【午前 9時30分 尾永香依(おのながかより)】 授業中。今は、一限目の数学の授業だ。ほとんど内容なんて聞いてないけど。あたしは歴史の資料集を開いて、調べモノの最中だ。それというのも、さっきのあの女のせい。 (バッカじゃないの) エサをカラスにでも奪られた子犬みたいな瞳で睨んできちゃって。情けない。負け犬。あれで魔女だなんて笑わせる。どうせ『偽者』なんだろうけど。逃がしたくなかったら、ちゃんと首輪つけとけっていうの。事故が起きてからじゃ遅いんだって。 遅いのよ、なくしてしまってからでは……。 「フン」 教科書と机で隠すように膝の上に広げた資料集から顔を上げて、前を見る。 黒板に大量の数式が書き込まれている。それを書いているのが、数学教師にしとくには惜しいくらい、引き締まった身体の背の高い中年の男。たしか、カッタとか言う名前の、嫌な奴。嫌いな奴の一人。いつも面白くなさそうな仏頂ヅラ。そうそう、さっきの教室で魔女と一緒になってこっち睨んでた矢作って奴を養子にしたとかいう話もあったっけ。 (ま、似たモノ同士でいいんじゃないの) 矢作草揺(やはぎそうよう)――か。 魔女の遠藤真江(えんどうさなえ)より、標的の今根理人(いまねまさと)より、実はちょっと気になる。なんでだろう? (顔がキレイだからか。……天使に似ているからかも) 話に聞く天使は、人にも動物にも植物にも、総てに心を通わせていたという。 だから何だ。あたしの願いを聞いてくれって。そんなの―― 「尾永、どうかしたか?」 数学教師が、じろりとこちらを見た。名前の通り、カッターの刃のように鋭い視線が、あたしを襲う。そんなモンで怯むものか。でも、 「あ、えっとすいません。黒板が、ちょっと見にくくって……」 「どの辺りだ?」 「えーと、」 ――どこ? 「あ、そこの、真ん中の下の方、……菅生(すごう)さんの頭で、隠れちゃってて……」 「え、あ、あたしっ!?」 右斜め前のショートカットの小柄な女の子が、慌てて頭を机の上に下げる。 それを見て、教室は笑いの渦に包まれる。 ただ、あたしと、菅生と、あのクソマジメな数学教師を除いて――。 「授業中だ。静かにしなさい」 低く、渋い役者のような声で、彼は生徒たちを非難した。 しん、と静まりかえる教室。菅生も、びくっと顔を上げる。 (なに、ガキ相手に凄んでんだか……) 数学教師カッタの背中から立ち上る静かな怒りのオーラが、あたしには見える。 ――アニメ的演出で。ごぉぉぉぉって感じ? まあ実際は、みんな知ってるだけなんだけど。カッタの怖さを。 病院送りには、なりたくないわよね。 噂じゃ、何人もの不良学生が――ま、ぜんぶ濡れ衣なんだけどね。 恨むなら例の『あしなが』にしてね。 「では次の問題は――尾永」 おっと御指名だ。 「はい。文系志望なので、よくわかりませんっ!」 さすがに今度は、誰も笑わなかった。さっき笑いそびれた菅生だけが笑いを噛み殺してぶるぶると震えている。知―らないっ。あたしはさっさと着席する。 「――では菅生」 苦虫を噛み潰すお手本のような顔で、狩田利輝(かったとしてる)(思い出した)は彼女を指名した。 口許を押さえて震えている彼女は、立ち上がることもできない。 (しょうがないなあ) あたしは手を挙げて立ち上がる。あまりバカにしていると、チクられそうだ。雇い主に知られて叱責されては、あたしの将来設計に水を差す結果にもなりかねない。 「あ、考えたら解りました。答えていいですか」 「いいだろう。答えてみなさい」 あたしは、完璧な回答を提示してやった。だから、あたしは頭もいいんだってば。 「今後は、何事もよくよく考えてから、発言するように」 非の打ち所のない正答を前に、狩田は、あたしを見下すような不遜な態度でそう言った。 ――やっぱ、超ムカツク。 |
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