エテルテアの風は優しい。
 それは、この地に暮らす人々の、心の優しさなのだとセルーシアは思う。
 チチチ…
「もちろん、あなたたちもね?」
 尖塔の頂上付近。円形に広がるバルコニーに立つ彼女の目の前を、青い色の小鳥たちが通りすぎていく。
 チチ、チュチュチュ…
「そうね、今日は空があんなに高い――」
 雲一つない青空の下で、わたしも空を飛べたなら、そんなことを考える。
 くすくす…
 そんなセルーシアを、小鳥たちは笑うのだ。あなたには無理よ、と。
 肩にとまった別の鳥が、バッ、と飛び上がる。
 目をしばたたかせた彼女の前に、小さな羽の欠片が舞い降りて――、
 セルーシアの小さな両手が、それを優しく受けとめる。
「また、鳥さんたちとお話?」
 彼女の後ろから、やれやれと肩をすくませながら、少女が現れる。右の瞳と、左の瞳の色の異なる、帝国では魔女と呼ばれ、忌み嫌われる存在。
「サナリ――」
 長く美しいアイスブルーの髪を、ふわりとなびかせながら、セルーシアが振り向く。優しい色のライトグリーンの瞳が、サナリを見つめた。微笑む。羨ましいほどに綺麗な少女。教団の人間が、『天使(エンジェリク)』と称する存在。『教団導主(ロード)』セルーシア・エテルテア。十三歳の、たぶん自分よりも年上の女の子。正直なところ、サナリには記憶がない。自分の名前すら、本当かどうか疑わしい。自分の生まれた日も――たぶん、あの日だというのは解る。全てを思い出した、あの日。過去の記憶。代々の魔女が伝えてきた、古の記憶。十歳の誕生日に、予め甦るようプログラムされていた、魔女としての自分。荒れた大地に放り出された、あの日。あれから一年――。
 エリアは、『衿奈たち反逆者一行(トレイトレス・エリナ)』を難なく受け入れた。エテルテアは、美しい街だった。石造りの建物も、舗装された道路も、活き活きとした人々の姿も。すべてが美しかった。整然として空気が澄んでいて、自然が美しい。教団の本部はもともと貴族の館であったというが、背後に高い――相天城の天守閣よりも高い尖塔を持つ、大聖堂などが建てられ、大聖堂を中心として周囲に同心円状に広がる市街では、商業が盛んであるらしい。郊外は豊かな農村地帯。さらに西に行けば乾燥地帯に採石場が広がっている。石は多いが、鉄が少ないのが悩みらしい。しかし、もっと雑然とした世界だと、衿奈は想像していたのだが。
 エテルテアは、恐ろしいほどに平和であった。
「わ、私は、帝国から追われる身でっ、」
 あまりに場違いな世界――地上の楽園かとも思えるその地に、恐れおののいた衿奈は、がらにもなくエリアに尋ねていた。本当に、自分たちがここにいてもよい存在なのかと。
「私は、これでも帝国の国庫を荒らした大泥棒ですから」
 他の皆さんの罪状など、ささいなものです――そう言ってエリアは微笑んだのだ。
 サナリは、そのエリアが好きになった。髪を肩の上で切り、同じ型にした。男の子みたいだと、衿奈にからかわれた。エリアは、実際の年齢よりもかなり若く見えた。サナリは志願して下っ端の祭司見習いの役に就き、セルーシアのお世話係みたいなことをしている。
 居心地が悪いのは、最初だけだった。それはもちろん人間の社会で、出来のよい人間ばかりの集まりではないし、問題も起こる。けれど、良い人間が圧倒的に多い。悪い人間が、悪いことをやりにくい雰囲気を、この教団は創り出しているのだ。それは、エリアであり、祭司たちであり、セルーシアの人柄というものか。
「ほら見て、鳥の羽」
 重ねた両手の上に、小さな羽を乗せたセルーシアが微笑む。
「これを集めたら、人も空も飛べるようにならないかしら?」
 なるわけねー、とサナリは思う。天使は、ふと真剣な眼差しを彼女に向けて、
「この街は、豊かになりました。すべて、エリアのおかげ――。でも、まだ。まだ不十分。帝国では争いが続いているし、…聞いた? また、皇帝と宰相が代わったそうよ?」
 ――知らなかった。とサナリは答える。
「軍人上がりの強い人だそうよ。だから、――また、人が、増えるかもしれないわね」
 戦争になれば、難民も増える。衿奈のような敗残兵も集まってくる。この街のキャパシティでそれらを養えるか、そういうことを彼女は言いたいのだろうか。しかし――、
「減る、かもしれないよ」
