200/~8・やれることはぜんぶやってみた

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2004/9/4(土・朝に):六合村ゆき

私と六合村って特別な関係ではないのに、なぜかあんな遠いとこまで何度も足を運んでる。

昨夜は遅くまで学校で残業。夏休み明けは図工作品のコンクール出品作品の搬入手続きと、開催時期が年々早まってる運動会準備にバタバタと動き回ってる。毎日時間があっという間に過ぎていく。驚きだ。
「え!?もうこんな時間?」
時計を見ると大抵午後8時近い。職員室にはいつもの居残り常連組がいて、お互い、「今学期こそはこのメンツから抜け出してやるぅ!!」なんて言いながら、結局いつも9時過ぎまで帰れない人たち。やれやれ。
運動会の表現種目で、リズム構成「オンチャと三コ」に取り組むことになった。創るときに関わっていない作品なので戴いた資料ビデオを見ながらの取り組みとなってしまったのだけれど、実際、何を表現したいのか理解できない動きがたくさん。これは、自分で創るしかないな、と思った。高学年の子ども向けの作品しか作ったことのない私にとって、中学年の子どもたちのよさを生かす動きがどんなものなのか、中学年の子どもにとってリズム構成がどんな風に感じ取れるものなのか、今ひとつつかめない。動きが複雑すぎてついて来れないだろうか、また、単純すぎてつまらないものになってしまわないだろうか、と、思いがあっちこっち行き来しながらの動きづくり。ただ、一つわかったのは、こうやってビデオだけを見ながら取り組むときに、私に何だかわからない動きというのは、観客にもそれ以上にワケのわからない動きになっているということだ。やはり、表現は見る者に伝わってこそ意味があるのだから、はっきりしないところや冗長に感じられる部分は、どんどんカットしたり、つくり替えたりして行かなくてはと思う。………そして帰宅時間が一層遅くなる…。
今年新採用のK先生のヤル気に押されて動き出してはいるが、まだまだ不安要素は多い。だいたいが、ベテラン教師陣があてにならないのだ。任せておけばいいや、という態度が見え見え。この感覚をナントカしなきゃね。みんなで創るから運動会なんだもの。私個人が頑張るんなら、ただの授業参観だ。

とゆーわけで、昨夜は帰宅して残りの力をふりしぼって(?)の夕食準備。毎度のことだが。正直言って、私個人としては夕食なんか食べずに眠りたい。漆黒の無音世界にとっぷりと沈んで。そして私の分子の一つ一つが墨色の気体に拡散していくのを微かに感じながら、ぷつりと意識が途絶えたら、理想的な朝が来るはずだ。幸いなことに明日は土曜日…!泥のように眠りこけてやるぅ!
ところが。
朝、電話の音にうつつ世への帰着を余儀なくされる。う〜〜〜なんで私をベッドにおいといてくれないのぉ…?

電話の主は六合村の小学校に勤めるKo先生。
「寝てたね?くっくっく……。あのさ、今日、運動会なんだけどさ、縄文人やるから見に来て。11時半くらいだから」
縄文人………リズム構成「海を渡った縄文人」だ…!
私にとって、とりわけ思い出深い作品。長い航海の末に命がけでバヌアツに上陸した縄文の少年マポ。その歓喜を表現する踊りは姫神の曲を何度も聴いているうちに私の中から湧き出した動きだった。地殻変動に揺れる日本からの脱出を決意する人々の場面は、藤岡の作る会の動きは使い物にならぬ、と、職場のみんなで持ち寄ったCDを聴き合って曲を決め、みんなであーだこーだと言いながら振りをつけた。死の大地に咲く一輪の花にほほえむ一人の少女から、人々が生きる力を得るというストーリーも私たちで付け足した。東南小高学年ブロックの努力の結晶みたいな作品だ。
寝てる場合じゃあないや。だから今日は六合村へ。


