帝国の北、やや西寄りの国境近くに広がる岩だらけの乾燥地帯を、アドリアドと呼ぶ。今日は、風が強い。砂の嵐の中を進む隊商ふうの一団があった。十人くらいだろうか。皆一様に、フードで顔を覆い隠している。体格はバラバラで、男もいれば女もいる。子供もいる。駄馬が一頭、中央を歩き、子供と荷物を載せてゆっくりと進む。陽はまだまだ高く、気温も高い。そろそろ夕方のはずだが。陽が沈めば、急に冷え込んでくる。それまでに、なんとかしてこの一帯は抜けたい。
 東へ――。
 一行は、正確に方角を掴み、東へと向かう。ここを抜ければもう、彼等の目指す――、
「あれは、人か?」
 先頭を歩く男が指差す先の、大きな岩の陰に、人間らしきものが倒れている。
「誰かっ!」
 馬に乗った子供――少女のようだ――が命を下し、二人が岩陰へ走る。その少女がリーダーなのだろう。大の大人が子供の指示に従うというのは、この国では別に珍しいことではない。平均寿命は、五十もいかないくらいであり、子供でも十歳ともなれば、大人の仲間入りをしていく。騎士階級の人間ならば、最低でも小隊規模の指揮くらい出来なければ困るし、ましてや侯爵様の御令嬢ともなれば、弐礼(にれ)などという小城の城主などで満足していてよいものだろうか。ゆくゆくは、帝国大将軍となってすべての軍隊を思うままに操る。そんな芽だって、彼女にはあったはずなのだ。とはいえ、その芽は出ずることもなく潰えてしまったのであるが。
 今の彼女の、一行のリーダーの帝国での肩書きは、もはやただの『叛乱軍残党』でしかない。帝国にその名も高き『相天侯爵家』、そんなものは、もうどこにも存在しないのだ。
「衿奈様っ、まだ息があります! 女の子のようですっ!」
 岩陰に駆け寄った男の片方が言い、衿奈は――叛乱軍残党のリーダー相天衿奈(そうてんえりな)は、馬を降りてそこへ駆け寄る。帝国からの追手の影は、周囲には見えない。
「助かるのか?」
「熱にやられただけかと。水を飲ませましたので、じきに目を覚ますでしょう」
「そうか」
 ふぅ、と息をついて、衿奈は頭部をすっぽりと覆った砂色のフードを後方へと押しやる。
 ぱさり――。
 金色に輝く美しい髪が、額にかかり。
 邪魔だというように、彼女はそれを横へと押し退けた。
 まだ慣れないな、と衿奈は思う。
 落城の際、腰まで伸ばした髪を、ばっさりと切った。逃亡の邪魔になるからだ。それでなくとも、彼女の髪は目立つ。父も兄も、彼等相天族と呼ばれる人々のほとんどが、黒に近い髪の色をしていた。相天の領袖たる侯爵家の娘が、そんなでは――そう言って兄たちは彼女を認めようとしなかった。だから、強くならねばならなかった。内瀬藤樹(ないせふじき)という女を、父は彼女の教育係とした。その女は天才肌の軍師で、衿奈に多くのことを教えてくれた。父は私に期待していたのだと、今は思う。私は、父の愛した異民族の娘に似ていたから。その母は、もうずっと前に病で亡くなった。それは、幸せなことだったのだと思う。父に愛されたまま、死ぬことができたのだから。そして、父もまた死んだ。「謀叛の志有り」と時の皇帝が判断したのだとか。馬鹿馬鹿しい。あの傀儡(にんぎょう)が、そんなことを言うものか。全ては、帝国宰相弘兼雄飛(ひろかねゆうひ)の――。ともかく、父が帝都の宮廷で斬殺され、相天家は反逆者として討伐された。本城の強固な石垣も、深い堀も、帝国軍の最新鋭の攻城砲の前には全く役に立たなかった。帝国の鉄砲隊の威力の前に、自慢の騎馬隊も粉砕された。本城の天守閣は、崩れ落ちて瓦礫と化したともいう。その戦いで兄たちも死に、私だけが逃げた。弐礼が地方の小城だったのが、よかったのかもしれない。
 仇を討つ。そのためだけに――、
 また、髪が額にかかった。うっとおしい。貴族の娘は額を隠さないという、いつからあるのかもよく解らない伝統が、この国にはある。貴族の子供は前髪を短くする。衿奈もずっとそうしてきた。逃亡中に、伸びてしまったのだ。後ろの方も少し伸びて、今は肩よりも下に毛先がきている。前髪は、もう伸ばそうか――そんなことも考えた。再起はもう、無理かもしれない。このまま、逃亡先で庶民に混じって暮らすのも、よいだろうか、と。
