内瀬隊が向かってくるのと、右翼の戦線が膠着したのを見て、紫川栄泉(しかわえいせん)は本隊旅団をさらに前進させる。いまだに無傷であるといっていい。藤樹はそれを見て進路を右へ変えると、そのままアルリナウ隊に合流。増強された火力とカナデの奮戦によって、力戦していたアゼリエルのクラム大隊を退けることに成功した。いよいよ、本隊同士がぶつかろうとしている。残存兵力は、戦えるものだけでも帝国が――アーヴァイン大隊五百、紫川旅団四千。教団は、エーリンス大隊一千、リビエル大隊三百、内瀬小隊三十、アルリナウ小隊三十、クラッテオ大隊八百、そして弐礼大隊の五百――まだまだ帝国軍は優勢であった。
「戦力の投入時期を、逸したのではないか、参謀長?」
 紫川が、里枝に訊く。この旅団を、もっと上手く使えなかったのかと。
「それは、結果ですわ。思いがけず動いた左翼はともかく、右翼のアーヴァインは、あれだけの兵力差で、敵を後退すらさせられない。逃亡したリアレイア共々、無能と呼ぶよりありませんもの。恨むのなら、そんな無能しか寄越さなかった皇帝陛下でありましょう?」
「君、それは――」
「失礼。閣下の前で失言でありました。忘れていただければ、幸いと」
「いや、戦場であれば、気も昂ぶろう。この総大将が、最も無能だということだ」
 里枝は、ごく自然な態度で優しげな表情をつくり、さらに穏やかな声で言う。
「しかし、今の帝国にレイムル様以外でこれだけの兵の統制を取れるのは、閣下より他におりませんでしょう。もっと、自信を持っていただかねば」
 ――と。それは、事実である。大将軍カユウが叛旗を翻した今、諸侯たちを抑えられるのは、皇族の名前を持つ者でも、とりわけ人望の優れた彼くらいのものであろう。軍事に限って言えば、魔山美冥(まやまみめい)という天才もいるが、これまた得体の知れない存在であり、これ以上の地位を与えて諸侯の上に立たせるには問題がある。ただでさえレイムルやリデールなどという怪しい奴が牛耳っている国家である。さらなる諸侯の離反を招けば、
「ここだけの話…旧相天の、仁木(にき)あたりも、挙動が怪しいという情報が…」
 里枝が、紫川に耳打ちするように小さな声で言う。旧相天領は現在、魔山美冥の統括下にある。レイムルの腹心にして実力者。それに、彼女の拠る弐礼城は、小城とはいえ交通の要衝にあたる。紫川の眼から見ても、良い補佐役が付けば、最高の人事といえる。
 しかし、そう見えないのが、この国の貴族というものだ。貴族は庶民に勝ると、勝手に思い込んでいる。愚かしいことに。
「仁木は、親レイムルの筆頭ではなかったか?」
「代替わりがありました。病死という話でありますが…注意が必要です」
 里枝璃瑠(さとえりる)、この女にしても――信用するのは危険だと思う。レイムル・ロフトの為ではなく、この国の為に。開祖アリシナリア・マルザスの血を、継ぐ者として。
「そうか、恭弘(やすひろ)も死んだか。どうやら君も、軍事よりは、政治が合っているようだな」
「首席参謀を任されながら、この体たらく。どう閣下にお詫びするか、それだけを…」
「よいさ。もともと陛下は、我が軍の働きになど期待されていない。そうだろう?」
 優しい瞳で微笑しながら、紫川栄泉が言った。
「これほどの規模の囮部隊など、前例は、ないであろうな」
「恐縮であります、紫川栄泉閣下」
 すっと頭を下げながら、里枝璃瑠は、――ニヤリと笑った。
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