【午前 7時30分 矢作草揺(やはぎそうよう)】 しん、と静まりかえる校舎の誰もいない廊下で扉を開ける。がらり。二階の西の外れの教室の、後ろ側の扉。開くとすぐそこに、二つの机がある。一つ目がマサトで、二つ目が自分の席。縦と横に等間隔に六列づつ並べてある机の、最後尾の二つ。ぽつんと置かれた私の机は、彼が転校してきたことで、ようやく意味のあるものになったと思う。 隣に誰もいないよりは、いてくれた方がいいから。 マサトが転校してくるまで、私の机は窓側の列の後ろに置いてあった。 そこで私は、窓の外を見ていた。独りで。授業の間も、ずっと。 この世界では、勉強なんかしても、意味はないと思っていたから。 初めは注意もされたけど、無視していた。口のきけない振りまでして。 級長のヨウコが私を睨み、サナエが私に声を掛けても、私は無視した。 そのうちに、誰も私に声を掛けなくなったけど、別に私はどうでもよかった。 教師たちは怒ったけど、担任のスズモリは庇ってくれた。 ――本当のことをいうと、私はこの国の言葉が、よく解らなかったし、 ――昔のこともあまり憶えていなかった。私が、どうして眠っていたのかも。 どうしてこの学校に、私がいるのか。それも、解らなかった。 よく解らないまま、彼等に言われるままに、私は、此処に存在していた。 ずっと、二ヶ月もの間、そうしてきた。私がナニモノかも、解らないままに。 だけど、 その間に、スズモリやカッタ――私を見つけてお義父さんになってくれた人に、様々なことを教えてもらった。だから今は、今のこの国のことが、よく解る。転校生のマサトは、私と友達になろうと一生懸命に話し掛けてきた。今なら彼等が私に何を求めているのかも解る。ヨウコもサナエも、みんな友達になりたかっただけなのだ。それも解らないで無視していた私は、馬鹿だと思う。解ろうとしなかっただけなのだから。言葉の違いや人種の違いなんて、些細なこと。この国は、ずっとそうやって発展してきたのだ。歴史の教師も一生懸命それを教えてくれていたのに。この国の、歴史を。「I can’t speak.(はなせないの)」と一言、口に出すだけでよかったのに。ただ一人、異端であることが、私は怖かった。 友達になって、今はもう完璧なこの国の言葉で、サナエたちと話した。サナエと私は、同じ街で生まれたらしいとわかった。私のかすかな記憶を、頼りにするならば。サナエも私に関する記憶を持っていたらしい。直接の面識は、なかったけれど。過去を知っているサナエは、昔の私の姿を教えてくれた。左右の瞳の色の異なる『魔女』のサナエは、この世界のことをなんでも識(し)っているのだという。彼女が自分でそう言っていた。 (クラスの人たちは、ほとんど信じていないみたいだけれど……) 今の私とは、似ても似つかない、天使のような私――。 花や鳥や動物たちや、そして人間たちが大好きだった私――。 その私に、少しでも近づきたいと思う。 自分の席で椅子に腰を掛けながら、これまでのことを思った。 サナエに誘われて、マサトと一緒に『歴史研究部』というクラブに最近入った。小さなクラブでヘンな人ばかりだけど、楽しい。昔の兵器を欲しがっていて、短刀や拳銃を隠し持っていた部長の人が捕まっちゃったりして大変だったけど、ちゃんとした顧問を付けて、マサトが新しく部長になって、ひとまず安心。サナエが裏で警察となにか取り引きをしたとかいうウワサもあるけど、本当なのだろうか。 なんていうか、早く着きすぎた。まだ、誰も教室に入ってこない……。 だけど、この時間がイヤだとは思わない。 早く起きて、お義父さんに誉められたし、小鳥たちとも仲良くなれた(気がする)し、ここまで歩いてくる間に(お義父さんは車で送ってくれると言ったけれど)、様々なものを見てきた。橋の上から見下ろした小川には、魚が泳いでいて、見上げれば、高く青い空に大きな鳥が優雅に舞い、だんだん街に入ってくると、カラスがゴミを漁っていて、ネコがうろうろしていて、イヌが散歩をしている。学校のある辺りは随分と都会だけれど、人の数はまだまばらで、昼間の喧騒がウソのように静かだった。 歩いて通うにはちょっと遠かったけど、しばらく続けてみようと思う。 (思ったより、体力あるみたい、私) 華奢な身体は、自分で思っていたよりも丈夫にできているようだ。これでも、昔よりは体力も落ちているのだろうか。なにしろ、長いこと眠っていたみたいだから……。 昔、大きな事故に逢って、私はずっと眠り続けていたのだという。 これも、サナエが教えてくれたことだけれど――。 目が覚めて、ふらふらと歩いていたところを、お義父さんたちに見つけられたらしい。身寄りのなかった私は彼等の庇護を受けながら、この学校に通った。 (体育の授業も、ずっとサボってたからなあ……) サナエやヨウコみたいに、運動も得意だったらいいなと思う。 生まれ変わった私を、みんなに見てもらおうっ! 今日からは、違う私。 自分からみんなに声を掛けて、笑顔で「おはよう」と言ってみたい。 もう一度、『天使』になるために。翼のない、地上に降りた天使になろう。 (セルーシアなんかに、負けないっ!) 本当の天使、セルーシアと呼ばれたあのヒトは、もうこの世界にはいないから。 還ってしまった彼女の替わりに、私が、この国の人々の心を救うのだ。 そのために、私は今のこの時代(とき)に、目覚めたのだと信じたい――。 (なんていうと、マサトの好きな歴史物語の主人公に、なれるみたい……かな?) 誰もいない静かな教室は、儀式の前の『church(きょうかい)』に似ている。 やがて人が集まり、祭司(せんせい)が現れて、此処も一つの世界となるだろう……。 席を立って、窓際に向かう。陽が高くなってきて、少しだけ暑くなってきた。 上着を、脱いだ方がいいだろうかと思ったけど、まだ大丈夫。 せっかく、お義父さんにもらったものだから、なるべく着ていたい。 窓を開ける。がらがらがら。 「さこーい! ばっちこーい!」 とかいう、どこの言葉とも知れない意味不明の大声が聞こえてくる。 野球部がグラウンドで練習している。目を凝らすと、クラスメートの姿が見えた。 ボールを捕って、投げる。かなり上手いらしい。 視線を転じて、右の奥にある校門を見ると、ちらほらと生徒たちが登校してくる様子がわかった。友達と話しながら、楽しそうに歩く人たちや、スクーター通学の人。時間的に余裕があるため、のんびりしている。 「あ、サナエ発見…」 自分の前の席で、一番の友達でもある遠藤真江(えんどうさなえ)が、少しだけ眠そうにふらふらと歩いている。暑いのか、上着は着てなくて、ブラウスの胸の辺りを片手で引っ張ったりしている。 思わず自分の胸を見て――、 (マサトは、どっちが好きなんだろう) なんてことを、考えた。一般的には、大きいほうがいいみたいに言われてるけど、でも、 (サナエなんかに、負けないっ!) |
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