200/~3・ひかりのなかへ

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2005/1/1(土):朝

天気予報がぴたりと的中の大晦日。真っ白な年越しになった。真夜中の道をてくてく歩いて初詣。深夜なのに年越しの夜はなんだか熱っぽい。遠くから除夜の鐘の音が響いてくる。それにしても切れ味鋭い風の中、背骨の芯まで凍り付きそうだ。えーいと粉雪をけっとばして笑いながら歩く。ふと見上げたら空に輝く星…星…星…星…そしてにっこり笑ってるお月様。そうだ、ひと眠りして初日の出を見に行こう…。

私のランニングコースは赤城の麓ゆえ起伏が多い。夜明け前から走り出すと、丘の頂にさしかかったとき、ちょうど東の地平から昇る朝日をあびるポイントがある。そうだ、あの場所がいいな、きっと遠くの空まで見渡せる。

初詣の夜更かしが効いて朝寝坊してしまった。1月1日6時20分。昨夜の寒気が背中のはじっこに残ってるような朝。タイツとジャージ、フリースとセーターとウインドブレーカースーツ。その上に皮のコートまで着込んでマフラーをグルグル巻いた。完璧!トレッキングシュ−ズを履いてさくさくと雪の上を歩いた。もう東の空はほのかにあかい。いそがなきゃあ!
思いがけず元日マラソンになった。でも今日はまるまると着込んで思うように走れない。あっという間に汗だくになった。ようやく坂の麓まで辿り着いたら右の頬に静かに揺らぐ炎が広がるのを感じた。うわあ!きれい!

陽光の錬金術。空も雲も溶かされ発光している。慌ててポケットを探ってカメラを取り出した。ため息をついてシャッターを切って息を深く吸いこんだ。きたのそらにしのそらみなみのそら…ぐるっとみわたすと雪雲にふたをされた榛名とさくら色に染まった妙義の山肌と遠くのアルプスとが響きあって輝いている。その大地に見事なまでに真っ白な雪。影は蒼く、日向はうすく紅色に化粧して、特別な朝を待っている。もう一度深呼吸してアングルを探す。よし、あの丘の頂上まで走ろう!

しばらく言葉を無くして見つめていた。握りしめていたカメラとケイタイと一緒に両手をポケットにしまい込んでふうっといきを吐きながら静かに昇る陽を見ていた。たなびく雲を金の焚き木にしながらまた強く輝いて無音の交響楽を奏でる陽のひかり。
色んな事を考えた。沢山の思いが次々によぎっていって困った。

ゆっくり帰りながらふと悪事を思いついた。そうだ。ケイタイに撮った写真を何人かの友達に転送。みんなまだ寝てるんだろうな。くすくすと笑いがこみ上げてきた。今年一番の初迷惑メールだ。えーい。でもきっと、みんな気付きもせずに熟睡してるんだろう。

帰宅後、我が家の最長老、ラッキーさんと散歩。
犬は喜び庭駆け回るなんて誰が決めたのさ?歩きにくいんだよ、まったくもう。
私の足跡と車の轍を選んでひょこ、ひょこ、と歩くラッキーばあさんであった。おばあちゃん、がんばって!と応援しながらの初散歩。


2005/1/26(水):子どもの心を変えるとき

 今日はバスに乗っての移動音楽教室。文化会館の大ホールにオーケストラなんか聴きにいっちゃって、よい子の姿勢を強要されていた子どもたち。うちのクラスの元気者たちに、この2時間はキツイかなあ?という担任の予想は大当たり。帰りのバスの中での落ち着きのなさといったらもう、おいおい、どこのガキどもだ?担任のしつけがなってねえなあ、全く…と、まさにそんなカンジ。どうでもいいけど、何であの子たち、あんなに下品なのかなあ。いつも人をバカにすることや、何かを中傷することで楽しんでいる。かつてよりその傾向はだいぶ減ってきたけれど、根っこの所はなかなか変えられない。何がいけないのかなあ……そんなことを考えながら、時々バスの後部座席を振り返って注意しながら学校へ戻る。何しろこういうくだらないことに使う意識が一番疲れる。
教室に戻ると、ようやく自由に声を出せる喜びに充ち満ちた子どもたち。すぐ隣の友達と話すにも、全力で叫びあってる。ああああああああ。…こりゃあ、午後の授業はちょっと予定変更して体を動かそうかなあ…。

