| とりあえず、ヴァストから一丁手に入れた。これを量産して、戦力に――するには、施設がない。夜魔族が馬鹿だと言う気はない。ミツネの側近ともなれば、エリアやリデールとまではいかないとしても、この街の行政官僚くらいの能力はある。もっと近代化が進めば、それ以上にもなれる。長生きできるのは強い。所詮、人は死んだらそれまでだ。後を継ぐ者が、自分よりも優れていればいいが。エリアの死後、それを継げる者がこの教団にいるかと言えば―― 夜の闇の中で、ユーナはそんなことを考えている。 眼下に広がるエテルテアの街並みは、暗く、静か。 ユーナは、大聖堂の尖塔に登ってみた。高い――天に近い場所だ。 円状に広がるバルコニーの手すりに両腕を預けてもたれ掛かりながら、天を見上げる。 空に月――。 大きく大きく満ちた月(フルムーン)。 まあるい月と、星々の瞬き。手を伸ばせば、届くだろうか。掴めるだろうか。 自分は、あの天へは昇れない。それだけは間違いない。 醜い悪魔には、地の底が似合う。 ユーナの白く美しい顔を、青白く照らし出す、弱々しいその光が――。 月の光は、狂気を導く。そんな話もある。 狂いましょう。もっと、もっと。もっと私に、月の光をっ!! 「はぁ…」 雲が流れて、月の輪郭を不明瞭なものにした。光が弱くなる。 「帰ろう、かな」 振り返って、教団本部内に与えられた部屋に戻ろうとした。気付かなかった。 「――なにか用?」 螺旋階段の手前、開けたままの扉の前に、少女が立っていた。 教団導主、セルーシア・エテルテア。 彼女は、気配もなく、そこに立っている。まるで、そこに在るのが当然であるかのように。ユーナよりわずかに年下で、かなり小さな、やせっぱちの少女。天使と呼ばれる少女。 「もしかして、ここから、天に昇るおつもり?」 皮肉。残念ながら、その背に天使のツバサは見えない。 「あなたも?」 少しだけ首を傾げた、少女が微笑む。本気か、とユーナは思う。 こいつは、本気で、天に昇ろうというのか。 「遠慮しとくわ。黒き翼は、風に嫌われ、地上へ墜ちるに決まってるもの」 セルーシアは答えず、するすると滑るように歩き出す。ユーナの横をすぅーと抜けて、縁の手すりに手をかけて、遥か眼下の街並みを見下ろした。そして、 「良い街でしょう?」 そう訊いた。 「そうね」 振り向きもせずに、ユーナは答えた。セルーシアは言葉を続ける。 「一族の悲しみを、――その重しを、すべて背負おうというのですか?」 「そんなつもりはないわ。ただ、」 さあー、と雲が流れて、大きな円い月が再び、夜の空に青白いその姿を現した。 月は、ユーナを見ている。その頬を、自身の顔と同じ、青白い光に染めた。 「この国のすべてを呪うことが、できたらと思う。狂ってしまった機械(カラクリ)人形のように――」 「ユーナ・ドレイスン」 彼女にしては、強い口調。振り返ったセルーシアが、ユーナの後姿を見つめている。 その声に導かれるように、ユーナは振り返る。目と目が合う。 「私は教団の力を使い、この国を支配しましょう。この国の神として、永遠に、このマルザスという国の、支配者となりましょう。あなたに、永遠はもったいない」 彼女の銀色の瞳をじっと見詰めたまま、セルーシアが言い、 「そう――」 ユーナは薄く目を閉じて、その視線を逸らせた。 「貴方は、この国のすべてを、その腕(かいな)のなかに包もうというのね。欲張りなこと。だったら、私は貴方一人を呪うことで、すべてこと足りる。――そういうことかしら?」 「随分と、楽になれたでしょう?」 セルーシアは、穏やかに微笑む。気に入らない奴だ、とユーナは思う。 「我が一族の、ドレイスンの血の重さは、」 「大丈夫――」 「――ッ!?」 バサリ、と翼がはためいた。セルーシアの背に、白く、優しく穏やかに、静かな夜の満ちた月の光を浴びて、神秘的な光に彩られた、大きな、ツバサが―― ユーナには、見えた気がした。 幻覚なのだと思う。そんなものは、あるわけがない。人間には。だけど――、 一人くらい、そんな人間がいてもいい。 それは、私じゃない。呪われた、醜い人間である、ユーナ・ドレイスンなどではなく。 「私には、天使には、空の彼方へとヒトの魂を届けるための、翼がありますから」 どんな生命にも、優しく微笑むことのできる、この少女が。 セルーシア・エテルテアは、天使なのだ。 