【午前 7時00分  今根理人(いまねまさと)】

 眠っていた僕は、足もとに気配を感じた。それが目覚まし代わりになる。
 カッと目を見開き、バッと飛び起きる。
 勢いよく跳ね飛ばされた掛け布団が、ベッドの足もとにいた彼女に襲いかかった。
「おおっと、危ないトラップかっ!?」
 陽気な声で叫びつつ、彼女は素早く飛び退って、そして――
「おはようございます」
 いつもの笑顔。
 まるでたった今ここに来たばかりというような態度で、紺色のメイド服を着込んだ彼女は、ぺこりと頭を下げる。避けながらも、器用に布団を掴みとっている。やるな!
「おはよう、葵さん」
「よく、眠られましたか?」
 やはり笑顔の彼女が、愉しそうに尋ねてくる。現在この屋敷に居候中の僕の面倒を見てくれるメイドさんで、よく気が付くし、なにより性格が明るい。いつでも笑顔で、怒っているところは見たことがない。見ているだけで、愉しくなってくるような人だ。
「おかげさまで、毎朝を清々しく迎えられていますよ」
 暖かな初夏の陽射しをいっぱいに吸い込んだ純白のシーツはとても気持ちが良く、またこの部屋の質の良い布団や大きなベッドも、僕に安眠を与えてくれるものだ。その点では、彼女に感謝しても、感謝しきれない。こんなによくしてくれるとは、思わなかった。
 同じ『今根』姓を名乗っていても、伯爵家の直系にあたるこの家と違い、遠い昔に分かれてさらに外国に移った分家の僕のような人間を、この家の人――特に佳優(かゆう)さんは暖かく迎えてくれた。家族とうまくいっていなかった僕には、彼女が本当のお姉さんのようにも思えるほどだ。そして、この皆本葵(みなもとあおい)さん。彼女は、この家のメイドの中でも地位の高い人らしい。佳優さんとは幼馴染でもあり、最も信用されているという話。そんな人を僕の世話係に付けてくれるなんて。それに、この広い部屋。宮殿のようなこの屋敷の、別館にあたる建物一つを、丸ごと僕にくれるとまで彼女は言った。ずっとここに住んでもいいのよ――とまで。嬉しいけれど、さすがにそこまでしてもらうわけには、いかないだろう。とりあえず、今は別館のこの部屋一つを自由に使わせてもらっている。
 それにしても、高級ホテルのような部屋である。――いや、それ以上か。
 大きな壁掛けのテレビ(高そう)に大きな天蓋付きのベッド(言わずもがな)、その周囲のだだっ広い空間には、深緑のふかふか絨毯(西の国の不思議な紋様入り)、大理石っぽい真っ白な壁際の、木目も美しいクローゼットや箪笥、重厚な両開きの扉――等々。
「あ、そうそう」
 ぼけーっと周囲を見渡していた僕に、葵さんが言う。
「音響関係とか、要ります? 音楽は、お聴きになられますか?」
「いや、別にいいよ」
 なんかまた凄いのが出てきそうなので、慌てて首を横に振る。
「……そうですか。私のオススメディスクを、お貸ししようかと思ったのですが」
 あくまで笑顔で、葵さんは言う。けれど、
 今の笑顔は、少し寂しそうな笑顔。この人の笑顔には、表情がある。
 それが、この数日の暮らしで解ってきた。
「それじゃ今度、設備のあるところで聴かせてもらおうかな」
「はい。それでは、今夜にでも、私の部屋でっ」
 笑顔。さっきとは少しだけ違う、嬉しそうな笑顔で、彼女は応えた。
「そうだね。お邪魔させてもらおうかな、うん」
「ええ、それでは――」
 あっ、と何かを思い出したように、彼女の表情が変わる。
 少し戸惑いの混じった笑顔で、
「も、もしかして、お泊りに……なられます?」
「……へ?」
 一瞬、何を言われたのかよく解らなかったけど。彼女の表情が、それを教えてくれた。
 恥じらうような、何かを期待しているような、そんな――笑顔。
「な、な、なにを言ってんですか、葵さんっ!?」
「ああ……いえ、その、お世話をするというからには、夜の――とか」
 胸の前でもじもじと手を擦り合わせて、やや上目遣い。
 僕の心臓は、ばっくんばっくん。
 葵さんは、すごくカワイイのだ。銀の髪、金の瞳、大きくぱっちりしたその瞳は美人というよりも、むしろカワイイと表現すべきものだと思う。年齢に比べて、やや幼さの残る顔立ちの、こんなにカワイイ彼女に、そんなふうに誘われたりしたら、もうっ――
「――なんて、冗談ですよ。本気にしました?」
「はい?」
 葵さんは、くすくすと笑っている。もしかして、騙されたの?