2004/9/4−5(土−日):運動会運動会

六合村に行ってきた。六合第一小学校と入山小学校の二校にお昼時間を挟んではしご。ああ、運動会っていいね。
そしてとにかく私の好きな六合の人々は真面目だ。大人が。真面目に運動会してる。
真面目にはしゃいでる。真面目に頑張ってる。真面目に大笑いしてる。
到着したときは中休み(これも驚いた。運動会に休み時間があるって??)後の、PTA競技が始まるところだった。トラックを走り、レーンの紙を拾って、ロミオとジュリエットとか、アダムとイヴとか(?だったかな)の男女ペアをさがして二人三脚を組んで走ってゴールという遊競技。それを大はしゃぎで楽しむお父さんお母さんが素敵。その様子を、児童会担当の子なのか、放送委員の子なのか、「○○ちゃんのお父さん速い!速い!」なんて実況するのだが、全部、固有名詞で各人の名が明かされるところがすごいと思った。さすが六合村。みんな見事にお知り合いなんだな。そのアナウンスの子、自分の家のお母さんの時は
「うちのお母さん、速い!速い!」
とアナウンスしていて笑った。しかも、そのお母さんが迫力満点のパフォーマーで、どう見てもやり過ぎの盛り上がり。カードのあるところまでは必死の形相で走って、ダントツの1位。相方のお父さんを見つけて抱きつき、悠々と足を結んで二人三脚は笑顔でビリのゴール。
「うちのお母さん…遅い…」
とすかさず入るアナウンス。おい、シナリオ通り?まあ何しろうらやましい親子関係です。ああいう大人の姿を見たら、子どもはすんなりと「真剣に楽しむことはいいことだ」って学びとるだろう。わざとらしい道徳教材なんかいらないよね。いいなあ、六合村。

Ko先生の学校のリズム構成「海を渡った縄文人」は、すごく子ども一人一人が生きていて、思いっきり体中で表現してた。ああやって動けたら気持ちいいよね。全体の美しさとか、規則的な体裁とか、そんなものを越えたコロスの美しさが校庭中でひびきあっていた。子どものよさが丸ごとどかんと投げ出されていて気持ちいい。どの子も縄文の人々と同じ地平を見ていた瞬間、私も我を忘れた。行って良かった。
誤解なきよう。けっして馬鹿にするんじゃあなく言っているのだが、実際のところ、もう少し、体育主任の先生には体育が芸術教科なんだって事を自覚してもらいたいなって思う。感性の鈍い人が創ったとしか思えないような下品な振り付けのダンスを運動会で見ると、子どもも目を伏せてテキトーにお尻振ってたりして気の毒だし、見ているこっちもゲンナリだ。あんなの、一生懸命にやれなくて当たり前じゃん、と思ってしまう動きが多くて、こんなことに貴重な教育の時間をさいているのかと、哀しさを感じる。
まあ、それはそれとして。

Ko先生のところを辞して今度は入山小へ。またこれは名のごとく入山………山深く入り込むと、車道からぽかりと穴を掘ったように開けた谷間の土地ににぎやかな万国旗がちらりと見えた。ここだあ!入山小学校…。
ピーッピッピッと鋭い笛の音が響いた。あ、マーチングが始まってるんだな。車を降りて坂道を足早に下ると、校舎のところからさらに階段を下った低いところに校庭が広がる。山の中の小学校は校舎と校庭のあいだに高低差があり長い階段がある。段々畑みたいだ。立体的な構造と、背に山を戴く環境に惚れ惚れとしてしまう。
校庭全景を見下ろせる体育館前がマーチングの隊形を見るのにぴったりだなあと足を運ぶと、我らがHayashiが偶然にもビデオ係でそこに立っていた。私たちを見つけてビビりつつ、ビデオカメラに録音されてはマズイと声を押し殺す彼に失笑しつつ、身振りとは裏腹の小声あいさつ。ふふふ。働く仲間を見るのは楽し♪
ああ、運動会。いいな、いいな。みいんな一生懸命でさ。さて、今日はたくさん写真も撮ったからあとで可能なものはUPしてみる。そして、私もまた月曜からがんばるさっ☆


