【午前 6時00分  皆本葵(みなもとあおい)】

 ベッドから転がるようにして、落ちる。
 そうすると、なんとなく目が覚めるので、いつもやっている。
 ベッドの上からカーペットの床までの、わずかな距離。
 浮揚感と、墜落感がイイ。自殺するなら、飛び降りだよね――
 そんな話をウチのお嬢様にしたら、
 ――たのしそう。いっしょにやろうね。
 なんて言いやがりましたので、しばらく実行には移せそうもありません。
 なんつて。自殺なんて、バカのすることですよー。
「さーて、起きますかぁー」
 一緒に転がり落ちた掛け布団をベッドに戻しながら、立ち上がる。
 目覚まし代わりのクラシカルな交響曲が、耳に心地よい調べを伝えてくる。
 ……たぶん。
 実を言うと、ビジュアル系な男性ヴォーカル曲の方が、好きなんですけど。
 もと貴族のお屋敷らしく、朝は優雅に迎えなければならないのです。
 まあ、朝っぱらからベッドから転げ落ちて受身を取るのが、優雅かはともかく。
 優雅な管弦楽の調べを聴きながら、口もとに手をあてて大きなあくびを一つ。
 両手を組んで、そのまま頭の上まで引っ張り上げる。
「んー、今日もイイ感じ」
 大金持ちの家の寝具は、たとえメイドのものだろうと、そんじょそこらの安物とはワケが違うのです。下手をすれば、そのまま永眠しかねない、寝心地の良さなのです。
 ……たぶん。
 生まれた時からずうっとこのお屋敷(むしろ宮殿?)に住んでいる身としては、庶民の暮らしがいかなるものか、なかなか想像もつきません。幸せいっぱいです。それというのも、私の先祖様がこの今根(いまね)家に大変な貢献をしたとかで、使用人という立場ではあっても、優雅な暮らしを約束されているのです。もっとも、さらに前のご先祖様は、この国の皇族様だったという言い伝えもあるので、実は落ちぶれてしまったのかもしれません。
 でもいいのです。皆本家は、今根旧伯爵家の庇護のもと、平和に続いて来られたのです。
 滅んでしまった多くの皇族の家系に比べれば、ずっとマシです。
 おっと、時間が――
 あまりぼけーっと考えごとをしていてもなんなので、洗面所で顔を洗います。
 洗面台の大きな鏡に、自分の顔を映して、細かくチェック。
「顔、よろし!」
 自分で言うのもナンですが、美人です。大きくぱっちりした黄金色(きんいろ)の瞳と、肩口までのややウェーヴした白金色(ぎんいろ)の髪は、特に自慢の逸品です。今が帝国の時代なら、間違いなく、皇帝に奉戴されていたでしょう。皇族だし。まあ、結局のところ傀儡(アイドル)かもしれませんが。この国の皇帝は、代々美男美女(一部例外アリ)だと言われていますから。
 今根(いまね)家は、そんな帝国の権力者の一つだったのです。
 七十年前の民主革命で土地を奪われたりして、かなりオジャンになりましたが。でも、まだまだ強いです。大金持ちです。今根家万歳! 佳優(かゆう)お嬢様万歳! でも私の方が美人です。誰がなんと言おうと。胸なんて飾りだというのが、愚かな民衆には解らないのです。
 視線を少しだけ下げて、改めて確認する。
「胸、なし!」
 くそう。この私の、唯一の欠点が、平均よりも、ちょっとだけ、本当にわずかなだけ、胸が小さいことなのです。でも負けません。女は顔が命です。結局のところ傀儡(にんぎょう)と同じです。いつか、この笑顔で世の男性諸君を虜にする日を夢見て――
 私、今根家筆頭メイド皆本葵は、今日も一日、笑顔で頑張りますっ!
「さて、と。顔も洗ったし。次は、お着替えお着替えっ」
 一人で使うには充分すぎるほど広い部屋の真ん中で、シルクのネグリジェを脱ぎ捨てる。本来のカップよりも、遥かに大きなブラを着ける。屈辱の香り高い、パッドを何枚も詰めたソレは、私を縛る戒めのクサリ。佳優お嬢様への、絶対服従のアカシでもあります。
 見栄ともいう――ような気もしないではないですが。
「しかし、これで私はもはや完璧美人。秘密を知るお嬢様以外に、私を倒せるものは存在しえなくなりました。今日こそ、理人(まさと)さんを悩殺して、うふふ…」
 その後は、秘密です。その前も、秘密です。まあ、実験台みたいなものですから。
 いえね、こんな宮殿(という名の牢獄です)に日がな一日閉じこもってると、出遭いがないんですよ。世の人々は、ここにこんな美人がいることなど、思いもしないでしょう。まったくもって宝の持ち腐れ。大いなる損失。恋愛の仕方、教えてくださいよ誰か――。
「ちょうど今根の親戚で、若い理人さんが屋敷にいる今がチャンスなのですっ!」
 男女の関係とか、ビデオで見たアレとかを、試すチャンスかなー、と。
 今根理人(いまねまさと)は、この今根家の遠戚にあたる人で、数日前から、親元を離れてこの街の高校に通っています。二年生ということは、十七歳くらいですか? 五つくらい年下ですが、問題ありません。実験台ですから。身体はもうオトナですしね。それに、私ほどではありませんが、容姿も悪くありません。淡い金色の短めの髪と菫色の瞳の、お人好しさんです。ちょっとモーションかければ、もうアレでソレな展開なのは、間違いありません。
 にへー。
 思わず、顔がニヤけてしまいます。初めてなので、優しくして頂かないといけません。でも次からは、私が可愛がってあげます。もう彼は、この美貌とカラ……
 身体の方は、別にいいや。
「胸なんて、飾りだということを、全人類にワカラセテあげましょう、この私が。そして私は、すべての胸の貧しい女性たちの希望の光となり、世界を包んでみせましょう」
 自信はあります。なにしろ――、
 この国で最も信仰されている天使のセルーシア様だって、胸はナイのです。
 教会本部や一部の神社にある神像や絵姿を見れば、それがよくわかります。
 帝国中期に生まれたその宗教は、発祥地の名をとって『聖エテルテア教』と呼ばれています。白き翼を持つ『天使』を神と称え敬うのです。その影響を受けた皇族が皇帝に即位して以後、国教となりました。やや廃れましたが、今でもこの国の最大派閥です。各地に神社と呼ばれる末社が存在し、この近辺にも幾つか存在しています。
「天使様の加護の下、我等(胸の)貧しき民は救われるでしょう」
 天使のいるという天空(そら)を窓越しに見上げ、小さく祈りを捧げる。死した生命の導かれるという未知の世界である蒼い天空の彼方(そらのうえ)。地上に多くの知恵と力をもたらし、その多くを再び手にして還ってしまったという偉大なる天使セルーシアの、美しい姿に思いを馳せる。薄氷色の真っ直ぐな長い髪に、若葉色の優しい瞳、背中に鳥のような白い大きな翼を持つ美しき天使様。それはそれは美しい姿であったという。
 妄想しながらも、手は休めません。紺色のメイド服を着込み、メイド用のカチューシャを着けて完成です。今日も、お仕事の始まり。私の仕事は、佳優様と理人様の身の回りのお世話。例えば、食事の用意、着替えの用意、部屋の掃除に、起床の手伝い――などなど。
「まずは、理人さんを起こしに行きましょう」
 いつも通りの時間に部屋をでて、いつも通りに、彼のいる別館に向かう――。
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