「そうだな。しかし、それはどうでもいい。問題は、ナナミだ」
「岩戸に、閉じ込められた――?」
「あの防空壕、どう思う?」
 なるほどね。
「鉄格子で厳重に閉じられた、死者の国へと続く道――ってとこ?」
「異国との戦の後――。密かに、ナナミを迎えに行った七波は、朽ちて
変わり果てた妻の姿を目の当たりにし、逃げた――という記述がある」
「イザナギ神話を、模しているわね」
 死んだイザナミを、迎えに行くイザナギの話。
「これで、ナナミと死が――結び付けられる」
「日本神話でも、母のイメージは、むしろ太陽神にあるかしら」
「だから、ナナミは地の神から、山の神へと姿を変えていったのだ」
「山の神?」
「山は本来、死者の魂の還る場所といわれた。山は、冥界なのだよ」
「冥府の支配者である、イザナミ――ナナミの地なわけね」
「平地を逐われ、山に入った、まつろわぬ民――つまり、山ノ民などと
呼ばれる存在は、もともとは、七波の配下にあった者たち。その中でも、
大和の神を祭ろうことを、潔しとしなかった者たちではなかったか」
「今なお、ナナミを深く信仰する――?」
「それも、戦争までの話だがね。戦時中には、山人狩り――というのが
行われた。馬鹿な話さ。国家総動員、国粋主義――まあ、異端狩りだな」
 透矢が、妄想で言っていた話も、割と真実を突いていたわけか。
 ちらり――透矢を見る。
 横になった透矢は、マリアに看病されて、うんうんと唸っていた。
 まさか、変なことさせてないでしょうね――?
「その山ノ民の巫女――つまり、神を身に宿す者を、那波と呼んだ」
 健二の話は、まだ続いているらしい。
「那波――?」
 彼の母の名。娘の名。巫女の、名前。
「那とは、この国。波は、海――生みだ。海から寄せるものでもある。
生命の根源たる海より生まれ、寄せ集められた、この大地。それが――」
「那波…か」
「そう。この大地こそが、那波。母なるもの――。それを身に宿す者も
また、母である。…人は、死して神になるという。神を宿す――それは、
すなわち人を宿すということ。人の魂もまた、母の胎内へと還るのだ」
 膝をつき、いとおしそうに、地面の土に振れる健二。
 この土が、なにかしら生物の屍骸だというなら。
 それは――。
 生は死より生まれるとも、言えるのだろうか。
「那波――私の娘は、私が山で拾った。目が不自由でね。私は思ったよ。
これは、巫女なのだと。見れば、母の面影がある。ああ、山ノ民の子だ。
そう思った。巫女とは、本来そういうものだからな」
「目が、見えない? 見ていない、だけではなくて――?」
 見えないと、彼女が思い込んでいるだけじゃないのか?
 この男と話していると、そんな気さえしてくる。
 妄執なんだ。すべて、この男の――。
「先天的か、後天的かは、関係ない。巫女である那波が、ナナミを宿す。
そのことが、私の母を、この現世へと呼び戻すことになる。私の娘は、
私の母になり――すべての母となる。失われて久しい、神代の世界を、
再びこの国に呼び戻すことにもなろう」
「あなたの狙いは、大和政権の打倒――?」
「打倒ではない。歴史の過ちを、正すのだ」
 そう、健二は言う。
 つまり、現代という――この世界の破壊と、再構築か。
「七波の末裔である私が、この穢れた世界を正す。見よ、この世界――。
見難く、朽ち果てようとしている、この大地」
 開発の進む、海岸線近くの街並みが、思い浮かぶ。
「――けれど、過ぎてしまった歴史は変わらないわ」
「変えられるさ。私には、これがある」
 胸元から、ネックレスのようなものを取り出す健二。
 紐で結ばれた先には、小さな石のようなものが括られている。
「それは――」
「ブルーウォーターだっ!」
 不意に、透矢が叫び――バッ、と立ち上がる。
「今、すべてが解った。七波とは、宇宙(そら)から来て、我々人類の
進化を促した、高等生命体だったんだ。その石は、ブルーウォーターと
