「エリア・カレティアと申します」
 まるで男の子のように、後ろ髪を短く切った少女が、深深と頭を下げた。笑えば、さぞや可愛らしいのではと思えるその少女は、たいそう沈んだ表情をしていた。疲れているのだろうとヘスティアは思う。帝都から、こんな辺境まで一人で来たというのだ。その沈みがちな表情の彼女は、よくよく聞けば、自分より五年ほど歳も若いだけで、見た目よりは随分と大人であるらしかった。なるほど、話せば話すほど、彼女が聡明な人間だというのがわかる。
 そこで、ヘスティアは、ようやくその名前を思い出すのだ。
 ――帝都の、エリア・カレティア?
 そうだ。そういえばそんな名前だった。エテルテアは辺境すぎたのだ。中央との連絡など、もはやないに等しい。本当は、名前を聞いてすぐに、気付かなければいけないことだったのだ。帝都マルザスの帝国宰相の下に、次代の宰相の器といわれる叡明な少女がいる――その話は遠く辺境までも届いていた。彼女がいれば、帝国の財政は百年は安泰であると、皇帝ルシフォルに言わせしめた逸材。エリア・カレティアが、まさかこんな幼い顔立ちの少女だとは、思ってもみなかった。目の前の、十七歳の少女こそが、あの、
 しかし――、
「貴方ほどの者が、なぜこのような、」
 貧しい最果ての共同体へ?
 ヘスティアには、自身の活動が宗教であるという考えはない。あくまでも、助け合いのコミュニティなのだ、ここは。持つ者から、持たざる者へ。そうして、一人でも多くの人間を苦しみから救うのが彼女の活動であり、領内の人々にもそう奨めてきた。そう思っているのはもはや彼女だけで、領民たちのそれは、既に信仰と呼ぶべきものではあるが。それでも、自身が神になろうなどというのは、不届きな畏れ多いことだと、彼女は――ヘスティアは考える。彼等が信仰心というものを持つのならば、それは、個の人間に対してではなく、例えば、生きる力。大地の恵みや、大気の恵み、水や光の恩恵に――。そうしたものでなければ、ならないと思う。そうであって、欲しいと思う。どのみち、自分はもう、そう長くは生きられないのだから。
 もともと身体は丈夫な方ではなかった。子供だって、産めないと思っていた。だから、結婚もしなかったし、さして優秀でも名家でもないエテルテアの名前などは、自分の代で終わればよいのだと、そう思ってもいた。だからこそ、このちっぽけな貴族の館のすべてを投げうってでも、せめて、最後だけは、なにか人の為になることをしたかった。
「帝都には、もうこれ以上は、いられません。嫌なのです。争いが…」
 俯いたままの姿勢で、エリアは言う。
「ルシフォル陛下が崩御され、再び宮廷は荒れています。藤原様――宰相閣下も病に倒れ、皇族や大諸侯たちは、次の政権を睨んで一触即発。何が起きても不思議ではありません。私は、そんな醜い争いだけは、したくなかった。だから、ここへ――中央の手の届かない辺境へと逃げてきたのです。弱虫と、笑って下さっても結構です。無理に、とも言いません。贅沢な暮らしも望みません。ただ、平穏な暮らしを、私に分け与えては下さいませんでしょうか?」
 エリアは、顔を上げた。優しい微笑みが、そこにあった。だから、
 エリアは、精一杯の笑みで、それに応えた。
 とても可愛らしい、笑顔であった。ヘスティアは、考える――。
 この子は、とても純粋なのだろう。自分などよりも、よほど。もし人が、他人の信仰を集めることが許されるのなら、それは彼女のような人間ではないか。自分が死んだら――。その時は、私が今まで養ってきた孤児たちを、彼女に任せてもいいだろうか。彼女なら、この子にならば、全てを任せても。この館の周りに集まる恵まれない人々の未来を、任せてもよいのだろうか。彼等に、もっと幸せを。裕福な暮らしを。この頭の良い娘ならば、与えられるのではないか。このエテルテアを、地上の楽園に――。そんなことを考える自分は、純粋で綺麗な人間などではないのだろうと、誰よりも純粋なヘスティアという女性は考えるのだ。
「この地を、もっと豊かにするには、どうしたらよいのでしょう?」
 その彼女の問いには、エリアはこう答える。
「土が痩せているようなので、今のままでは良い作物も育ちません。品種改良を進めましょう。それと、よい肥料を。帝都から技師を…来てくれればよいのですが。私がわずかに見た限りでは、耕地面積も狭い。西部は岩の多い地形のはずですが、あの辺りは、この辺りと比べても土そのものは悪くはないはずなのです。開拓を進められれば、そうですね。不規則な降水による水の問題も、灌漑を整えて…。少々、大規模な事業になるかもしれませんが、」
 エリアは、ヘスティアの怪訝な表情にようやく気付いた。
「あの、なにか?」
「い、いえ…」
 ヘスティアは、驚いている。彼女の言うことなど、ほとんどチンプンカンプンで理解できなかった。同時に、中央の政治家は凄い――と感心する。場違いも甚だしい。ろくな教養もない自分などが、話などしてはいけない相手なのかもしれない。
「エテルテアは、辺境で、貧しくて、その…」
 言い難そうに、もじもじと身をよじるようにするヘスティアに、
「資金のことは、心配ありません」
 今度こそ、本当の彼女の笑顔を、ヘスティアは見た気がする。
 いたずらっぽい笑みを浮かべて、彼女は――、
「私の荷物、まだ馬車の中なのですが、そこに、」
「そこに?」
 エリア・カレティアは、にっこりと笑いながら、こう言った。
「持参金を用意致しました。国の金庫から、ちょっとだけ……でも充分なくらいっ!」
「それは、また…」
 犯罪じゃないだろうか。
「だから、私はもう、帝都には戻れませんっ」
 そうして、
 エリア・カレティアが、小さなエテルテア教団の祭司の一人となり、その後、教団の全てを統括する『大祭司(ハイプリエステス)』の地位に就くまでに、そう時間は掛からなかったはずである。
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