最初に動いたのは、エテルテア軍右翼パルナス中隊であった。 「続け!」 と彼女はそう命じた。「行け」ではない。「続け」である。その言葉通りに、白毛の愛馬に跨った彼女は、一人敵陣に向かって駆け出す。訓練の不充分な寄せ集めの騎兵隊は、それでも隊長に遅れまいと必死に一人、また一人と駆け出してゆく。隊列など、あったものではない。衿奈が見たら、頭を抱えそうな光景だった。ファンは、他の兵に比べて軽装である。おまけに駿馬『白百合姫(リスプランセ)』とくれば、とにかく速い。他の馬を引き離して、もはや一騎駆け状態である。 「来たぞ、白い騎士!」 魔山隊の誰かが叫ぶ。黒甲冑の騎士が、指揮杖を振るって防御陣形を組ませようとする。 ――間に合わなかった。 「遅いですわッ!」 ファンが、密集を始めた騎兵のただ中を、槍を振るいながら駆け抜ける。血飛沫が上がった。立ち塞がった兵士を軽く薙ぎ払って、そのまま速度を緩めず突き進む。 「陣形の中に入られただと!? なんだ、この白い奴はッ!」 小隊長の徽章(マーク)を付けた騎士が、槍をしごき突っ込んできた。 「邪魔を――するならば斬る!」 そう彼女が言った時には、首が宙に浮いていた。愛馬と服が、血に染まっていく… 「ち、血塗れッ!? ファン・パルナスだ、逃げ ブシュゥゥゥ――と、また別の血柱が上がる。背後で怒声が聞こえた。ようやく追いついた彼女の騎兵隊が、速攻に浮き足立ち始めている敵部隊と交戦に入ったらしい。 「逃げる? わたくしの優雅な戦いに、泥を塗ると………あなたがた敵が?」 血飛沫を浴びながら、彼女は微笑む。せめて戦場では、美しく散りなさいな、と。 「――見つけた」 槍を大きく振り被りながら、ファンは馬を走らせる。黒い騎士が、そこにいた。 「黒騎士魔山美冥(まやまみめい)と御見受け、勝負ッ!!」 馬を走らせながら、大上段の一撃。 ――ギィィン。指揮杖を捨てた騎士は、腰の剣を抜いてそれを受けた。 なんだ? ファンは思う。聞いていた話と違う。 「ドゥッ!」 手綱を引く。白百合姫が、優雅にターンした。黒甲冑の騎士と向き合う。黒騎士(そいつ)は銀色に輝く刀身の、ありふれた形状の刀を手にしていた。――おかしい。黒騎士の魔山美冥ならば、その愛刀は、黒く塗った刀身に刃の部分だけが白い『星鴉(ほしからす)』ではないのか? 「どこのどなたです、黒騎士の名を騙る偽者は?」 騎士は答えず、まるで彼女を徴発するかのように、その刀を前に突き出した。 「――面白いですわ」 こうでなくては、とファンは思う。これが本物の黒騎士かどうかは、もはや関係ない。今の一撃で解る。この騎士は、強い。 「リズッ!」 その声に応えるように、彼女の愛馬が小さく跳ねた。敵の懐に飛び込む。大振りはせず、小さく手首を返して、刀を持つ右の上腕を――甲冑のない、その部分を穂先で切る。 さっと腕を引いて、敵はその攻撃ををかわす。そのまま横薙ぎに剣を――、 「ちぃっ」 身体を前へ倒れ込ませながら、左腕で馬の首を押す。その上を、銀の刃が過ぎる。 二歩三歩と前につんのめった白百合姫が、右へくるん――と回り、敵を真正面に入れたところで、ファンが、その腹を蹴る。その行動すらも、優雅に見える。 槍を右の脇に挟むように構えた、まだ白の残る赤い斑模様の騎士が、黒一色の騎士に向けて突っ込む。初速が迅いのは、さすがに名馬か。至近にしてこのスピード! 「ええいっ!」 初めて、声を出した。若い男の声。黒甲冑の騎士は、自身の心臓目掛けて真っ直ぐに飛んで――そう見える――槍を、馬から転げ落ちながら、ギリギリのところでかわしていた。 脇腹を覆う甲冑が割れて、左の腕からも、血が噴き出している。掠った。 「かわすかぁ!」 ファンが叫ぶ。これはさすがに、優雅だとは言えない。これで仕留めたと、そう彼女は確信していたのだろう。