【午前 11時30分 皆本葵(みなもとあおい)】 ――さて。 私の前には今、箱が二つ置かれております。 「悩みどころですね」 といっても、どちらか一つを選べという話では、ありません。形も大きさも同じです。なんら変哲もない黒漆塗りの小さな箱。つまるところが、お弁当箱です。普段お嬢様たちは、これを持って学校に行くのです。中身は、今根家の誇るシェフが作ってくれます。 実はこのお城(と私が呼んでるだけですが)、広さの割に人は少ない。本来の主人である忠義(ただよし)様が御多忙な方で、滅多に帰って来られないというのもあるし、お嬢様も案外倹約家なのです。だから私などが、メイド長などを務められてもいるのでしょうが。 常駐となると、百人いるかどうかですね。どちらかといえば、女性が多いです。 それはそうと、 「どうしましょう?」 私の問いに、本日の担当シェフ田ノ中李沙(たのなかりさ)は、「さあー」と両手を横に広げた。 《お任せしますよ》、という意味だ。《私は知りません》、という意味かもしれない。 ――というか、きっと後の方が正解です。 本当に、ただの、気の迷いだったのです。 決して、悪気があったのではありません。 ただ――、 空があまりに高くて、青くて、大きな鳥が飛んでいて、それだけなんです。 「忘れ物をお届けするのは、メイドの役目でしょうか?」 田ノ中は、自分の仕事をしています。私も答えは求めていません。 「下の者に任せて、もしもがあったら、大変ですよねえ?」 返事はありません。それでいい。貴方に罪は、ないのですから。 すべて、この私めの、手抜かりであったのです。 叱責も、甘んじて受けましょう。 「……急がなくていいんですか、メイド長?」 田ノ中が手を休めて、やれやれという態度で、私を促す。 《とばっちりはゴメンだ》、という意味かもしれません。 「車を出しますから、お昼には間に合いますよ」 「……なあ、本当に持ってくのか、それ?」 彼女が、両手を腰に当てながら、私に訊く。 「持ってったのが空だとわかれば、いかにお嬢様でも、自分でなんとかするだろ」 「ええ。お嬢様はデキる方ですから。だから、これは私のワガママです」 私は答える。それを聞くと、彼女はわずかに眉をひそめて、 「お前が忙しいというのは解る。だが、休暇願いくらいは――」 ちっちっ、と私は指を横に振ります。ようやくこの技を使う機会が訪れました。 「これも仕事ですよ。私は、お嬢様の……いいえ、この家が、私の全てですから」 「まったく……いい家臣を持ったな、今根佳優(いまねかゆう)は」 ため息を吐きながら、田ノ中は言います。 まったくもってその通りだと、私も思います。 「いいよ。囚われのお姫様。ちゃんと外見て、そんで、ちゃんと戻ってこい!」 「はーい。それでは、行って参ります料理長殿!」 「臨時雇いだけどな。ま、怒られそうになったら、俺がミスったことにしときなよ」 「それは大丈夫。ただ、私の留守は――」 「まーかしとけって。竜岡(たつおか)の爺さんもいるんだろう、今日は」 竜岡さんは、タキシードの似合う初老の紳士で、この家の執事です。 「んじゃ、心配いらないよ。行っといで。シャバの空気を楽しんできな」 親指を立て、片目をつむってウインク。 田ノ中李沙は、本当に素敵な女性(ヒト)なんだなあ、と思います。 私も、負けてはいられません。いつまでも、温室育ちの花ではいけないのです。 学校にすら通わせてもらえなかった私が、外を知る、よい機会だから。 「はい♪」 ――と大きく返事をして、私は外へ飛び出します。手には、二つの包みを持って。 今のは、私がこの地上に生まれ落ちて、最高の笑顔だったと自信を持って言えます。 また一人、良い友達ができて、こんなに嬉しいことは、――ありません。 「――さて、」 私の前には、たくさんの車が並んでいます。城の裏手にある、大きなガレージ。ここは忠義様が趣味で集められた、古今東西の珍しい車などが、保管されている場所です。 普段使用する大衆車は、お嬢様が朝の通勤で使用しています。他にも、使用人が何台か使用中のようで、残っていなかったのです。しかし、今は我が家の一大事。お嬢様を餓死させるわけには参りません。私がやらねば、誰がやる! 「きっと、忠義さまも解ってくださいます」 なので、最も価値のなさそうな不恰好な四角いのを選んで、扉を開けて乗り込みました。 鍵は、いつでも使えるように外していないという話でしたので―― 「起動っ!」 声に出すと、音声認識が働いて、この車のコンピューターが立ち上がります。 パネルに明かりが灯り、 「システム起動。言語モード、マルザス。よろしいですか?」 滑らかな若い女性の声で、車が尋ねてきます。 「はい」 「了解しました、目て――」 「マルザス第三高校」 「了か――」 「発進っ!」 説明を全部聞くのももどかしいので、さっさと命令します。楽なものです。後は、寝ていたって目的地に着きます。このような都会では、それがジョウシキなのです。 ――初めてだって怖くありません。 (そういえば、今夜は理人さんが……) 実は初めてなので、どうしましょう。なんて考えたら、顔が火照ってきちゃいました。 「搭乗者の脈拍に異常を感知しました。いかが致しますか?」 車が、私の異常を感知して、警告を発しています。余計なお世話です。 「……心配ない。スピード上げて」 「法定速度限界で、走行中です。これ以上の加速は――」 「はいはい、りょーかいです」 欠点は、遅いこと。レーシングカーみたいに、速く走れば楽しそうなのに。 「音楽流せる?」 なんだかヒマなので、訊いてみました。 「申し訳ありません。――衛星とのリンクに、失敗しました――」 |
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