2004/9/17(金):リズム構成な日々

「ねえ、先生、朝練しようよ!」
7:20の職員室に、りさちゃんやあかねちゃんが威勢良く飛び込んできたのが今週の月曜日。へ?あされん?
彼女たち、運動会のリズム構成「オンチャと三コ」の「朝練」をしたいと言うのだ。こっちはそんなことおくびにも出していないのに。何でまた朝練???小学校で?ふええええ。
そして、朝っぱらからここんとこがきんちょたちのやんやの催促と共に体育館へ直行。人数は日増しに増え、今朝は男女問わず60人くらいの子どもたちが朝の体育館に大集合。私個人としては大歓迎のことだが、子どもたちのこのノリは一体なんでしょう。運動会にリズム構成で関わるのはこれが7回目だが、こんなに反応の良いのは初めてで驚き。今までは高学年相手だったから、ここまでストレートな意欲に出くわしていなかったと言うことか。にしてもすごい。どうなっちゃってるんでしょうね。うん。
斎藤隆介作「三コ」は、秋田の貧しい農民のために、愛する自然のために、命を投げ出した優しい巨人のお話。子どもたちは三コに夢中だ。山火事に立ち向かい、愛する山に身を伏せ抱きしめて炎と共に死んでいった三コ。その三コを踊るときの子どもたちの目と手は輝いている。嬉しいんだろうな。きっと。誰もがやっぱり正義のヒーローになりたいんだ。そして、踊りの世界で、三コになりきる自分や、ドラマの渦中に飛び込む自分を素直に心地よく感じているからこんなに夢中になれるんだろう。……にしてもしかし。すごいパワーに私が負けそう。

運動会でもう一度リズム構成に取り組もうとは夢にも思わなかった。授業確保、時数削減のこのご時世の中、本物のよさを追求しようとすれば同一歩調と一枚岩の大好きな管理職が目くじら立てる。そして、いまやテキは管理職のみならず、だ。いや、むしろ、今私が勤務している職場の管理職は、理想的といってよいほど職員を広いフトコロで包んでくれる人格者だ。そう、テキはむしろ同僚なのだ。「やりすぎじゃあ、ないですか?」とか、「そんな奇妙なことする人は今までこの学校にはいませんでしたから」とか、「教師が指導力をふりかざしてしていた時代はもう終わったのだ。いま、教師は支援者なのだ」とか、「結局は教師の自己満足だ」とか。まあ、そういうことで。
正直、私は頑なな理想主義者じゃあない。だから、新任校で周囲とケンカしてまで何かを押し通そうなんて思わない。今年はおきまりのお尻振り振りダンスでも踊っておけばいいやと思っていた。実際のところ。けれど、周りが
「任せる、なんでもいいからやってみて」
というからこういう事になってしまったのだ。そして、やるならもちろん、とことんやるのだ。ふうううん?いいのかな。
だから、このチャンスはもう二度とないかもしれない。こういう事をすると運動会の反省事項かなんかのアンケートに、必ず「ある学年だけ熱を入れすぎだ。もっと子どもの負担を減らすべきだ」なんて書いちゃう人が出てくるのよね。絶対に。別に子どもの負担を増やしてなんかいないさ。子どもの顔を見てからモノを言いなさい。もしも子どもが負担に思ってるのなら、なんで
「先生、土日は体育館も校庭も空いてるでしょう?練習できるじゃん!やろうよぉ!」
なんて言い出す?
運動会後の反省アンケートについては前任の小学校での経験だが、この学校でだってすでにチラホラと妙なご意見を小耳に挟む。だから、「来年もあると思うなリズム構成」だ。で、もったいないからとことん楽しもう、と決めた。校長先生にもナレーションと歌をお願いしたし、新採用の同僚にも踊ってもらっている。で、予想通り、しっかりはまってもらった。彼は、かなり楽しんでいるようだ。夜遅くまで音楽を聴き、家で自主練してるとか。通勤路のカーオーディオからは「オンチャと三コ」の曲が流れ続けているそうな。保護者にも2日に1号の割合で通信を出している。「もう親子で三コに夢中です」という反応も返ってきた。リズム構成の威力だ。いや、魅力だ。恐るべし。

そんなわけで、朝の爽やかな空気の中、体育館に姫神やクスコの大自然な音が炸裂中。


2004/9/21(火):おつむのはたらきは?

