【午前 10時30分 西苑寺公高(さいおんじきみたか)】 日中というのは、暇なものだ。客人でも来ればよいのだが、そうでもなければ校長室に篭もりっきりの身分。学生や教員をしていた頃は、忙しくもしていられたものだが。 職員室に行ったところで、教員たちに気を遣わせるだけであろうし。 鍵を掛けて眠ってしまってもよいのだが、さすがにそれでは生徒たちに示しがつくまい。昨夜は、ずっと研究をしていた。学生をしていた頃から、ずっと続けている研究。いや、それ以前からずっと考えていたことか。解り易く言うならば、環境問題だ。太陽光発電の普及で過去に比べればずっとマシにはなったが、排水で川は汚れ、ゴミの問題も解決する兆しがない。所詮、これが、この星の人類の限界だったのだろうか。 (もう任せてはおけない。私が、なんとかしなければ――) 私は、それを根本的に解決する方法を、ずっと独りで考え続けてきた。 コンコン、 扉をノックする音が聞こえる。誰だろうか。一つ言えることは、起きていて良かったということだな。鏡を見る。くすんだ金髪をオールバックにした、まだ若く見える男の姿が写っている。写り具合も良いようだ。これなら、二十代でも通用するか――。 「入りたまえ!」 居住いを正し、やや大きめの声で応えると、 「失礼しま――む、重っ」 涼やかな、少し怒ったような女性の声とともに、扉がゆっくりと開かれていく。 「なんで自動ドアじゃないのよ……」 小声で厚い木製の扉に向かって毒吐いた後で、彼女はそのままこちらに向き直る。手に盆を持ち、その上に透明なガラスのコップと、茶色い液体の入った容器を載せていた。 「お茶をお持ちしました」 「ふむ。特に頼んだ憶えはないが――」 「お邪魔でしたら、このまま持ち帰りますので」 彼女は微笑んだ。教員の広沢美澄(ひろさわみすみ)は、学内でも一、二を争う美人教師と言われている。確かに、私の眼から見てもそれは頷ける。透き通る白い肌。背中まで伸びた長く真っ直ぐな黒髪。涼やかな目許。理性的な黒の瞳。濃緑色のスーツに覆われた肢体も、スレンダーでありながら、柔らかな曲線を描く。私は、冷静に彼女を観察した。 「すまないね。忙しいところを」 私は豪勢な革張りの椅子から立ち上がり、柔らかな赤い絨毯を革靴で踏みしめながら、彼女に近付く。微かに香水の匂いがする。良い香りだ。 「入りたまえ。頂こう。ああ、扉はそのままでいい。私が閉めよう」 そう言って、彼女を応接セットのソファへ導く。かちゃりと微かな音を立てて盆の上のコップが一組、テーブルの上に置かれる。私は、扉を閉めた。そっと、鍵を掛ける。 「退屈をしていたところでね、助かる。君は?」 「ちょうど、授業のない時間でして」 コップに液体を注ぎながら、彼女は答えた。 「グラスにブランデー、というわけには、さすがにいかないか」 少しおどけた調子で私が言うと、 「残念ですが。教師が昼日中から酔っ払っていては、示しがつかないでしょう?」 「ああ。これでも、規律には厳しくありたい性質でね」 「私もです」 にこりと、彼女は微笑んだ。「どうぞ」と、液体の入ったコップを差し出す。 「麦茶か。よく冷えている」 「お嫌いですか?」 「いいや」 私は、ごくりと一飲み、冷えた茶で喉を潤す。彼女も、それに倣う。 「用件は?」 真剣な表情で問う私に――、 「ヒマ潰し――という理由では?」 彼女もやはり、真剣な表情で答えた。 「――歴史研究部のことかね?」 広沢美澄が、顧問になったという報告は聞いていた。先日、公の場における凶器の所持という刑事問題を起こした生徒を、私は退学処分にした。いかに彼が名家の出であろうと、犯罪者は罰せられるべきである。その生徒は、歴史研究部の部長を務めていた。 「彼の処置に、異を唱えるつもりはありません。ですが――」 「今後は、君が面倒を見ると。彼等の愚行を、未然に防ぐというのかな」 「はい」 真っ直ぐに私の瞳を見据えた彼女は、きっぱりと言った。 「なるほど。私としても、他の生徒をどうこうする気はない。あれは、あの生徒の独断であったのだろう。それとも君は、あれが、’魔女の’差しがねだとでも?」 「まさか――」 彼女は笑った。私も笑う。この時代に『本物』の魔女などが、存在するものか。 ――そう言いたいのだろう、君は。 「遠藤真江(えんどうさなえ)に関しては、なんら問題のない……とても良い生徒です」 「承知した」 私は、大きく頷く。彼女は、「ありがとうございます」と頭を下げた。 「矢作(やはぎ)、という生徒が、最近入部したそうだが?」 授業態度が悪いと、教師の間で評判の宜しくない生徒と聞いていたが。 「ええ。それが、なにか?」 「狩田(かった)君の養子になったそうだね。機会があれば、彼女に、おめでとうと――」 「解りました。校長先生のお言葉なら、励みにもなりましょうね」 彼女は微笑む。最近の学生には、なんら感銘も与えないでしょうね。 ――そう言いたいのだろうがね、君は。 「おや、もう帰るのかい?」 立ち上がった彼女に、私は尋ねる。彼女は、そのままゆっくりと立ち上がり、 「他に、なにか御用でも?」 空のコップを盆に載せて、持ち上げる。くすり、と挑発するように、笑った。 「自動ドアの導入を、検討しようか」 私も立ち上がる、彼女を先導して、扉の前へ。気付かれぬように鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。どのくらい話していたのだろう。まだ授業中なのか、静かなものだ。 「つまらないお話で、申し訳ありません」 外に出た彼女は、リノリウムの床に立って、私に一礼。 「また、暇になってしまうなあ……」 私が、ぽつりとつぶやくと、 「そんなにヒマなら、校内の散策でもしてみては?」 彼女は、私に提案した。私も、彼女に提案する。 「君が、付き合ってくれるのならば――」 |
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