「いえ、朝から、お元気なようなので、安心しました」
 にこり。悪意のない笑み。その視線を追えば、僕の――
「はうっ!?」
 慌てて布団を――あれ?
「お探しのものは、これですか?」
 彼女の手に、僕の覇ね飛ばした掛け布団。
「そうそれっ、返してっ!」
 にっこりと、彼女は笑う。そう、まるで美しき天使のような笑みで――
「いけません。そろそろ起きていただかないと、私がお嬢様に叱られてしまいます。さあ、起きて、起きてっ!」
 そのまま、ベッドに上がり込もうとする葵さん。
 もしかして、さっき感じた気配というのも、もしかして……
「あ、葵さんっ、さっきもこんなこと、」
「ええ。眠っている隙に、チェックしておこうかと」
「なにをだぁっ!」
 股間を手で押さえつつ、僕はずるずると布団の上を後ずさってゆく。
 葵さんは、笑顔。にんまりと、悪魔のような笑顔で、にじり寄ってくる。
「あ、あぶな――」
 目を見開いた彼女の前で、僕の身体は、地獄に向かって一直線に落ちて……
「理人さんっ!」
 細く優しい腕に頭を抱き抱えられるようにして、僕‘たち’は、落ちた。
 時が止まったかのような瞬間。
 浮揚感と、すぐにくる着地の予感――
「……くうっ」
 幸い、ふかふかの絨毯がクッションになって、痛みはなかった。
 それはいいのだけど。
「うわ、やっぱこれ効くね」
 頭の上で、声がする。僕は、言葉もなく息を呑む。
 目の前に、メイド服に覆われた、豊かな二つの膨らみがあったから。
 葵さんが、僕の上に、馬乗りになっていた。朝から――。
「あはは、目、覚めました?」
「さ、覚めた。とっくに覚めてるから、はやくっ!」
 もし誰かに、こんなところを見られたら、……どうすればいいんだろう。
 混乱している。今も、視(み)られているような気がしてきた。
 彼女がどこかで、この光景を見ているのじゃないか。
 ――魔女が。
 あの恐ろしい魔女様が、僕の醜態を視て、怒ってはいないだろうか。
「……明日も、こうやってお起こししましょうか?」
 葵さんは、笑顔のままで。僕を優しく見下ろしている。
「いいっ! 普通でいいから、はやくどいてっ」
 教室に着いたら、真っ先に彼女に謝ろう。もうそれしかない。
 そうしなければ、僕のここでの学校生活は、――終わる。
「あ、ええ、そうですね」
 彼女は立ち上がり、微笑んで、僕が立ち上がるのを待っていた。
「それでは、私はお食事の用意がありますので、」
 ぺこり、と頭を下げて、部屋を出ていく。
 少しだけ、寂しそうな笑顔。
「葵さん、今夜、楽しみにしてるからっ!」
 ゆっくりと、振り返る彼女。その表情が、
「もうっ、えっちなんですからぁ、理人さんは」
 くすくすくすと、とっても愉しそうに微笑っていた。
「いや、そうじゃなくて――」
「お着替えも、手伝いましょうか?」
 すでに用意されていた着替えのシャツや制服に視線を送りながら、彼女。
 僕は、丁重にお断りした。うふふっ、と笑いながら、彼女は去っていく。
 ……ダメだろう、これじゃ。
 元気に天を突くソレでナニなアレを見て、僕は、ため息を一つ吐いた。
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