【午後 2時30分  西苑寺公高(さいおんじきみたか)】

「既知であるかと」
 言葉少なに、彼女は答える。
「天使とは、違うのでね」
 決して全知全能ではないと、私は彼女に言い返した。
「知っているかね? 天使や……魔女は、記憶を、世界に憑依させていたのだそうだよ」
 意味が解らないという顔を、彼女はした。無理もない。
「世界の一部に置き換える、というべきか。この世界そのものが、彼女たちにとっては、記憶の置き場所になる。君がいま見ているもの、例えばこの机、あるいは感じているもの、空気でさえ、天使や魔女の記憶の一部なのだ。……少し、解り易くしよう」
 眉根を寄せる彼女に、少しだけ私は笑んでみせる。
「世界を構成する根本のものが、『元素』というのは解るかい?」
「学校の、授業で」
 そう、習うものだ。誰でも知っている。
「記憶が、存在するということは?」
「記憶が……ある?」
「君も私も、机も空気も元素からできている。となれば、君という存在の中にあるはずの『記憶』もまた、元素からできているのじゃないかと、我々は考えたのだ」
「理屈としては、解るかも」
 私を睨むようにして、彼女は答えた。
「さて――」
 私は、手近なペンを手に持って、少し離れたところに置く。
「今から見て、過去のある時、このペンはそこにあったわけだが」
「うん」
「その姿を、思い出せるかね?」
「想像しろってこと? できるけど……」
「君の見ているのは、過去の記憶。今そこにあるものを、過去そうであった姿に置換して脳内で映像化している。それを、もっと古いものに換えることができたら?」
「古いもの?」
「そう。例えば、この学校が建てられる前、そのペンのあった場所は、なんであったのか。何が存在していたか? それが、世界の『記憶』だ。魔女は、それを可能にする。世界の全てを知るというのは、そういうことだと、私は思う」
「記憶を……でも、それは、私が、そのペンを実際に見ていたから」
「魔女というのは、憑依するんだ。実際には『人』ではない。『存在』そのものとでも呼ぶべきか。魔女は、『寄り代』である人間が死ぬと、別の人間に乗り移る。そうやって、その存在は現在まで続いてきた。つまり魔女は、代を重ねるごとに、記憶を積み重ねていく」
「それって、全知全能って言えるかなあ?」
 そう言って、彼女は首をひねる。
「今は、まだだ。しかしいずれ、その存在は『神』になる。この世界が続く限り。そして、その神をこの世界に迎えるために、我々は――この世界を守らねばならない」
「神は、天使ではないの?」
「天の使いは、神にてはあらず。彼女は、この地上に――この惑星に『神』を生むために現れた存在だ。地上に降りたソレは、自身のコピーを世界中にばら撒いた。それが、魔女――神の子供たち。いずれその中から、真なる『神』の誕生する日を願って。それまでは、自身を神と崇めさせておけばいい。それが、『教団』の成り立ちだった。宗教団体としての基盤を固めて、ソレは自らの世界へ還ってゆく。残ったのは、その容れ者たる『寄り代』と――ソレが我々の世界にもたらした、大きな力。多くは、歴史に埋もれ忘れられたがね。その遺され、忘れられたモノの一つが、錬金術師――天使の志を継ぐ者たちでもある」
「れんきんじゅつ?」
「俗称だよ。実際には、魔女の記憶のメカニズムを解明するための学問。この世界には、もうあまり時間がない。強大な天使の『力』を怖れたがゆえに、人々は天使を信奉しつつ、その力を排除する道を選んだ。『魔法』は世界から消えただろう? 確かに平和にはなった。しかし、我々はその代償に、世界の寿命を縮めてしまったんだ。『神』の生まれるより前に、この世界は滅ぶ。それを回避するために、我々は考えた。少しでも早く、神を誕生させる方法を。そしてようやくそれは……実を結ぶ時がきた。『神の器』を手に入れることで」
「かみの、うつわ……」
「ようやく、見つけることができた。それに耐えうる存在を、この時代に」
「それが、彼女だと?」
 両手を胸の前で組み、私は祈る。この世界が、救われますようにと――。
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