あたまわるい。そう思わずにいられない。運動会の全体練習を4時間も取る。この無駄な消費時間を学年に回してくれとつぶやかずにおれない。だって、1学期からの業前の時間にもっと充実した活動をしていればこんな事すでにできているはず。
行進がメチャメチャヘタだ。だって、あんなに前後の間隔をつめて歩かせたら、高学年らしいのびのびとした歩き姿なんか出せっこないじゃん。なのに、大きく歩けだの6年らしく堂々と歩けだのって、そりゃむちゃだ。
整列もヘタだ。「前へならえ」しなきゃあ前後の間隔もとれないおばかたち。日常の学習の中で、自分の頭で間隔を測って並ぶということをやっていないからだろう。いちいち「あなたはここきみはここ」と指示されないと動けない子どもたち。人の声で「静かにしよう」といっても聞く耳持たずだが笛の音がピーッピッと鳴ると自然に口を閉じるように調教されてる。強い刺激にしか反応できないお馬鹿なお人形たちがうじゃうじゃ。
あきらかにあたまわるい。さて、誰がこうしたのか?教師の責任は重大だ…。


2004/9/23(木):彼岸

母の墓参に行ってきた。母の命日は明日。
昨年は入院していた。18日に手術したからあれから丸1年たったのだ。昨日が離床の日だった。入院中につけていた日記を読んでみると、今日23日には看護師さんがドライシャンプーしてくれて嬉しかったことが細かく書かれている。
確か、母の13回忌を去年の今日、したはずだった。私は出席できなかったけれど。

墓には息子と二人で行った。しっかりと墓に手を合わせる息子を見ていると何だか胸が熱くなる。母の腕に抱かれている幼い日の息子の写真が今も実家のリビングに飾ってある。あれからもう20年近く経ったのだ。
生きていれば64歳の母。
「長生きなんかしなくていい。シワシワのみっともないお婆ちゃんになんかなりたくない気がするんよ」
と言っていたけれど、生きていれば素敵なお婆ちゃんだったと思う。やっぱりそんな母に会いたい。私のようなワガママ娘は、母の心労の種であり続ける事は間違いないのだけれど、コンサートや展覧会に招待したら、きっと大喜びしてくれたはず。そう考えると寂しい。
母の名と戒名とが刻み込まれた墓前碑はとうに見慣れたけれど、いまだにこの時が過ぎ去ったことに馴染めない。持ってきた線香の束になかなか火がつかず、墓前で愛用のライター片手に悪戦苦闘している息子を見ると、間違いなく愛おしい時間がずうっと過ぎ去っていることは実感できるのだけれど。
線香の煙のにおいがまだ指先に滲みついている。


