帝国暦六〇五年に、教団は、前(さき)の帝国宰相皇族弘兼雄飛(ひろかねゆうひ)を自領内に迎えている。表向きは、一向にレイムルを帝都から駆逐できないフォーウッドを弘兼が見限ったということになってはいたが、実際には、フォーウッドが彼を既に「用無し」と見なしたということだろう。事実、当時の彼には「頭脳明晰、容姿端麗」ともてはやされた往時の面影などはまるでなく、人生に疲れ果てた哀れな男でしかなかった。聞くところによれば、酒と女に溺れる毎日であるという。その彼に父親を殺され、恨みつらなる衿奈の前で「綺麗な髪だ。瞳も美しい。いずれ私の後宮に収めてあげよう」などと言いやがった時には、まずいですよ、これ――と心配するミーネら幹部たちの前で「養生なされませ」と優しく微笑む衿奈の姿に、皆一様に安堵したものである。(後に藤樹の前で「殺す価値もないクズに成り下がった」と言ったとか言わなかったとか…)もっとも、このまま放っておいても近いうちに死ぬだろうとは思われたが。魔女であるサナリなどから見ても、死相がありありと出ていて、ああ、だからフォーウッドはこいつを捨てたんだろうな、――と。内心では、教団内のほとんどの人間が、そう思っている様子であった。
 弘兼雄飛には、娘が一人いた。旭妃(あさひ)という。後世、帝国史上屈指の名君と呼ばれ、その治世は帝国の最盛期ともいわれる女性も、今はまだ、九歳の幼き少女にすぎない。帝国史上最強といわれる皇帝はレイムル・ロフトであったが、彼女の才もまた、それに迫るものがあった。といっても、彼女が頭角を現すのはレイムル死後のことであり、実際に剣を交えたこともないから、そこにどれほどの差があったのかはわからないが。エリアを始め多くの知識人と、衿奈やフィリアといった優れた戦術家の集うこのエテルテアでの数年は、成長期にある彼女にとってとても重要な時期であったことは間違いない。これこそ、神のお導きか。あるいは悪魔の――教団に好意的な、変わり者の、あの悪魔のささやきでもあったのか。その、後の名君の片鱗はエリアなどもまた感じるところであり、教団にとっても雄飛などはオマケでしかなかったのではなかろうか。大きな邸宅を与え、世話をするメイドなども苦労して集めたりと、それなりの処遇はしたものの、教団は、彼を政治の場にはいっさい参加させなかったという。エリア曰く、「この街の政治は、宗教でありますから」――それが、表向きの理由である。
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