 それは、そういうことは、彼女のような人には言ってはいけないことだ。そうサナリは思う。だけど言わなければいけない。軍人上がりの皇帝なら、進んで戦争をするだろう。ならばその新皇帝はここを、エテルテアを攻撃する可能性もある。帝国宰相弘兼雄飛(ひろかねゆうひ)の、再三の解散命令をエリアが撥ね付けてきたのはサナリも知っている。帝国にとって、この教団は目障りなのだ。人の平等を説くような宗教は、帝政とは相入れないから。いつ何時、武力による征伐を受けたとて、不思議はない。そんな、不安定な立場。この街は、そんな、砂上の楼閣に過ぎないのだと。それを、彼女は伝えなければならない。
「衿奈が、エリアに鉄砲を造れ、と言っているそうですね」
 セルーシアが言う。サナリは少し驚いた。彼女が、地に足のついた人間であることに。鉄砲なんてのは、俗世間のものだ。天使の使う言葉では、ないと思ったから。
「藤樹が、だけどね」
 少しだけ、嫌そうな顔をしたサナリが、そう答える。
 衿奈に遅れること数ヶ月――。もと相天家軍師内瀬藤樹(ないせふじき)が、教団に転がり込んできた。衿奈を追ってきたのである。それ以前にも、もと相天の騎士やら兵士やらが続々とここに逃げ込んできては、衿奈に忠誠を誓った。彼等は大抵、「内瀬殿に勧められて」というようなことを言っていたから、弐礼城陥落後も、彼女はその地に潜んで地下活動を続けてきたのだろうか。弘兼の盟友とも言われた皇族の清戸高安(きよとたかやす)が配下の謀叛で死んだのも、藤樹の工作ではないかという噂まである。実際に彼女に聞いたわけではないから、真偽のほどはサナリにも、たぶん衿奈にもわからないのだろうが。彼等は今や、『相天閥(ソーテナー)』とでもいうような徒党を組み、鷹派――帝国打倒を声高に叫ぶ過激派と、平和愛好の信徒たちからは、迷惑顔で見られる存在となっていた。
「衿奈は、戦争はしたくないと――思う」
 そうは言うが、サナリにも自信はない。「一緒に帝国を倒そう」と、サナリを誘ったのは衿奈なのだし、彼女も帝国に恨みを持っているのは当然だ。でも、だけど、
「こんな綺麗な街を、人々を、戦争に巻き込んじゃいけないよ…」
 たぶん、誰よりも。衿奈よりも、新皇帝なんかよりも戦争が得意なサナリは思う。魔女の記憶の中には、戦略の立て方も、戦術の練り方も、人の殺し方だってある。何代か前の間抜けな魔女が、上級魔法の使い方を次代に残すのを忘れてしまったせいで、それは出来なくなってしまったけれど。それでも、例えば毒入りリンゴでお姫さまを永久に眠らせるくらいは、彼女には容易いことなのだ。
 自分が兵を率いて、戦っている場面を想像する。
 槍か、剣か。引き裂いた敵の返り血を浴びて、魔女の私は笑うのだ。
 敵の本陣に潜り込んで、大将の寝首を掻く。やはり私は笑うだろう。
 知らず、身体が震えていた。怖い――。こんな記憶なんて、いらないのに。
「大丈夫よ」
 そっと、優しくて暖かな両腕がサナリを包み込んだ。自分よりも年上で、そのくせ自分よりも小さなセルーシアの身体が、なによりも大きく見えた。そう、彼女は、天の使いだから――。
 その背中に、大きくて白い天使の翼を――いつか。
 私が必ず、キミを、空へ、
「そうだね、大丈夫。エリア様が、必ずなんとかしてくれる」
 だから――、
 サナリはもう、怖くはない。この世界で、自分がやるべきことを、探し当てたから。
 セルーシアを本当の天使にする。それが彼女の、この世界での、全て。
「相天の方々には、感謝しています」
 再び、眼下の街並みを見下ろしながら、セルーシアが言う。
「この街の治安が保たれているのは、彼等のおかげ。そう、エリアが言っていました」
 この街で、門番とか警察の仕事をしているのが彼等で。彼等の一見すると怖そうな顔立ちが非常に役に立っていた。軍人である彼等が、この街のために何かをしたいとエリアに直訴し、矢作基早(やはぎもとはや)を隊長とする巡察隊を組織した。初めは言語の問題などから様々な軋轢も生んだが、今では充分人々の役に立っていた。内瀬藤樹の徹底した教育によるものだともいう。相天閥の人間も、決して疎まれているばかりでもないのだ。――ただ平和に暮らしたい。この教団の人間は、そう思っているだけなのだ。サナリ・テンティアットと同じように。
 サナリは、戦争がしたくて堪らないように見える藤樹が、嫌いだったのだ。
「争い事は、ないに限りますから――」
 そう言って、セルーシアは再び空を見上げた。大きな鳥が、高く飛んでいる。
「教団のことは、すべてエリアに。我々が心配せずとも、必ず彼等にとって、より良き道を選んでくれるでしょう」
 天高くそびえる大聖堂の塔の上からは、街の南方の平原地帯で馬に跨り槍を構えながら戦闘訓練に明け暮れる、衿奈の家臣となった騎士たちの姿が、小さく見えていた。
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