天使の分際で、神を騙る、不届きな人間。彼女ならば―― 「光の女神(ディウリュミエール)アリシナリアは、手強い存在よ?」 この国の、特権階級たちを守る、その長槍を携えた――この国の女神。 セルーシアが神になるということは、彼女を打ち倒すということでもある。 「大丈夫――」 すぅ、と彼女はユーナの額の前に、重ねた両手をかざした。そっと目を閉じる。 洗礼の儀式。大聖堂で行われた儀式を、ユーナは見ていた。 ユーナは、それを払いのけようとして、手を伸ばした。小さな彼女の、その手を掴む。 穏やかに、セルーシアは言う。 「私には、セルーシア・エテルテアには、教団も、ヒトも、動物も鳥も花も、風や土の――この国のすべてが味方をしてくれます。そして、光の女神(このくに)に仇なす悪魔でさえも」 ――まあ、いいか。 ユーナは、思い直して掴んだ彼女の手を離した。自身の手を下へ降ろす。目を閉じる。 自分は、帝国に仇為す悪魔の代表として――、 「誓約を」 「汝を、我が盟友と認めましょう。ユーナ・ドレイスン」 大聖堂の、教団の儀式とは、少し違う。「我がエテルテアの信徒と認めましょう」――と、教団の儀式ではそういう言い方をする。それはつまり、個人的にセルーシアがユーナを認めたということなのだ。エテルテアは、夜魔族との同盟には応じないが、導主は、ユーナ個人と盟を結ぶ。エリアの差し金かどうかはともかく、ユーナにとっては意味のあることだった。教団は、いついかなる時であろうとユーナ・ドレイスンに味方します。――そういうことなのだと思う。 「後悔、しないことね」 ユーナは、再びセルーシアから目を逸らした。ドレイスンの血を絶やす――その目的は、失ったわけではないのだから。天使に返り咲いた悪魔など、どこの世界にも存在するわけが――ないのだから。 「お待ちしていますよ、いつまでも――」 ひどく大人っぽい顔で、セルーシアは微笑んだ。 自分は、小さい人間だ。改めてユーナはそう思う。心は、貧しくなっていくばかりだ。 「永遠の時の果てで、いつまでも待っていてもらいましょう」 フン、と鼻を鳴らして、長い長い螺旋階段を降っていく。この下には、冥府がある。悪魔の住まうべき暗い地の底。色とりどりの花も咲かない、闇の世界。足が止まる。わたしは―― 大きく首を横に振った。 振り向いたら、セルーシアがいるに違いない。 優しい笑みを、浮かべているに違いない。 おかえりなさい――と、そう言うのに違いない。 振り向いたりするものか! わたしは、私は、 「やるといったら、やるんだから…」 あの日から、少しも大きくなっていない心で、そう呟いた。 みんな殺してやる――私は、悪魔になると、あの時に決めたんだから。 パパがだいすきだったおじさんにころされた、あの日あの時に。 母が病に倒れた、その日からずっと―― 六年、そのことばかり考えてきた。 そんな、小さくて弱くて醜くて情けない最低の人間なのに。 「っぐすっ…」 早く、部屋に帰ろう。誰にも見つからないように。 こんなところに来たのが、間違いだったんだ。 明日は、もう出ていこう。そうだ、フォーウッドのとこにもいこう。 同じ貴族だもの。きっと話も合うに違いない。 もう天使だの悪魔だの、わけのわからない話なんてしなくてもいい。 ただ、一緒に帝国を倒しましょうと、そう言うだけで話は通じる。 うん、そうしよう――。 バタン、と扉を閉めた。ベッドに倒れ込んだ。とてもいい匂いがした。真っ白なシーツを、知らない間に誰かが取り替えていてくれるのが、嬉しい。子供の頃は、そうだったのに。今は――なんでも一人。いつでも一人。執事のじいやも、小うるさい教育係も、かしづいてくれるメイドたちも、誰もいない。みすぼらしい建物の、小さな家。質素で剛健な、夜魔族の邸宅。それが、今の私の住まい。 「あったかい…ありがとう」 枕が、涙で濡れた。大丈夫。優しいこの部屋の主は、黙っていてくれる。この街の人たちは。いつか、きっと、再び私が戻ってきた時。そんな時が、あるのだとしたら、きっと―― 窓から差し込む月の光が、穏やかな彼女の寝顔を、優しく照らしていた。 ユーナ・ドレイスンは、朝には、エテルテアの街から忽然と姿を消していたという。 |
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