 というわけで6時間目はみんなで長縄をすることに。初め、「えー…」と乗り気じゃあなかった子どもたちだが、始めてみるとさすがの元気者たち。ぴょいぴょいと続けて跳べる子がたくさん。でも、苦手な子はやっぱり2、3人いた。長縄って、失敗すると、ぶっとい縄がびし〜っ!と当たって痛いんだよね。だから、どうしても苦手な子って入るタイミングをいつまでも躊躇しながら、上に下に回る縄を一生懸命追いながら首を上下に振りつつもじもじしてる。見ていて切なくなる。みんなが見つめている中で、入りたいのに入れない、そのつらい気持ちは、とってもよくわかる。

「はやく入ってよー!」
「なにやってるん!はやく入りなよ!」
「ばかじゃねーの、あの首(大げさに上下に振る真似)」
ああ、やっぱり。「こいつららしい」リアクションが即座に飛び交う。

「あーあ、へったくそだなあ!」
わざと、大声で、叫んでやった。
「応援、ヘタ!さいてーの仲間だね、こんなに応援のへたくそなクラス、見たことない!」
一気に子どもたちがシーンとなった。
「それじゃあ、みんな長縄が嫌いになったって無理ないよ。苦手な人に『はやく』って言って早くなるんなら超簡単でしょ?それは絶対ダメ!『はやく』は一番良くない言葉だよ」
と、続けた。今まさに入ろうとしてうまくいかないでいた女の子がホッとした顔になった。

「せ〜の」「いちに〜の、さん!」
もじもじクンの後ろに回って両肩をつかみ、タイミングを合わせて揺らしながらほいっ、と縄の中に押し出してやった。すると、ひょこひょこっと入っていってまぐれのように、ぴょん、と跳んじゃった。
「なーんだ、とべるんじゃない、うまいうまい!」
おおげさに褒めてやったら、にっと笑って照れつつ嬉しそう。
「がんばれー」
素直な子どもたちから励ましの声がかかるようになった。一人一人、苦手な子の後ろに回って押し出しながら跳んでいったら、何のことはない、入れない子なんか一気にいなくなっちゃった。あれ?うまくいきすぎじゃあないか?連続で跳ぶのは無理でも、少し間を開ければ、ちゃんとみんな入って跳べるということが分かった。ヤジが消えたとたん、スムーズに縄が回り続け、子どもたちの表情がやわらかくなった。長縄だからとはじめから時間内に何回跳べるかの競争をして、苦手な子を追い込むのでなく、みんなが続けて楽しく跳べるように声がけしながら跳んだら、ただそれだけで楽しくて、子どもたちのほっぺは紅く、笑い声が絶えなくなった。
次に2本の縄をつないで長い縄に何人が入って跳べるかチャレンジ。一人縄の中に入るごとに、私が縄を持って、回すリズムに合わせて「せーぇの、ひーとり!…ふーたり!」と声をかけていくとやがて待っている子たちがみんな声をそろえて数を数え始めた。縄の中の人数が増え、引っかかってしまうと、うわぁ〜!きゃぁ〜!と大歓声。ふふふ。これはエキサイト☆続けているうちに誰かが不意に「ひーとり」と数える代わりに、次に入る順番になっていた子の名前を呼んで
「ka-naちゃん!」
とタイミング良く声をかけた。お?なんか面白い展開。そうしたら、一気にみんなの気持ちが一つになって、次々と跳ぶ子の名前を呼び出した。
「a-chan!…te-chan!…ka-ririn!…」
縄の回るリズムに合わせて、ひとり、またひとりと縄にとび込んでくる子のタイミングで名前を全員が叫んる。わあ、こりゃあ、タノシウレシイゾ!