2004/9/24(金):最後の練習

いよいよ明日が運動会。不思議なことに、ここのとこ毎日雨が降る予報だったのが次々変わって、予定通り練習できてしまった。とてもラッキーな9月だった。今日も、天気予報は雨から修正されて午前中は曇り。子どもたちと最後の通し練習ができた。
運動会前日は特別校時で休み時間がない。そこで最後の最後までごねてるおぼっちゃまが約1名。徒競走、遊競技の「台風の目」と終わったところで
「あー、つまんねぇんだよー。休み時間がねぇよー。てめー、せんこー、こんなことやってねえで遊ばせろぉー」
と周囲の子を煽るようにニヤニヤ笑いながら叫んでいる。まあ、それはそうなんだけどもさ、なにも、みんながこんなに真剣になっているときに言わなくてもよかろうが。4年生でこんな状態で、この子が中学生になったらどんなヤツになるんだ?そういう子どもの家庭って一体どうなっちゃってるんだろうか?みんなでやろうっていうときに、あえて雰囲気をぶちこわすようなことを言いたくなっちゃうっていう人、大人にもいるよなぁ。不思議だ。
まあ、本来子どもたちに与えられるべき休み時間が運動会という非常事態?によって勝手に奪い取られたわけで、それはそれで確かに理不尽ではあるんだけどさ、case−by−caseだろ、おい。
…と、心の中でつぶやき、敢えて注意をしなかった。
さて、最後にリズム構成の通し稽古。本番に向かっていく子どもたち、どんどん気合いが入っていくのがわかる。表情を見ると、模倣で動いているのではなく自分の表現として手足に力が入っていくようになっていることがわかる。私の手から離れたんだな、と思う。入場位置に若木のようにすっと立ち凛とした子どもの雰囲気。遠くから眺めるだけでも美しい。そんな子どもたちの姿を見ているとすごくワクワクする。
さあ、始めようか、と、マイクのスイッチを入れ、もう一度整列した子どもたちを見ると、一部分だけなんだか体の動きがゆるんでいるのがわかった。ん?うちのクラスの後ろの方を中心とした男子の表情が?…私のいるテント位置からは子どもの目鼻がぼんやりわかる程度なのだが、気持ちのゆるんでいる子どもの様子はどんなに形を取り繕って立っていてもすぐわかる。ああ、やっぱりさっきのあいつだ。またなんか声を殺して叫んで周囲を引っかき回そうとしてる。この期に及んでか、ヤレヤレ。
「おい!○▲×◎さん!!○▲×◎さん!!」
テント位置からマイクOffを確認して叫ぶ。男子なのだがうちの学校はみんな「さん付け呼名」なのだ。気合いが入らん!ああ、隣に校長がいるけど、知るか!
「おい!○▲×◎!!なんだ、おまえだけ!情けないぞ!!」
全力で叫ぶ。呼びつけで呼ばれてびくっとしたのがこちらからも見て取れた。
校長はくっくっくと笑い出した。いい人だ。こういう管理職の元で働けてシアワセ。
何事もなかったように、にこっと笑いながら最初のナレーションを担当する3年生の女の子にマイクを渡す。
「かなちゃん、よろしくね」
ああ、小学校教師、なんでここまでヤルのかね。

最後の練習、デキは上々だった。通し終わってから、かけ声を掛ける部分だけ練習させた。三コがオイダラ山へ駆け付けるシーンで子どもたち自身が踊りながら叫ぶ声。
「走れ!走れ!三コ!行け!行け!行け!三コ!オイダラ山へ急げ!!」
実は、かなりの大声が出て褒めてもいいくらいだったのだけれど、得意げな子どもたちの表情を見て、敢えてひと言。
「う〜ん、いまいち。校庭のプラタナスやヒマラヤスギなどがびりびり震えるほどの声が欲しいな」
というと、にっと笑った子どもたち。その次の声はまさに地に轟く三コの足音のように響いた。
「すごい!かっこいい!」
とマイクを通して派手によろこんであげたら、思わず子どもたち自身からから「アンコール!」の声がかかる。嬉しくなっちゃうね。都合4回叫んでもらった。子どもたちみんなにこにこと笑っている。
さて、いよいよあした!


2004/9/25(土):私の夏の終わり

2学期が始まると運動会準備に追われて日々が風のように過ぎていく。久しぶりに小学校に来た今年も、気付けばもう9月が終わる。毎日リズム構成のことばかりを考えて必死に取り組んできた25日間はあっという間に過去のお部屋に行っちゃったのね。そうなの?本当に?へええええええええええ……。季節はとっくに秋で、家にいるときは長袖のカットソーを引っ張り出して着ているくせに、毎日学校ではTシャツとハーフパンツ。腕の日焼けは焦げすぎのコッペパンか抜きたての土ゴボウみたいになって、もうこんなじゃぜったいにお嫁に行けないワってカンジだ。(イヤ、お嫁に行けないのは私個人の問題だが)そう、私にとっては今日の運動会を終えるまでがアツイアツイ夏の日だったのだ。ふう。終わった終わった。秋よこんにちは。

