「ぐおぁ!?」
 青年の口から、悲鳴だか、うめき声だか、そんな音が漏れた。
 実は、とっくに気がついていた。
 女の子たちの会話に興味があったのと、柔らかい感触が心地よかったのと。いや彼を責めることはできない。身じろぎ一つせず、じっとしていたのは立派である。話の方向が怪しくなり始めた時には、早くここから離れなければ、と考えて、でも今さらそんなこともできなくて、悶々としながらも、じっと耐えた。それはやはり、誉められはしなくとも、立派ではあろう。
「あ、よかった。気がついた…」
 彼の瞳を覗き込みながら、サナリが微笑む。視線を反らそうとしては、また戻ってくるのは、殴ってしまったことへの罪悪感か。ヴァストは、彼女に「大丈夫だよ」と微笑み返す。正直な話、彼はずっとユーナに気があった。生まれが違うことも承知していた。ダメだとは思いつつ、彼女の笑顔が眩しくて、頑張って勉強した。せめて、祭司になろうと思った。少しでも彼女の役に立ちたいと思い、彼女が最近よくこの街に来ることに、淡い期待すら抱いた。それもまた、今の会話でダメだと解った。だからというわけじゃない。もともと、少しは気になっていた。珍しい外見だから、というのは、もちろんあったと思う。でも、そんな外見がどうこうとかで彼女を判断するのは、おかしい。とても優しくて、素直で、かわいい女の子だと、思っていた。ユーナがいなければ、間違いなく彼は彼女を好きになっていただろう。そして、今この瞬間にも、その気持ちは強くなっている。優しいその視線に見つめられて、彼は、
 ――今度、二人っきりになったら、告白してみようかな。
 そんなことを考えている。その彼の鼻先に、ぬっと、黒光りする銃口が付きつけられた。
「命中率がいまいちなの。ちょっと、見てくださる?」
 少しだけ物憂げな色を帯びた、その美しい声に、彼は、ゆっくりと視線を動かす。
 彼の前に、膝の上にちょこんと銃身を乗せてしゃがみ込んだ、ユーナ・ドレイスンが優しく微笑んでいた。長いスカートが少しだけ持ち上がって、細い足首と、ソックスと、小さな靴。そんなものが目に入って、慌てて立ち上がる。
「そんなに、慌てなくてもいいのよ?」
 わずかに首を傾げたユーナが、ものすごくカワイイと彼は思った。
 サナリは、負けてなるものかと、立ち上がる。女の直感というやつだ。
 ユーナ・ドレイスンは、ヴァスト・シエンバーを、まんざらでもないと思っている。
 それは、思い過ごしかもしれないし、本当はたくさんいる恋人の一人――くらいの感覚かもしれないし、それともただの友達としての好き、かもしれないけども。
 それでも、サナリは、彼女の心を読んだりはしない。そんなことをしたら、負けだから。
 負けないから。ぜったいに。
 ヴァストの心は、揺れに揺れている。さっきの決意もどこへやら。本当は、自分はどっちの娘が好きなんだろうかと、延々と悩むことになる。答えは、どっちも好き。完全な二股掛けの状態である。だからといって、彼を責めてはいけない。誰の心にもある、高嶺の花への憧れ。いや、サナリが凡百の雑草だと言う気はない。彼女だって、とても魅力的な女の子だ。貴族という異なる世界への憧れが、ヴァストにはあったのだ。一人カヤの外状態のシェルジェンナにしても充分に魅力的で、たまたまヴァストの好みに合わなかったというだけで、見る人が見れば、それはもう美少女と呼ぶべきものであろう。まだまだ、彼等の人生は長い。まだ見ぬ世界、人との出会いが、彼等の先に待っていることであろう。これから多くの経験を積んで、彼等はもっともっと素敵な大人になっていく。
 廊下の先、T字になったところを、たまたま通りかかった人間が、ちらり――とその様子を横目で見た。もうそんなに人生の残りも長くはないかもしれない、これまでずっと仕事仕事で恋愛すらまともにできなかった彼女は、「若いっていいわねえ」と、微笑みながらつぶやいた。
 エリア・カレティア三十一歳。――結婚は、もう諦めました。
 しかし、その彼女を見つめる熱い視線の存在に、彼女は気付いていなかったのだ。
 それは――、いや、そんなことを気にしていられる余裕は、彼女にはなかった。
 帝国軍の再攻撃の時が、間近に迫っていたのである。
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