【午前 8時30分  遠藤真江(えんどうさなえ)】

「おはようっ」
 淡い金髪と菫色の瞳の少年が、教室の後ろの扉を開けて入ってくる。少し、息が荒い。走ってきたのだろうか。彼は、すぐ近くの席にカバンを置いて座った。
「おはよう」
「おはよう」
 振り返って、挨拶。私の席は、彼の左斜め前だ。ほぼ同時に、私の後ろの席の女の子が、横を向いて彼に挨拶。私が入ってきた時にも、彼女は同じように挨拶してくれていた。
「遅いじゃない。寝坊?」
 既に予鈴も鳴っていたので、私は彼に尋ねた。いつもは、もう少しだけ早い。
「ちょっと、ウチでいろいろあって……」
 呼吸を整えつつ、彼――今根理人(いまねまさと)が答える。
「いろいろって、なに?」
 後ろの席の、矢作草揺(やはぎそうよう)が訊く。私たち三人は、席も近いし、かなりの仲良しだ。
 とはいえ、それも最近の、ここ数日のこと。
 今根君が転校してきたのが一週間前で、それまでは私と矢作さんは特に親しいわけでもなかった。むしろ彼女は孤立していたし、私も彼女と友達になるのは諦めていた。けれど、今根君は、一生懸命に彼女とクラスメートの仲を取り持とうとして、頑張ったと思う。
 まず、彼女が心を開いた。自身の記憶がほとんどないこと、ずっとベッドで眠っていたらしいこと、言葉がよく解っていなかったこと、などを打ち明けた。同時に、数学教師の狩田(かった)が彼女を養子にするという話が噂として広まったのも、良い方向に働いたと思う。
 さらに、彼女については以前から気になっていたことが、私にはあった。
 記憶にある女の子と、彼女が似ていると思っていたのだ。
 薄氷色の長く透き通るような髪。若葉色の優しい色をたたえた瞳。澄んだ声――。
 私は、同じクラスになった彼女にそれを尋ねた。でも、答えはなかった。無視された。つまり、「そんなことは知らない」という意味なのだと思い、深く追求はしなかった。
 憶えていなかったのだ。彼女は、記憶を失くしていたから……。
 私は、彼女に関する知りうる限りの情報を、彼女に与えた。
 例えば、彼女が『天使』と呼ばれる存在で、多くの人間に慕われていたことを。
 彼女が『天使』ならば、私は『魔女』だ。
 右の瞳が水色で、左の瞳が黒い。そういう女を、この国では魔女と呼ぶ。
 そんな外見だけの話じゃなくて――
「あ、えっと、ごめん……」
 突然、彼が頭を下げて謝った。(……なに?)
 もしかして、私はまた、怖い顔で彼を睨んででもいたのだろうか。
 ――違うの。これは、考え事してるときの癖だから――
「どうして謝るの?」
 草揺が訊いた。私の記憶に遺っているよりも、少しトゲトゲしい言い方で。あの頃とは、違う言葉だからそう感じるのか、それとも、これが彼女の地なのかは判らないけど。
「なにか、悪いことをしたの?」
 さらに問い詰める。さっきよりは、少し穏やかに。微笑みながら。
(こういうところが、天使と呼ばれた由縁なのかもね)
 なんて思う。微笑んだ時の彼女は、どうしようもないくらい《かわいい》のだ。黙っていれば綺麗。笑えばかわいい。それってなんか反則くさいよね。
 ――自分の容姿と比較してみる。
 優雅とは言い難い、肩口の辺りで跳ね返った濃い茶色の髪。
 左右色違いの、魔女の瞳。
 整ってはいるものの、黙っていると「怖い」と言われる顔立ち。
 声は普通かな。「ナマイキ」と言う人も、「カワイイ」と言う人もいるけど。
 身長は、並。体重は――聞かないでお願い。重くはないから。本当だから――
 矢作さんは、たぶん軽すぎて比較にならないだけだから。
(その分、胸とかは楽勝なんだからね)
 そう、それが私の武器。今根佳優(いまねかゆう)に負けるのが、ちょっと不安だけれど、私には若さがある。ハタチ過ぎのおばさんには、負けていられない。
 正直に言おう。――私は、今根理人君が、好きだ。
 まだ、告白はできないけれど。
 いつかみたいに、振られるのは、怖いけれど。
 私にできなかった、矢作さんを助けることが、彼にはできた。この人なら、私も助けてくれるんじゃないか。『魔女』である、この呪われた、女の子のことも。きっと……
「メイドさんがね、朝、起こしてくれるんだけど……」
 ぽつりと、理人は草揺の問いに答えた。彼は、親戚の今根佳優の家に住んでいるのだ。旧伯爵家の大邸宅。宮殿とも呼ばれる白大理石造りの豪邸で、庭には大きな池があるとかなんとか。大きな鯉が優雅に泳ぎ回っているとかなんとか。何百人もの使用人がいるとかなんとか。噂は絶えないが、要するに、国内有数の大金持ちの家である。
「羨ましい話だな」
 いつの間に現れたのか、私のナナメ前の席の男子が、横に立っていた。
「いよう、マサト!」
「やあ、広純」
 一応、こいつも友達、というか同じクラブの構成員で、倉田広純(くらたひろすみ)という。目立たない奴だけど、人間は悪くない。ただし、部活に出てこないのが、最大の問題点。もともと私が定員割れ回避のために強引に連れ込んだのだから、仕方ないところでは、あるのだが。
 ややタレ目気味で、瞳と髪は淡い茶色。男にしては声が高く、性格は明るい。
「メイドさんってのはなんだ、やっぱりカワイイのが揃ってんのか?」
「……まあ、たしかに」
「明日休みだろ? 今日ガッコ終わったら、泊まりに行ってやろうか?」
「下心が見え見えなんだけど……」
 と私は彼につっこんでおく。今根君なら「いいよ」と言い出しそうだから。
 一応、牽制しておく。
「みんなで行けばいいじゃん。お前もさ」
 にやりと、倉田が笑った。なんだか心を見透かされたようで、イヤな感じ。
「わ、私が、どうして、今根君の家に、泊まらないと、いけないのよっ」
 一瞬想像して、心が動く。急に、心音が高くなったような気がする。
「部屋、余ってるんだろ。同じ部屋で寝泊まりしようとは言わないからさ」
 倉田は、理人に向かって問い詰めるように身を寄せていく。
 ――しかし、
 間違いなく、こいつは私に向けて言っている。「そうしたいんだろ」って。
 ……魔女に魔法を掛けようなどと、いい度胸だ。憶えてなさいよね。
「私も、行っていい?」
 不意に草揺が、なにやら難しい顔をして、そう訊いた。
次へ