「――閣下」
 里枝璃瑠(さとえりる)が、紫川を呼んだ。妙な歌声は、ずっと聞こえてきている。穏やかな歌声だ。兵の士気が下がり、戦闘も散漫になってきている。アーヴァインが兵たちを叱咤し、わめき散らす様子が、手に取るようにわかった。それはそれで愉しい。気張りすぎなんだよ、アイツは――そう思う。嫌いではない。だから、連れてきてやった。
「潮時ではないか?」
 紫川が応じる。すっかり、歌声にやられているようだ。声音にも、覇気がない。
「は、これこそ、敵の狙い通りかと。前方を――」
「ん」
 と、紫川は差し出された遠眼鏡で前方を見た。
「突撃、か。目標は、我が旅団であるな」
「密集陣形をとり、突撃に備えるのが、常道ではありますが…」
「が?」
 横目でちらりと、紫川は里枝の姿を見た。
「皇帝陛下の軍勢に、これ以上の傷を付けるわけには参りません。撤退でありましょう」
「貴公がそう言うのならば、仕方あるまい」
 皇族が率先して逃げたなどと、そういう話では具合が悪いのである。それは、里枝も承知している。自分が、そう進言したのだ。それで構わない。むしろ、その方がいい。この男には、まだ利用価値がある。ここで殺してしまうのは惜しい。南都の紫川綾世(しかわあやせ)――いや、オイカ・イロートオを敵に回さない為にも。
 それにしても――。
 返された遠眼鏡で、エテルテアの尖塔を見る。煙が立っている。なんとも曖昧だ。あれは、成功の合図と見ていいのか。信号弾を飛ばすと言っていたが。それに、この歌…
「紫川閣下!」
 近侍の兵が叫ぶ。
「魔山美冥(まやまみめい)様、お戻りの様子であります!」
 言うが早いか、黒い塊が本営に飛び込んできた。恐らく全力で駆けてきただろう馬が、彼等の目前で崩れ落ちて潰れた。転げ落ちるように片膝を付いた美冥が、紫川に注進する。
「エリア・カレティアの暗殺に、失敗致しました。無念であります…」
 彼女は、左手で右の脇腹の辺りを押さえている。黒装束に、大きな染みを作っていた。
「閣下のご期待に添うことができず、面目次第も――」
 片手を上げて、紫川はその言葉を遮った。
「いや、ご苦労であった。かなりの抵抗に遇われたと見える。部隊に戻り、養生されよ」
 自身の知らぬ作戦だ。それ以上、言うべきことはない。
「全軍に、撤退を指示。本作戦は、我が不徳の致すところにより、失敗の運びとなった。真に遺憾ではあるが、これより我が軍は撤退行動に移る。信号弾、撃て!」
「用意でき次第でよい、撤退合図、信号弾、放てぃ!!」
 里枝が、本部付けの砲兵に向かって命じる。
 しばらくして、エテルテアの空に、白い煙を引く砲弾が、撃ち上がった。鉦の音が響く。
 セルーシアの歌声は、今も風と共に大気を包み、戦場全体を包み込んでいる。
「総員、退却戦に移れ! 後衛戦闘は――、」
 里枝は少し考える。いや、はしっこい奴だ、たぶん生き延びる。
「後衛戦闘は、エドワード・アーヴァインに!!」
 皇帝の名代。実質的な総大将でもある里枝璃瑠の命令が、帝国軍全体に伝えられていく。
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