次の日――。
 衿奈はさっそく、軍の再編に取りかかった。最も問題なのが、兵の配置である。偏狭な相天の田舎者どもは自分にしか懐かないし、街から徴集したへっぽこどもは、馬にも乗れない奴ばかりだし。かといって、騎兵二部隊は確実に動員したい。乗馬のできる者を掻き集めたとして、指揮官は誰に? 矢作か巴か。青木は性格に難があるし。うーん、と悩みながら、うろうろ歩き回る。それでも、教団の将来がどうこう考えるよりは、気が楽だ。「せぇい! やぁッ!」という掛け声が、風に乗って微かに聞こえてきた。街の東の平原で、訓練が行われているらしい。担当は藤樹のはずだが――気晴らしに、様子でも見てくるか。
 兵たちは綺麗に隊列を組んで、号令に合わせて剣を振るっていた。へっぴり腰の者もいれば、筋のいい者もいる。とりあえず、使えそうな奴を片っ端から引っ張り出していく。士官候補生というところか。鍛えてモノに――と、衿奈の目が、そこで止まる。明らかに、達人レベルの奴が混じっているのは、どういうことだ? おのおのまちまちな訓練用の服装で集まっている中で、太いだぶだぶのズボンに、同じくだぶだぶのシャツを着た、自分よりやや年上くらいの背の高いその女が、異彩を放っている。体格そのものは、それほどでもないが、重い鋼鉄の剣を軽々と振るうその姿から、実戦経験者なのは間違いない。
「そこのっ」
「なんでしょう?」
 まるで、呼ばれるのを待っていたかのように、女は答えた。答えながら、剣を振るっている。まるで剣筋に乱れがない。何者だ、と衿奈は訝しむ。名を聞いた。
「ファン・パルナスと申しますわ」
 列からゆっくりと歩き出してくる彼女に、当ててはいけないと他の人間が剣を振るのを躊躇している。「あら、お構いなく」と平然と言って、彼女はへなへなと剣を振る男たちの前を通り過ぎて、衿奈の前に立った。そうして、優雅に一礼する。貴族が、目上の者に対してする礼。没落貴族かと、衿奈は考えた。パルナス――聞いたことはない。もし、この場にミーネがいたならば、「ああ、あの…」とでも言っただろうか。シデルグのような傭兵稼業の者ならば「噂はよく聞いているよ」とでも言ったかもしれない。その道の者には、名の通った存在ではあった。
「こうして閣下の御目に止まり、拝謁を許されたること、真に喜ばしきと――」
「堅い挨拶はいい」
 衿奈は形式ばった挨拶が嫌いである。それは、侯爵の娘だった頃からずっとそうである。お行儀が悪いと、藤樹に怒られてばかりいた。その藤樹がまた、行儀作法がなっていないので、どうしようもない。青木のような若い、素行不良の気のある家臣には、話のわかる姫様だとむしろ評判であったが、本家の兄などには、これ以上ないというほど嫌われた。それは、作法だけの問題ではなかったけども。その衿奈よりも、あるいはエリアなどよりも、遥かに優雅な佇まいを見せるこの女性は、何者であるのか。
 パルナス家は、帝国南部の小領主であった。その領地は、夜魔族の住まう南東郡にほど近いところにあり、彼女の母親は夜魔族の出身であると言われる。かの叛乱の際にも当然のように巻き込まれ、夜魔族に味方した彼女の父は戦死。領地および爵位も没収となった。彼女は剣を取って各地の小戦争に兵卒として加わり、次第に名を成していく。なにより女性でありながら、指揮官でもなく一兵士として戦う者など滅多にいなかったし、普段の言動がどう見ても深窓の御令嬢にしか見えなかった、おまけに美少女だというので、周りの兵たちは気が気でなかったという。なにを血迷ってこんな娘がと、そう思っていた。気のいい彼女の仲間たちは、彼女を常に背後に隠すような戦い方をしてくれたし、彼女もそれに甘えていた。最初は、だ。すぐにそれは間違いであると彼等は気付く、彼女は、自分たちよりも、遥かに優れた兵士であると。
「勝敗は、時の運とは申しますが…」
 ファンが、にこやかに衿奈に語りかける。
「見たところ、人材には不足しておられる様子」
「あんたが、やってくれるって?」
 できるものならやって欲しいものだと、衿奈は思う。小規模の部隊を、より多く展開させるような、そういう戦い方が彼女は好きだ。好きというより、味方が数で劣る以上は、正面から戦うわけにはいかないのである。あっちを突っつき、こっちを突っついて、敵を困らせなければならない。そう考えると、まともに部隊指揮のできる人間が、一人でも多く欲しくてたまらないところなのだ。
「お任せ、いただけるのでしたら」
 あくまでも優雅に、ファンは微笑む。しかし、見た目はともかく、さっきの素振りで、衿奈は彼女がプロだと確信している。大方、帝国軍に敗れたドレイスンの残党あたりだろうと考えた。自分と同じく、雪辱を期して、ここに逃げてきたのだろうと。だから、
「得意な兵科は?」