いって、この世界を破壊し尽くすほどの――超兵器の起動キーなんだよ」
「いや、少年よ。これは涙石という――」
「お前は、バベルの塔で、世界を火の海にしようとしている。――そう。
僕の父は、山ノ民の王だった。その超兵器の起動によってもたらされる
世界の崩壊を潔しとせず、キーとなる石を持って逃げたんだ」
「いや、超兵器とか、そういうものでは…」
 健二の訴えは、透矢の妄想に、あっさりとスルーされていく。
 まあ、気持ちは解るから。
「父は、事故で再起不能の重症を負った。それも、お前の仕業なんだな」
 キッ――と。透矢の強い視線が、健二を射抜く。
「透矢のお父さんって、開発反対派だったんじゃないの?」
 そう聞いてる。なら、牧野健二と争う必要は、ないはずなのに。
「父さんは、大和との共存を望んでいたよ」
 僅かに俯いた透矢の視線が、再び健二に向けられる。
 健二は、当然のように、困惑気味で――。
「どうやら、長居をしすぎたな。今日は、礼を言う。小さな魔女よ」
 健二は、わたしを見て、わずかに微笑む。
「――借りは、返したから」
 わたしは、その男を、睨んでいたかもしれない。
「涙石とは、人の願いを叶える力。世界を、変える力だよ――」
 そう言って、彼は、この場を立ち去ろうとした。
「待て――」
 それを、透矢が呼びとめる。けど――。
「この世界に居続ける限り、君は私を倒せないよ。――瀬能透矢君」
「――那波は、どうなる。お前の願いが叶った時、那波は――?」
「君の、母になるよ」
「僕の、マ――ママ、に…」
 その言葉に。透矢が、動揺してる――。
「君も…望んでいるのじゃないか、母親の存在を――」
 ぴくん――。身体が、震えた。
 牧野健二が、わたしを見ている。
「それは――。そんなのは、わたしたちのママじゃない!」
 ママは、もう死んだから。もう、いないから。
 強くなったわたしには、もう、ママなんて、いらない――。
「そんな、人を惑わす魔法には。わたしは、かからないからっ!」
 わたしは、魔女なのよ。
「透矢っ! ――あなたのママは、誰?」
「僕の、ママは…」
 目を伏せて、力なく呟く、透矢に。
「那波さんは、あなたのママなの――?」
「ななみ…那波は、僕が守るから。だから――」
「ママは、あなたを守ってくれたんでしょう、透矢?」
 今度は、わたしが――魔法をかけよう。
 香坂アリスの、魔法を。
「ママは、僕を守ってくれた。だから、今度は僕が、那波を守る」
「ふ――」
 健二が笑う。
 ――透矢。あなたに、わたしの魔法は、心は、届かないの?
「僕のママは――僕がママと慕っていた人は、山ノ民だったんだろう。
本当のママを失った僕が、山で出会った、あの人。僕を守ってくれた、
あの人は。だから、今度は僕が、那波を守るんだ」
 よかった。ちゃんと、わたしの知ってる透矢だ。
「それが、ナナミだ。私が母と慕った、あの人と同じ…」
 健二が、透矢を睨むようにして、言った。けれど――。
「違う。那波は、巫女なんだろう。那波というのは、代々の巫女が継ぐ
名前なんだ。だから、その人は、もしかしたら――」
 那波の、母。或いは、またその母――なのかもしれない。
「それこそが、ナナミだ。母という者は、ナナミの想いの残滓を、その
身に受け入れた者。彼女の想いのすべてを、その身に宿すことができる
――巫女である、那波。ならば、その名を継ぐすべての存在こそが――
我々が、母親と呼ぶべき存在であるのだ!」
「バカバカしい――」
 わたしは、健二を見る。
 母というモノに囚われた、哀しい男の姿を。
「人はね、ナナミの存在なんてなくても、人の母になれるものよ」
「だったら。君は、我々の…その男の母になれるのかっ!?」
 牧野健二が、恐ろしい形相で、わたしたちを睨んでいる。
 自身の世界を、破壊しようとする。
 悪い魔女を――憎んでいる。
「なれないわ。だって、わたしは透矢のお母さんじゃないもの」
