帝国軍の、エテルテア領への侵攻が開始された――。
 報告によれば、総大将は、皇族紫川栄泉(しかわえいせん)。参謀に、里枝璃瑠(さとえりる)。これは、もと相天派の騎士で、カユウに降り、そのままレイムルに仕えた者である。紫川共々、教団側からの調略の手は伸びたが、彼女はそれを拒んだ。もともと衿奈ではなく、兄の親征(ちかまさ)に属していた者なので、それは仕方がない。ミーネが憤慨したのは、むしろ紫川栄泉にである。綾世の父――であるならば、帝国に従う理由はない。弘兼雄飛(ひろかねゆうひ)とは親友であり、彼のクーデターにも協力した同志であった。それなのに、彼は、あくまで帝国の臣たることを望んだのである。見るからに不機嫌な態度で、ミーネはエリアに突っかかった。「なんなんですかあの人は!」と。紫川の人となりをよく知るエリアは、「そうでしょうね」と彼女をなだめた。帝都にいた頃は、よく目で追っていたものだ。温厚で誠実、それでいて豪胆。それが、紫川栄泉の人物評である。弘兼、清戸、紫川といえば、帝都住まいの女学生たちの間では、当時ちょっとしたアイドルであった。有能であるがゆえに、三公に疎まれた皇族たち。年も若く、容姿も秀でていた。その三人が、仲が良いのはともかく、あんなことをしでかすとは、エリアには思いもよらなかった。無理もないことかもしれない。人間として劣る者から順に、皇帝に指名されていく制度。そんなのは、おかしいと思うから。――素敵だったなあ、とエリアは若き青春の日々を思い出す。友人たちの間では、一番人気は弘兼だったけれど、彼女は、紫川の優しそうな瞳が好きだった。昔の話だ。その友人たちとも、連絡が途絶えて久しい。少しくらい、会いにきてくれたっていいのにさ。
 しょうがないか。帝都で官僚やってるのが、ほとんどなんだし。結婚もしてるし――。
 もういいや、そんなことは。今は、
「紫川栄泉は、軍事関連は、あまり得意ではないでしょう」
 エリアが言う。彼の真価は、むしろ内政外交にあったとエリアは思っている。弘兼が彼を同志としたのも、そのあたりに理由があった。清戸は軍事に秀でていたし、弘兼も戦略や政治には自信があった。彼等と諸侯の間を取り持つ、人望のある者が必要だった。カユウが彼等に従ったのも、紫川に説得されたからだと言われている。父親を殺され、ひどく警戒し、怯えていた年若い少女に、「貴方のような将来のある女性を殺すような真似だけは、許しません」――弘兼ではなく、自分を信頼しろと、彼はそう言った。「大将軍などといっても、なにもしなくてもいい。少しの間だけ、フォーウッドの名を貸して欲しい。結婚をして、貴方らしく、優しい人生を送ってもらいたい。彼等が約を違えた時には、私が必ず貴方の幸せを守りましょう」と。カユウは、「わたくしも、伯爵の娘。慣れぬ戦ですが、出来うる限りのことは。なるべく死者を出さぬうちに、戦を終わらせてください」――そのような返答をしたと、伝え聞いていた。
「彼は、人の親である前に、皇族であるのです。帝国の子であるのです」
 年甲斐もなくブーたれるミーネを諭すように、彼女は言った。
「望まぬ戦でありましょうが、皇帝の命なのです。それは、彼等にとって絶対のものです」
「ですがっ!」
「彼等は、ソブル皇帝を殺さなかった」
 三公の立てた、人形のような皇帝陛下は、レイムルによって殺された。
「皇族は、アリシナリア皇帝の子です。ミーネ…待ちましょう。カユウやミツネ、オイカが、レイムル皇帝を殺してくれる時を。その時こそ、我々が勝者となる日です」
「は、はい――っ」
 ミーネは驚いている。エリアが、「殺す」という言葉を口にするなど、考えられなかった。政治家エリアとしての、本心であるのかもしれない。本心を隠しながら目的を達成するのが、政治家という人間なのだと彼女は思う。自分は、彼女の同志として認められている。だから、本心を――。
「セルーシアには、苦労をさせたくありませんからね」
 エリア・カレティアは、母親のような優しい表情で、微笑んでいた。
次へ
目次