エリアは、旭妃(あさひ)に目付けの護衛を付けた上で、領内を自由に行動させた。彼女は、外で遊ぶことを好んだ。馬が欲しいと言えば、どこからか馬が出てきた。彼女の目付けは、父が宰相の頃に邸宅にいたメイドや執事の誰よりも優秀で、誰よりも怖かった。子供なりのいたずら心を起こして悪さでもしようものなら、死の恐怖が報復として襲ってくる。ある日、旭妃が彼女の目を盗んで民家の屋根の上から道行く人々に小さな木の実をぶつけて遊んでいると、バァンという大きな音がすぐ近くで聞こえた。びっくりして飛び上がりながら振り向くと、彼女が――旭妃の目付けで護衛役でいままででいちばんなかよしな友達の彼女が、その濛々と白煙を吐く短銃(おそらく相天式の『椿(つばき)』というやや大型で単発のもの)を構えて立っていた。
「なにすんのよ! 危ないじゃないバカァ!」
 涙目になりながら、そう言った旭妃に、彼女は、
「いきなり見えないところからなにか飛んできたら、それは危険よね」
 と、まるで表情も変えずに言う。そりゃそうだけど、と旭妃は思う。
「でも、だけど、あたしのは小さな木の実だから、」
「私のは、小さな鉄砲の弾――」
「大きさじゃないもん。…銃の方が強いもん!」
 涙目のまま、言う。負けた、と思った悔し涙も混じっているだろう。
「そうね。武器も持ってない、無防備な人間が相手ならね」
 シェルジェンナは、民家の屋根の上から、すぐ下の通りを楽しそうに友達とおしゃべりしながら歩いていく若者たちの様子を、ぼーっと見つめながらつぶやいた。
 ミーネが、自分の娘を旭妃の護衛――という名の遊び友達に推したのには理由がある。性格に問題があるのか、いっこうに友達も作らず部屋で本ばかり読んでいる彼女を心配したからだ。才能はある。それは夫もエリアも認めるところだ。それゆえに、物事が、簡単すぎる。なんであろうとやればできる。そういう一種の慢心があるのじゃないかというのが、エリアの意見。それならば、とびきりの難しい任務を与えてあげましょう――ということで、いろいろ教団の仕事をやらせてはみたが、いつものつまらなそうな表情で、実際は必死だったのかもしれないが、すべてを最低限の労力で無難にこなしてしまった。よぉし、それならっ! というわけで今回の任務。皇族様のご機嫌を損なわぬように、相手をしておあげなさい――。
「えい、スキありっ!」
 ぽかん、と旭妃の小さな手が、シェルジェンナの後頭部を殴りつけた。
「――いたいし」
 のろのろとした動作で、シェルが振り向く。
「武器も持ってない相手―っ!」
 どーだ参ったか、というように、腰に手を当てた旭妃が「あははっ」と笑った。ぴょんと、短めのポニーテールが跳ね上がって、楽しそうに揺れている。子供らしい可愛さに満ちている。それを見て、僅かに目を細めたシェルは、
「憶えてなさいよね。私は、藤樹以上に執念深いのよ…」
 どこかで、くしゃみの音が聞こえた――かどうかは、定かではない。
 実際問題、シェルはこの状況を愉しんでいた。なにをしでかすか解らない。あぶなっかしくて目が離せない。今だって、ちょっと目を離した隙に、これだ。しかし、この弘兼旭妃という落ちぶれた皇族の娘は、すごい。身のこなしの優雅さは、さすが皇族というところか。ぎゃあぎゃあとうるさく走りまわっているように見えて、無駄がない。シェルは無駄が嫌いだ。無駄だからだ。無駄があると、よけい疲れる。面倒くさい。実のところ、身体はそれほど優秀ではないと思う。疲れやすい体質なのかもしれない。じっとしてるのが一番。誰かがやってくれることなら任せておけばいいし、今はエリアもミーネもいる。もし、自分よりも先に彼等が死ぬことになれば、その時、誰もこの教団を支える人間がいなければ、自分が――そう思っている。セルーシアは、実務を離れたところにいるべきだと思う。三公が、ソブルという物言わぬ人形のような皇帝を立てて、それをさも神懸かった存在であるかの如く見せようとした。失敗したのは、他の皇族が生きていたから。少しでも資格のある――危険な存在は、予め消しておく。それが最も無駄のない良い世界をつくる方法である。しかし、世界は広い。ドレイスンの娘の言うように、それこそ永遠を手に入れるか、あるいは、世界から隔絶する。ヘスティアの後をセルーシアが継げば、ここはそうした小さな閉じた世界で終わっていたはずである。エリアは、世界を開いてしまった。帝国の一員として、エテルテアを彼等に認めさせてしまった。どちらが正しいのか、それはわからない。今もなお、帝国では貧しい人々が苦しい生活を送っている。それを救うのは、ヘスティアの遺志に沿うものである。エリアは間違ってはいない。
 ちらり――旭妃を見る。面白いものを見つけたのか、熱心に一箇所を見つめている。
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