それを、裏切られた。 「名を聞く。言わないなら、捕らえて、縛り上げてでも聞きますわ…!」 血走った眼のファン・パルナスが、騎士を睨んだ。 練度の足りない彼女の騎兵隊は、よく鍛えられた魔山隊の兵士たちの前に半ば壊滅状態であった。それでも、いまだ戦い続けている者も存在する。彼等は、小さく固まって必死に敵と干戈を交えている。けなげとも言えた。指揮官が攻撃中止を命じない限り、攻撃は終わらない。ファン自身もまた、周囲を囲まれていることに変わりはないが、今の一撃で大将を仕留められていれば、逆に敵部隊の方が総崩れとなっていたに違いない。 階級制度のない軍隊では、大将(指揮官)の死は、その部隊の死でもあるのだ。 「…魔山美冥配下、大木真一郎(おおきしんいちろう)である。もはや勝敗は明らか降伏せよ」 黒甲冑の騎士が、抑えた声音で言う。傷を負った左腕をだらりと下げたまま、右手で刀を構えている。相手が相手だけに、まったく油断をしていない。 「――憶えた。憶えましたわ、オオキシンイチロウ…」 そう言って、彼女は槍を天高く掲げた。じりじりと、槍を手にした魔山隊の騎兵たちが距離を詰めてくる。大木の従兵たち。恐らく、弐礼で徴発した相天兵であろう。 「また、どこかの戦場で――」 すぅーと、槍を持った手を右方向へ下ろす。左脚に力を込めた。素早く回頭した白百合姫が、そちらに駆け出した。そこにいた馬上の兵を突き殺しながら、走る。その先には、今も戦っている彼女の部隊、パルナス隊の兵たちの姿があった。 「最早これまで。撤退! 我々の負けですわ、皆、逃げてよろしい」 そう言いながら微笑むファン・パルナスが、周囲の敵兵を当たる側から斬り落としていく。こうして敗れてしまった以上は、せめて生き残った兵たちだけは、家に帰してやらねばならない。そういった人を思いやる心が、彼女にはあった。矛盾しているようだが、「敵」か「味方」かの違いなのだろう。それゆえに、後に弘兼旭妃(ひろかねあさひ)に仕えた彼女は、麾下の兵たちには随分と好かれていたという。ただしその部隊の損傷率は、いくら先鋒部隊だからといっても、そこまでは――というほど恐ろしく高いものであったともいう… 自然と、道が出来た。いくら精強な相天兵といえども、天魔鬼神の相手など、そうそう出来ないものだ。大木も、特に攻撃を命じてはいない。逃げてくれて良かったと――そう思っていたくらいだ。彼女の開いた文字通りの血路を、生き残った兵たちが我先にと駆け出していった。馬が駄目になって、徒歩で逃げようとする者もいる。ファンは、くるりと振り返って、それらの兵たちが無事に戦場を離れるのを待っていた。魔山隊は、戦意を喪失していて、誰も動こうとはしない。「よろしいのですか」と問う副官に、彼は「仕方ない」と答える。無理に追い掛けたところで、死人が増えるだけだ。それに、 「これで、我が隊の役目は果たした。主力部隊も、すでに戦闘に入っている」 大砲の音、銃撃の音、喚声と――そういったものが、主戦場となった東の方から響いてくる。ようやく、耳が、身体の感覚がまともになってきたらしい。まったくもって、それどころじゃなかった。死ぬかと思った。身体の震えが止まらない。まったく… 「恐ろしい。あれが、『血塗れ』のファン・パルナスか」 兵たちに聞こえないように、小さな声で、彼は呟いた。味方の損害が、酷い。立て直すのに時間が掛かる。主戦場には、間に合わないだろう。仕方がないよなと、そう思う。 「…この程度の損害ならば。美冥様も、許しては下さるだろう。――伝令ッ!」 結局、大木の率いる魔山隊は、最後まで主戦場での戦闘に参加することはなかった。 |
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