これは子守唄だ。そうユーナは思う。聞かん坊の我々への、バカな子供たちへの。
「閣下、」
 一瞬だけ見せた優しい表情を、厳しいものに変えて。ユーナはフィリアを見た。
「なにか、参謀?」
 渋い顔をしながら、フィリアが訊き返す。まるで、言うことを聞かない子供を見るような、どこか優しい表情だと、そんなふうにも思う。彼女も、セルーシアが好きなのだ。
 私は別に好きじゃないわよ。この期に及んでも、まだそんなことを考える。素直じゃないわねえ、なんでこんなにひねくれちゃったのかしら。そう思って苦笑した。
 なんだ、こいつ。と思いながら、フィリアはミツネの送った派遣参謀を見つめていた。
「敵が動揺しているようです。先ほどまでの勢いはありません」
「それは、我が方も――」
 そう言いかけて、考え直す。これは、天使の歌声なのだ。ならば、これが誰に力を与えるか、明らかである。我々は、天使の軍勢。天使を敵から護るための、護衛の戦士なのだ。
「セルーシアが怒りそうだな…参謀」
 ユーナの言わんとしていることが解って、片目を閉じた。ウィンク。
「あなたが怒られてよね。わたし、あのコ苦手なんだから」
 自分は参謀で、客将で、エテルテアの人間ではない。エリアやセルーシアの意思がどうこう考える前に、勝つこと。その為にここにいるのだから。知らないわよ、彼女がなにを考えて、こんな歌を唄っているかなんて――。知るもんですか。
「解った。セルーシアには、私が謝っておく。有り難い説法でも、聞かせて貰うとするよ」
 フィリアが言う。そう、これから自分の下す命令は、彼女の意向に逆らうものだ。
 ――そう思っておこう。フィリアは、にやりと笑う。
「なあに、故郷に帰る帝国軍のケツを、押してやると思えばいいのさ!」
「品のない人ね。この街の――庶民の生活に、浸りすぎているのじゃなくて?」
 ユーナが、ため息をつく。街の酒場で、彼女が大暴れしたという話も聞いている。まったくもって元貴族にあるまじき凶行。蛮行。であるからこそ、兵もこんなに付いてくるか。
「まったくだ。ダンスの踊り方まで、忘れちまったよ」
 そう言って、フィリアは大口を開けて笑う。品がないことこの上ない。ファン・パルナスが見たら、怒りそう。「淑女はもっと優雅に!」とかなんとか言って。消息が判らないというのは、たぶん逃げた。責任を追及されない為に。そうして、次の戦いの時には、なに食わぬ顔で現れるのだ。まったく、あのバカ女は――。
「今度会ったら、ケツの穴に鉄砲でも突っ込んでやろうかしら」
「なんの話だ?」
「右翼部隊を壊滅させた、バカの話よ!」
「それで、ケツに鉄砲か。意外と品がないな、大貴族の、お嬢様ってのも」
 ニヤニヤ笑いながら、フィリアが言う。もちろん、彼女が、わざとそういう言い方をしたというのは解る。サナリ辺りが、なつくワケだ。意外と、話の解るヤツかもしれない。
「あらいやだ。私も、蛮族との暮らしに、慣れてしまったのかしら…」
 そう言って、ユーナは笑う。フィリアに負けない、バカ笑いっぷりだった。
 突然の大将と参謀の大笑いに、なにごとかと兵たちが振り返る。
 ほら今よ、とユーナが彼女の背中を肘で突っつく。
 解ってるって、とフィリア。大きく息を吸い込んで、兵たちの姿を見据える。
「諸君らにも聞こえるであろう、この歌声。これこそ、我等に勝利をもたらさんとする、天使様の――セルーシア様の歌声である。諸君にも、聞き覚えがあるであろう、この歌を!」
 ざわざわと、兵たちがざわめく。――「そういえば、聞いたことがあるな」「どこだっけ?」「葬式の時だろ、綺麗な声で唄ってさ」「ほんと、綺麗だったよな」等々。
 ざわめきは、大きな波となって兵たちの間に広がっていく。
 ――頃合だな。
 フィリアは、せき払いを一つすると、近侍兵の引いてきた愛馬に、颯爽と飛び乗った。
 馬首を、彼等の方に向ける。ピンと、背筋を張る。ゆっくりと、ざわめきが、収まっていく。視線が集中する。兵たちの注視の中、真剣な表情の彼女が口を開く。
「これより、我が軍は――」
 上手いな、とユーナは思う。ダレかけた空気を、一気に引き締めた。
「敵本隊旅団に対し、突撃を敢行する。狙いは一つ、敵軍総大将紫川栄泉(しかわえいせん)である。この歌は、これ以上の犠牲を良しとしない、セルーシア様の慈悲の歌である。慈愛の歌である! 我等はこれに応えねばならない! 今こそ、我々エテルテア軍のすべてを出しきり、全力をもって、この戦を終わらせなければならない。全軍突撃である! すべての力を出しきり、勝利せよ! セルーシア・エテルテアと、神のおわすこの街に、今こそ、勝利を!!」
「――勝利を」
 誰かが、つぶやく。
「勝利を!!」
「セルーシア様に、勝利を!!」
「勝利をォォーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
 兵たちの喚声が木霊する。うむ、と満足そうにフィリアが頷く。
「陣形は、鋒矢(ほうし)。矢の先頭には、私が立とう」
「フィリア様が、みずから先頭に…」
 再び、ざわざわと兵たちがざわめき立つ。フィリアは片手を上げて、それを制する。
「セルーシア様の為に尽くすのが、我等祭司の勤めである。それ以上の愛をもって、彼女は私を包んでくださるだろう。たとえ死すとも、恐れることはない。我等の魂は、必ずや安息の地へと導かれるであろう。――ユーナ・ドレイスン」
「はっ、」
 いきなり呼ばれて少々戸惑ったユーナは、それでもキチンと背筋を伸ばし、畏まった。
「聞いての通りだ。これより私は、兵たちの先頭に立つ。ここの指揮は貴公に任せよう」
「しかし――、」
 客将に過ぎない自分に、そんなことを任せていいのか。
「返事はどうした!!」
「はっ! ユーナ・ドレイスン、これより全軍の指揮を執ります! 伝令兵、本隊大隊の各分隊長及び戦闘中の各隊に通達! 全軍突撃用意。我が軍は鋒矢陣形をとり、敵本隊旅団深く痛撃を加えるものである。陣形の組み替えを急げ! それから、歌を励みにしろと伝えるよう! 天使様は、ずっとこうして皆を見守ってくれていると――ね」
 こいつはいい将になるぞと、フィリアは低く笑った。そのまま、部隊の先頭に向かって馬を走らせる。近侍の兵が、それに続いた。
 やがて、誰もいなくなった軍本部で、ただ一人、ユーナ・ドレイスンは、悠然と大将の椅子に腰を掛けてふんぞり返った。大きな椅子だ。しかし、決して寂しくは、なかった。
「生きて帰ってきなさい。それまで、私がこの椅子を、暖めていてあげる――」
 前方では、突撃陣形をとった軍勢が、力を蓄えたバネのように、その時を待っている。
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