最後は私が縄を回してぴょんと跳んだ子から教室に帰って行った。跳び終わって玄関に走り込む子の楽しそうなこと!
そして、あれ?途中で気付いた。だんだん人数が減って行くのに、名前を呼ぶ声の大きさが変わらない。ん?校庭の人数は着々と減っているのに…。あれえ?と目を走らせると、何と、2階の教室の窓からぎっしりと子どもたちの顔。そこから大声で、一人一人の名を叫んでいたのだった。へーえ…。仲間ってすごいや。

良くも悪くも、集団の意味を考えさせられた一日だった。子どもたちは素直な心の花園をまだいっぱい持っているから、やわらかく耕して、いい芽を育てて、病んだ葉はうまく摘み取り、美しい花を咲かせてやりたい。そう思った。


2005/2/25(金):明日はまたひかりのなかへ

明日、久しぶりの合唱舞台に立つ。先週から耳鼻科に行って治療を続けているのだが、どうやら、声帯の下から肺の入口までの気管に炎症を起こしているらしい。医師がカメラ映像を見せてくれたのだが、真っ赤に腫れあがった粘膜と、そこここに白い膿のような丸い塊や黒ずんだクレーターのようなでこぼこがある。なんだこれ?これが私の体の中?何でこんなことになったのやら。
何かの感染症でしょう、体力が低下していたり、ストレスにより抵抗力が落ちたときにまれにこんな症状が見られます。と、医師が言う。長く続くようなら咽頭癌の可能性もあるが、専門の機関で検査してみなければ分からない、まあ、そんなことはないと思うけれど、とのこと。やれやれ、また面倒なことにならなきゃあいいのだけれど。
とりあえず、毎晩39℃近くまで上昇してしまうこの熱のせいで、体全体の消耗が激しいのが辛いところだが、仕事に行けることと、何しろ、声を出せることが何より大事。他はどうだっていいからとにかく、がっこにいきたい。歌が歌いたい。
そんなわけで、ずっとまたも薬漬けな日々だった。

さてさて、ノドは万全とは行かないが、声はまあなんとか出るようになってきたし、あとはせっかく学先生に教えていただいて多少は上達したかに思えるワザをいかして、なんとかかんとか舞台をつとめあげてみようと思う。絶好調!といえないところが悔しいけれど。

さて!3曲のソロパート、がんばるぞ!象つかいのけなげな娘と、子どもたちを見守る母なる歌声を演じ切って見せましょう♪さあ、ごらんあれ、だね。


2005/2/26(土):ひかりの中で

うたえた。ホッとした。なんとか、やりおおせた。そんなカンジ。

話す声はがらがらの濁声。でも、歌うときのノドの使い方はきっと違うんだね。まあ、問題なく声は出た。ただ、奥の方で絶えずちりちりと雑音が混じっているのが私にははっきりとわかるので、耳のいい学先生には聞こえていただろうな。それはもうどうにも消えなかった。
リハの出番で上手から入る。バミってある位置まで歌いながら入って客席の方へ身を翻す。戦争中、苦楽をともにした象を動物園へ売らないで、と哀願するサーカスの娘。スポットライトが真正面から私を照らして、客席は一気に消えてしまった。そう。この光が魔法なんだ。実感した。
私の眼前に広がる光の中には、くっきりとサーカス団の一室が見える。団長の前へ、意を決して嘆願に行くまだ幼さの残る娘。いまの私にはわりとコワイモノなんかないけれど、その時代の小娘が、自分の仕事の最も上の権威者に直談判に行くのだから、相当な決意と不安があるのだろう。緊張と刹那にあふれる衝動と。そんな思いが胸一杯に瞬時に広がってくる。何も演技なんかしていない。自然に歌に想いがこもってしまう。でも、押しつけすぎないように、歌として形あるものになるようにコントロールしたい、という想いも同時に働く。光の中に広がるサーカスの舞台。観客の拍手。歓声。あふれる喜びと身を殺がれるような苦しみと。…すてきな歌だなって思う。こんなすてきな歌を何百人もの人たちの前でひとりで歌っていいなんて、ゼイタク!

途中、咳き込みそうになってしまったのでみんなに聞かれないように舞台からおりて薬を飲んだ。リハーサルはつつがなく終えて休憩。ロビーでごはんを食べながら知ったのだけれど、今日は体調の悪い人がゴロゴロいるようだ。B型インフルエンザにかかっているって言う人がどのパートにも数人いる。声が出ない、声が出ない、みんな口々にぼやいている。私も毎日せっせとミューズで手洗い、イソジンでうがいっ!て、頑張ってたのにこれだもんなあ。びょーきってつよいのね。悔しいけど。