「――いかがいたしますか?」
 少し怪訝な表情で、家臣の矢作(やはぎ)が衿奈に訊く。もう何度も訊いているのかもしれない。
「すまない。考え事を――なにか?」
「そろそろ、陽が落ちるのではと」
 衿奈は、周囲を見渡す。西の空の低きに、大きな橙色の太陽が浮かんでいる。
「ああ、そうだな。よし、小休止! 夜営準備!」
「は、」
 小休止! 夜営準備! ――と、矢作が衿奈の命令を復唱する。彼が、この一団の副将格なのである。弐礼の落城以前から、ずっと衿奈に従ってきた譜代の家臣である。忠義に厚く、知恵も勇気もある。衿奈は、軍師の内瀬藤樹より、この男をより信頼していたフシさえある。そういえば、弐礼で藤樹とはぐれて、それ以来、衿奈は彼女に会っていない。無事だろうか。無事に決まっている。あの嫌な女が、そうそう簡単に死ぬわけがないのだ。抜け目のない女だ。下手をすれば、こちらの行く手に先回りしているかもしれない。藤樹は、そういうやつだ。
「セルーシア・エテルテアというのは、まだ子供らしいが…」
 衿奈の呟きに、矢作が応える。
「まだ十三歳で、衿奈様より四つも下であるとか」
 先日、教団の指導者であったヘスティアという女が死に、その養女が後を継いだという話を聞いた。エリアがヘスティアの許に転がり込んでから、既に八年の月日が流れている。大祭司エリアは教団の基礎を着実に固めていき、エテルテア教団の名は、帝国全土、辺境にまで鳴り響いていた。多くの人間が、その地に集まっているという。来る者拒まず――。その姿勢を貫き、彼等はどんな犯罪者をも迎え入れるという。たとえそれが、帝国に反逆者として追われるような者であったとしても――。
「ですが、実質的に教団の指揮を執っているのは、エリア・カレティアという者で」
「弐礼にいた頃の、藤樹みたいなものか」
 もっとも、あんな性悪女が指導者の団体に人は集まるまいが――などと思うのは、彼女が幼い頃からその女性の指導を、学問から武芸、礼儀作法に至るまで受けてきていたからであり、あらゆる技能に長けた優秀な人物と、城内の人間――矢作などは思い、信頼してもいた。
「なんにせよ――、」
 衿奈は、岩陰で背をもたれかけさせながら座り、少女の頭をそっとなでた。
 橙色に近い髪の長さは、自分より少し長いくらい。年は、自分よりもずっと下だろうか。
「少なくとも、この子だけは、その街に置いてこなければな」
 そう言って、優しげな微笑みを浮かべる。本当に惜しいと矢作は思う。この方が相天の当主となり、あの戦――フォーウッドとの戦で全軍の指揮を執っていたなら、どうなっていただろうか。それでも、あの戦は、勝てないと定められていたものなのだろうか――。
「う、ん…」
 彼女の膝に頭を乗せた少女が、気付いたらしい。衿奈が、その顔を覗き込む。
 ぱちり、と少女の両の眼が開く。
 ――驚いた。魔女だ。衿奈は初めて、その存在を見た。
「………ここは………あなたは…?」
 まだ、ぼうっとしたままの焦点の合わない瞳で、少女は衿奈の顔を見た。帝国で、忌み嫌われる存在。恐るべき魔術の類を操る、忌むべき存在。右の瞳が青い。左の瞳が黒い。両の瞳の色の異なる存在を、帝国では『魔女(マージ)』と呼び、忌み嫌い、怖れ、――その生命を奪ってきた。
 嫌われ者たちの都、エテルテア、か。これから向かうのは、そういう場所であるのだと衿奈は思う。エリア・カレティアは、無法者たちの、その王国の、女王なのだと。
「私は、相天衿奈。帝国皇帝に弓を引く、悪党どもの首領格よ」
 にやり、衿奈が微笑む。
 少女の透き通る水色と、深く沈む茶色の瞳が、衿奈の金色の瞳を覗き込んでいる。
「あなたの、名前は?」
「サナリ――、サナリ・テンティアット」
「サナリ、一緒に来る? いっしょに帝国、倒そっか?」
 ぼうっと衿奈の顔を見たサナリは、やがて、力強くウン、と頷いて立ち上が――
「っと」
 そのまま、また気を失って倒れた。それを衿奈が優しく受け止める。
 家臣たちが、一所懸命に夜営の準備を進めているのが見えた。
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