 そう聞いた。意外にも、「重騎兵、ランス兵」というハッキリとした答えが返ってきて、ますます衿奈は彼女に期待を寄せた。騎槍(ランス)兵の仕事は、突撃である、度胸がなければできない。女の指揮官が騎兵を使いたがるのも、珍しい。大抵が、砲兵隊長とか輜重隊とか、戦場の後方に回される。右翼を任せて、左翼の自分と連携させるのもいいかもしれない。そんな青写真を、衿奈はすでに頭に描いていた。
「右翼、騎兵中隊を任せます。ファン・パルナス卿」
 敬意を込めて、そう呼んだ。
「は、有り難く、拝命いたします!」
 背筋をピンと伸ばしたファンが、右手を胸の前に。たっぷりと時間をかけて、礼――。
 知らないことは、幸せである。
 衿奈がもっと彼女を知っていれば、もっと違う使い方をしたであろう。ミーネがいたならば、「それは危険では」と、シデルグなら、「敵を全滅させる気か!」と、言ったか言わなかったか。その名を知る者にとっては、ファン・パルナスの名は、悪鬼の名にも等しい。初陣は、悲惨であった。奇襲――。剛勇で鳴らした父親も、勇敢な従者たちも、嬲り殺された。十二歳の少女は、戦場の獣と化した帝国軍兵士に囲まれていた。男の太い野蛮な腕が伸びて、少女を小さな馬の背から引き摺り降ろし、押し倒し、胸甲も兜も剥ぎ取って、その下の衣服も破り捨てる。泣き叫んでも、助けはコナイ。下腹部を覆う布地に、手が掛かる。彼女は、ぎゅっと目を閉じた。右手になにか硬いものが触れた。だから、
「戦場においても、優雅に美しく。人たるもの、そうありたいものですわ」
 ファンは言った。衿奈は、どう答えたものかわからず、「そうだな」と適当に頷いていた。
 思いきり、右腕を振った。それは、父の愛用していた、よく切れると評判の、相天製の刀であった。刀といっても短い方の、倒した敵の首を切るために昔は使っていたという、今では、さすがに蛮行に過ぎるとあまり使われない、せいぜい護身用のものである。恐らく、それすらも使わねばならないほどの激戦であったのだろう、だからこそ、帝国兵士たちの精神の異常な昂ぶりも、責めることはできない。戦場の作法として、略奪強姦の類は帝国でも公式には認められていないのだ。ミーネならば、「非常識ですっ!」と怒り、シデルグならば、「戦場とは、なにが起きても不思議じゃあないものさ」とでも言ったであろうか。けれど彼等は、その時、その場には、居あわせなかった。だから、これは兵たちの間に広まった噂話に過ぎない。
 ――ファン・パルナスは、その小隊を、たった一人で全滅させた。
 最初の男が、首筋を斬られ、ひゅーと空気を洩らしながら、真っ赤な血を吹き上げた。その血を浴びて真っ赤に染まった少女の顔は、全くの無表情だった。斬られた男の身体が、倒れた。ゆっくりと立ち上がった彼女は、手にした刀を水平に構えて、走り出す。切っ先は寸分違わず別の兵の腎臓に突き刺さる。彼女は刀から手を離し、たった今刺した兵士の腰から長剣を抜き出して、ふふふ、と笑ったという。「神憑きだ…」、誰かがそう呟く。戦場などで、突然、人が変わってしまったかのように、ただただ敵を殺しまくる者が現れることがある。そういう将や兵には、神が――戦の女神(アリシナリア)が憑いたのだと、兵たちの間では、そう言う。無論、彼女を奉じる帝国は、認めていなかったが。その間にも、また一人が刺されて死んだ。
 男たちは、逃げた。攻撃目標、敵将であるパルナス卿は殺した。味方の隊長も死んだ。もう、ここにいる理由など、彼等にはなにもない。
 彼女は、その時のことをよく憶えていない。ただ、戦場で人を斬ることに躊躇がなくなった。けれど、敵でないものは、決して斬らない。いかに戦場で多くの敵を殺すか。追い求めるのは、それだけ。戦争あるところ、ファン・パルナスあり。それほど、彼女は多くの戦場を経験してきている。衿奈などの社会の上部にいる者の間に名が知れていないのは、そのほとんどが兵士レベルの話であるからだ。実戦経験では、衿奈など足許にも及ばない。あのフォーウッドすら、「部隊など与えられない。諸侯に、フォーウッドは天魔鬼神の軍勢かと怖れられてしまいます」と言って、彼女に兵を与えなかったというから、衿奈も大それたことをしたものである。
 ファン・パルナスは、その優雅で貴族的な物腰とは裏腹に、特に傭兵たちの間では、禁忌の存在とされているのだった。『血塗(まみ)れファン』の二つ名は、彼女が純白の戦袍(せんぼう――夜魔族の戦時における正装)に白馬という出で立ちで騎兵隊を率いて戦ったいつぞやの戦場で、戦が終わった時には、その衣服も馬も、すべてが返り血で真っ赤に染まっていたという逸話から来ている。あれは、夜魔族の威圧に出てきた帝国軍先鋒隊との戦であったか。その結果、夜魔族と帝国の関係は修復不可能なほど悪化し、ミツネも教団やフォーウッドなど、反帝国勢力との同盟締結を真剣に考えるようになったという。まさに疫病神というほかない。その彼女を、先鋒大将として使ったという後の弘兼旭妃(ひろかねあさひ)は、やはり稀代の名君たる人物であったのだろう。
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