【午前 5時30分 矢作草揺(やはぎそうよう)】 チュンチュン、チチチ… 小鳥の声に、薄く目を開く。うるさい―― 「……ああ、そうか」 新しい家だ。見慣れぬ天井と、まだ薄暗い部屋の光景を、ぼんやりと見やりながら思う。木の箪笥、木の机、木のベッド――この家の主は、本当に木が好きなのだ。 自分も、暖かみのある木材の家は、嫌いではない。今まで住んでいたところは、冷たく陽の当たらないところで、人工の明かりが金属の壁を青く照らし出すような――小鳥の声など、聞こえもしないような場所だったから。 チュンチュンチュン、チチ…… 「わかってる」 薄い壁の向こうから聞こえる、数羽か数十羽の小鳥の声に頷いて目をこする。 山の近くは、目覚ましなんて必要ないんだと、ぼんやりした頭で考えた。 「――ちがう」 ちゃんと自然に起きられるように、この世界はできているんだ、もともと。 少なくとも、昔、別の街にいたころは、そうだったはず。 忘れているだけで―― (ん?) 少しの違和感。なにかの動く音。カチリ。 ジリリリリ――――ッ!! けたたましい音を立てて、目覚まし時計のベルが鳴り響いた。 「うるさい……」 顔をしかめ、額に手を押し当てながら、枕もとの時計を止めた。 チュンチュン…… また、小鳥の声が聞こえてくる。うん、こっちの方が、ずっといい。 なんという清々しい声だろう。昔から、鳥は好きだった。鳥のように翼を広げて、空を飛びたいと願っていた。その夢は、叶ったのかな? 叶ったと、言っていいのかな? 私は、昔ある人に、翼をもらった。真っ白な、天使の翼――。 飛ぶことのできない、ニセモノの翼だったけれど。 その翼を見た人たちは、私を『天使』と呼んでくれた。 もう一度、天使に逢いたい。あの時、私の中にいたという、天使に。 もうこの世界にはいないはずの、本当の天使に。 「天気、いいかも」 真っ白なシーツをかけた羽毛布団を押し退けて、身体を起こす。木の床に足を降ろして、ほっそりとした脚で立った。義父にもらった就寝用の空色の浴衣が少しはだけていたが、一人なので気にせずゆっくりと歩を進める。表面を滑らかにコーティングされた木の床は、素足に心地よい。昨日も感じたことだけれど。 歩を進める。窓にかかる白いレースのカーテンをめくると、透明なガラスの向こうに、鮮やかな緑が映える。裏山の木々が、初夏の早い朝の光りに輝いていた。裏山といっても、街の郊外にぽつんと残された小さな丘のようなものだ。その麓にある昔ながらの木造建築(いわゆる武家屋敷)が、先日、私の義父(ちち)になった狩田利輝(かったとしてる)の家だった。 チュンチュンチチチ…… 小鳥たちの声に誘われるまま、窓を開けて、空を見上げる。青い空―― あの頃と、まるで変わらない、澄んだ空のいろが、とても綺麗。 「おはよう」 私は小鳥に微笑みかける。天使であった頃、ずっと昔にしていたように。 長き時の流れの果てに、私は『今』を生きている。 目覚めることのない、眠りについたこの身体。 今はもう、天使ではない、私だけれど。 ――チュン 「そう? なら、いいのだけど」 優しい小鳥のささやきに、少しだけ曖昧な笑顔で応える。 (もう一度、天使をやればいい――だなんて) 私は、本物の天使とは――あの女性(ひと)とは、違うのよ? だけど――、 「そうだね。努力はしてみる。だから、応援してね?」 今度は、精一杯の笑顔で応えた。 チュチュンチュンチュンチュンチュチュン…… 小鳥たちは、まるで天使(わたし)との再会を歓ぶかのように、愉しそうに唱っている。 憶えてなんて、いないくせに。 (私だって、あの頃のことなんて――) 殆ど憶えてない。サナエに教えてもらわなければ、知らなかったことばかり。 私の過去を、私と同じ街で生まれた彼女は知っていた。この街で、彼女と出遭ったのは、運命だったのだろうか。記憶の殆どを失っていた私が、彼女に出遭ったことは。 チュン―― 「え、なに?」 チチチチチ…… 「あ、解った。遅刻するって言うんでしょ、学校に」 視線を室内に戻して、時計を見る。 朝の六時前。そろそろ、お義父(とう)さんが、起きてくる頃合だろうか。独身で、顔が怖くて、性格も厳しいけれど、身寄りのない私を引き取ってくれた優しいひと。随分前から世話になっていたけれど、今度は、養子にしてくれるのだという。 学校にも、ちゃんと通わせてくれている。 「朝ゴハン、食べにいかないと…」 ふと考える。やっぱり、料理くらいできないとだめなのだろうか、女の子は。 ものしりのサナエに、今度、料理を教えてもらおう。 そしたら、ちゃんとした朝ゴハンとか、お弁当も作ってあげられるかもしれない。 サナエみたいに――優しい女の子に、なれるかもしれない。 そしたら、 「……ま、いっか」 チュンチュン 「天使になれたら、またちゃんとお話しよう、あの頃のように」 今よりも、鳥や動物、木や花、風の言葉を素直に聞くことのできた、あの頃のように。 くるり、と向きを変えて、窓と、カーテンを閉める。 空色の浴衣と茶色の帯が、ぱさりと床に落ちた。義父(ちち)たちが、とりあえずしとけというので着けている白い下着姿でクローゼットに近付き、高校の制服を取り出す。私の瞳と同じ若葉色の上着と、白のブラウス、茶色のスカートを、以前教えられた通りに着込む。 お義父さんが、買ってくれたものだ。前に着ていたのは、誰かのお古みたいだったけど。やっぱり、新しい方が、いい。こういう時は―― くるん、とその場で一回転。 「こうかな」 小さな身体が回転し、ひらひらとしたスカートが、ふわりと大きく広がった。 前にトモダチと一緒に見た、テレビアニメの女の子がやっていた。「どう似合う?」とか言いながら、両親や兄に見せびらかすのだ。 (お義父さんは、なんと言ってくれるだろう?) 少しドキドキしながら、通学カバンを手に持って、居間に向かう。 少し前までは、学校なんてどうでもいいと思っていたのに。 今は、こんなに、愉しい。 サナエやマサト、他にも多くのトモダチができたから。 だから、楽しい。 居間に入ると、キチンと正座した義父が怖い顔で私を待っていた。といっても怖いのはデフォルトで、滅多に笑わない人なので、これがフツウ。正座も、サナエ曰く「武士」という風体の義父には違和感のないものだ。紺色の浴衣も、よく似合っている。 「……靴下を履きなさい」 義父の、第一声。静かに、それでいて、威厳のある渋い声。くつした? 「……あ」 足もとを見て、ようやく気付いた。履いてない。忘れてた。 「私の娘となるからには、模範的な学生になってもらわねばならん。解るね?」 渋い声と同じくらい渋い顔で、彼は言った。 「ごめんなさい。忘れてた」 私も同じような顔で、細くて鋭い彼の目を見つめ返す。 義父は、微かに笑った気がした。 「朝が早いのは、結構だ。もしや、眠れなかったか?」 「いいえ。ただ、小鳥たちが、起こしてくれたから――」 「――そうか」 言って、義父は立ち上がる。 「食事を用意する。ただし、大したものは出せんぞ?」 「こうして食べられる慶びを、神なる天使セルーシアに、感謝いたしましょう」 私は胸の前で両手を組んで、覚えたばかりの、神への祈りの言葉を唱える――。 |
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