楽屋で衣装に着替えて控え室でマスクをして、ゆっくりハミングで発声練習。神様に祈るような気持ちだった。どうか最後まで声が出続けますように。
そして、本番。楽屋から舞台裏への小さなドアをくぐるあの瞬間が私は大好き。さあ、歌おう!
緊張は全くしない。いつものようにその瞬間を思い切り味わって楽しんで本番は終わった。照明の関係からか、今回は観客席の顔がすごくよく見えた。前から5列目の中央にすわってたキミが途中から泣いてたのも見えたんだ。中段中央で職場の友人がニコニコしながらこちらを見ていたのも。最後部まではさすがに見えなかったけど、満席の大ホールのお客さん、一人一人に届くように、心を込めて歌った。ここに来てくれたあなたの心に、しっかり届けたくて。

終演後、ロビーで見送り。来てくれた友達にありがとうのあいさつ。嬉しかったのは沢山の知らない人から、素敵でしたよ、いい声ねえ、いい舞台をありがとう。って声をかけて貰ったこと。今回はわりとはっきりと目立つ場面が多かったからそんなふうに声をいただけたんだろうな。いやあ、本当に、このぉ、シアワセものぉ。

あまりの怠さに打ち上げはパス。帰宅してベッドに直行。やっぱり熱があったけど心が熱いのは病気のせいじゃないよ。ありがとうひかり。なかまたち。


2005/3/4(金):子どもたちの感性に哀悼の意を表します

この学校に赴任してもうじき1年になる。あとは卒業式を迎えれば、ひととおり本校の行事を体験し尽くすことになる。来年度は、今年感じた疑問を自分なりに解消しながら過ごす一年になるのだろうな。まわりとの軋轢を起こさずに、少しずつ学校の方向を変えていきたい。もちろん、私の力なんかたかが知れてる。だから、大変革はできないけれど、小さなことから提案して、より質のいい教育の場に身を置きたいモノだ。
例えば、今日、6年生を送る会という行事があった。私はここへ転任してきて、何度か「気持ち悪いとこだなあ」と感じたことがある。それは、子どもをバカにしたような、鼻につく「低俗さ」を感じ取ったとき。
「くだらない」という言葉で言い切ってもいいんだけど、それじゃああんまりにも失礼だ。とはいえ、正直言って、今日のいくつかの学年の取り組みは心底「くだらない」と思った。不思議なのは、他の教師はこの「低俗さ」を全く感じていないかに見えるところ。「ウケ」と「色物」に頼った演出と、底の浅い表現力。なんだか、出来損ないの「イタイ」新人お笑い芸人の地方巡業を見たような感じ。こんなことに、貴重な授業時間をさいて練習を重ねさせられてきた子どもたちが哀れだ。せっかくの舞台に向かって、あんな下世話な出し物を一生懸命練習させて、子どもにどんな力がつくというのか?あくまで、「授業時間」なのに。途中から、吐き気がしてきた。もしも、その舞台ににいるのが自分の息子だったら、怒りすら感じたろう。そして困ったことは、そんなことを感じているのは、おそらく私だけだろうということだ。
「残念!」とか「何見てんのよ!」とかカワイイ子どもたちに叫ばせてゲラゲラ笑ってる大人たちの気が知れない。それを見て満足げな担任の顔も、コワイ。「地図が読めないとです…」に最大の山場がある「6年間の思い出」?ニュースキャスターのサムイ掛け合い漫才にきゃははと笑う子どもたちは、肝心な映像部分の音声が聞き取れなくても気にも留めない。本題の内容には全然興味が持てないから。
別に、お笑いが悪いなんて思わない。お笑いブームが起こっていることにも何の意見もない。フツーに私も笑って見るし、嫌いじゃない。で・も・せっかく1ヶ月も前から子どもたちの貴重な学習時間を使って、子どもたちの感性を豊かにしたり、高めたりすることに取り組めるチャンスを放棄してまで、熱心に芸人修行をさせるのは、どうか?ってことだ。ウケねらいの術なんて、安物雑誌でも民放番組でも垂れ流しにしてるじゃあないか?それをわざわざ学校で教える必要がどこにある?学校教育の価値って何だ?

この一年、この学校の子どもたち全体から感じていた特異な雰囲気…友達の失敗を笑い、あげあしを取り、仲間意識の低い雰囲気も、これなら納得かも。
そんなことに2時間以上も費やした今日の「送る会」。疲れた。

きっと、そんな疑問を感じる私の方がおかしいって、思われちゃうんだろうけどね。たぶん。