 だけど――。
「だけど、透矢の子供の、お母さんにだったら、なれるわ」
「僕の、子供――。アリスが?」
 透矢が、わたしを見つめた。
 いや、だから、それは――。
「透矢の、とか。そういうのじゃなくてっ。例えば、という話」
 そう。
「まだ生まれていない生命の、母になるの。わたしの中に存在していた、
その記憶もないあなたたちは、わたしの子供には、なれないわ」
 かぁ――と、頬が熱くなる。
 なんだか、妙に恥ずかしい。
「君では話にならないっ! 異教徒め――」
 健二が、指で眼鏡を持ち上げながら言う。
「それで。貴方は、貴方の信じるものを認めない、異教徒を滅ぼすのね」
「なに――?」
「違うの?」
 にこり、と。――私は、彼に微笑む。
「わ、私は…奴等とは違うぞ。正しい、世界の在り方を――」
「わたしの信じる、聖母マリアは強いわよ?」
 ぐいっ――と。
 腕を引かれて、マリアが――わたしの妹が、よろめく。
「わ、私には、涙石の力がある。必ず、世界を正しく変えてみせる」
「それは、わたしたちの世界じゃない。あなたの世界よ、健二さん」
「我々の、世界だ――」
 ぎり、と。歯を噛んで、健二は呟く。
「那波は――娘は、お前たちに預けておく。私は、父親にはなれない。
だが、我々の世界を、地上に取り戻す。その願いは、変わらぬ」
「でも君、山ノ民じゃないよ」
 透矢が、ぽそりと呟いた。
「…なにを言う。私は、あの人の、母の子供だ。彼女が、自分の身体を
痛めて生んだ、ただ一人の…。そう。――私は、あの人の、子供だ」
 憑き物が、今、一つ落ちた。
「瞳の色が違うから。山ノ民は、赤い瞳なんだ。那波さんのようにね。
確かに、血は混じっているかもしれないけど。でも、君は違う」
「わ、私は――」
「塩になって消えてしまう前に、現実を見ないとね」
 微笑んだ透矢が、健二を見つめる。
 ――あんたにだけは、言われたくない言葉だけどね。
「私は、間違っていない。この世界は、変えなければ、ならない」
「すべては、グレートスピリッツの意思だよ、牧野さん」
 よく晴れた――空を見上げて、透矢。
「グレート…の、いし?」
 健二は、透矢の妄想についていけていない。
「世界を正すにはね。五本の真のムラマサを、集めないといけないんだ」
 うわ、最悪の妄想だ――!?
「村正――刀か、真の村正か。まがいものではない、本物の…」
 なにやら考え込みながら。歩き出す健二。
「あ、ちょ――」
 わたしが呼ぶのも気にせず、牧野健二は、そのまま歩き去ってしまう。
 透矢のかけた、変な魔法――。まあいいか。
「また、妙なウソ吹き込んだわね、あなた」
「嘘じゃないよ。誰も知らない、歴史の真実を――」
「そんな歴史、ないし…」
「それより、アリス。僕の子供を、産んでくれるって?」
 う――。
「まあ、可能性の話。確率的には、ほぼ有り得ないけどね」
「――いいんだよ、アリス」
 にこり。優しい微笑みを浮かべた、透矢が言う。
「母親なんかになったら、胸とかお尻とか、大きくなっちゃうからね。
僕はね、今のままの、ぺったんこなアリスがイイと思うんだ」
「こ、このロリコンがっ! 死ねッ!!」
 げしげし、と。
 あたしに蹴りを入れられて歓ぶ、マゾの透矢の横で――。
「お母さんになったら、大きくなるのかぁ…」
 マリアが胸に手を当てながら、呟く。
「変なこと考えるんじゃないわよ、マリアもっ!!」
「そうだよ。マリアちゃんも小さいままで――ぐあっ!?」
「バカ透矢! 変態っ! やらしい目でマリアを見るなっ!!」
「えと…透矢さんになら、見られてもいいかも…」
「バカマリアッ!?」
 ぎゃーぎゃーと。やかましい、わたしたちの世界。
 ――今は、これでいい。
 母親とか、そういうのは、わたしたちには、まだ早いと思うから。
「そういえば…那波さんは?」
 ふと、透矢が思い出したように言う。
「それでよく、自分が守るだのなんだの言えるわね…」
第5話