リズム構成は、多分、最高に上手いとは言えなくてもあの子どもたちの持っている資質一杯の豊かさが存分に表現できたのではないかと思う。子どもたち一人一人が表現を楽しんで夢中になっている表情をしていて、私はもう、嬉しくて頬がゆるみっぱなしだった。声帯結節が悪化してもうまともに出ない声で歌を歌うあいだも、そんなことより子どもの動きの気持ちよさに心を奪われてた。う〜ん、私、ちゃんとまともな歌詞で歌ったのかな?謎だ。とにかくよかった。どの子ものびのびしてて、まるまる15分間、精一杯に体をつかってた。目が輝いてた。
リズム構成に取り組むのはこれが7回目だけれど、本番を楽しめたのは今回が初めてじゃあないかな。校長先生のナレーションも歌も素敵だったし、学年ブロックのチームワークも最高だった。こんな風に当日を迎えられるとは、本当は思っていなかった。だから、妙に嬉しくて、笑わずにいられなかった。ああ、楽しかった!
終わった後、何人もの保護者から声をかけられる。知らない人からも。3年生の保護者かな。隣のクラスの保護者かな。もうとにかくたくさん。
「よかったです。感動しました。何度も涙が出ちゃいました。素晴らしかったです。震えが止まりません……」
吾妻から来てくれたK先生が握手を求めてきた。
「すごいよ、すごいよかった。歌で始まって歌で終わる構成がいいね。あと、ほとんど曲の切れ間がなくナレーションでつないだところも。ああ、すげえ、よかったよー。すっごいよかった!もう、びっくりだよ、これがこの学校の子か?」
そうか、K先生はかつてのこの学校の保護者だった。例によっていつものなかよしな先生方が一緒で彼の派手な賛辞に頷きつつ笑ってた。嬉しいな。始まる前、偶然見かけたH氏は日陰で読書してた。敢えて声をかけずに通り過ぎたけれど、彼はどんな風に見てくれたのかな。本当は子どもたちがすごく彼に会いたがっていたのだけれど。三コの元々の動きを創った樋口先生にも見てもらいたかったな。今年でもう引退しちゃうって言う石塚先生にも見て欲しかったなあ。

終わった後、子どもたちのところに戻って声をかけたら、口々に
「どうだった?」「ねえ、感動した?」「私一カ所間違っちゃったんだよぉ」「ねえ、もう一回やりたいよお」
大騒ぎ。うんうん、すごくよかったよ。すっごく。
へとへとになって帰宅。夜も感動の電話をもらったり、mailをもらったり。リズム構成、ありがとう。子どもたち、ありがとう。教師という仕事がこの世にあって、本当に良かった。


2004/10/1(金):すとれすってなにさ

また病院に行ってきた。なんかもう、こういう展開には飽きた。今回は原因がよくわかってる。あることがきっかけでものが食べられなくなり、食べても胃の痛みからもどしてしまう。頭痛がひどくなり、耳鳴りが始まった。不眠の続いた2日後、おきまりの回転性目眩が始まった。こうなるともう何もできない。立っていることも座っていることもできない。寝ていても寝返りを打っても激しい嗚咽がやってくる。今日は点滴を打ってきた。少し軽快。
私は大抵のことには「ま、いいさ」と関われるし、面倒な仕事もどちらかというと「ヤレヤレ」というより、「おもしろい、やったろうじゃあないか」と勇んでしまう単細胞君なのだ。そう、みんながいう様にガキなんです。いくつになっても。
けれど、今回の様に個人的な感情の攻撃にめっぽう弱いということは数年前から薄々気付いていた。数年前にもこんなことがあった。あのときは夜中に見知らぬ人から個人攻撃の電話だったなぁ。私の中にすっぱりと落ち度が見えたなら、あんなに悩まなかったと思う。電話の向こうでヒステリックに叫んでた彼女、今はもう元気になったのかなあ。何だか病的な程、私を憎んでいる様な電話だった。皆目知らない人なんだけど。
手足のけがなら手当のしようはある。去年は派手に頸椎手術したけど、傷あとはくっきりと10cm以上も残ってるものの、もう痛みはない。でも、心のけがって、どう治すの?誰に言ったらいいの?
血圧が85を切っていた。冬眠にでも入ろうっていうのか?右耳が聞こえない。物音が大きく反響していて布団の衣擦れの音まで苦痛になる。地面がせり上がってきて上手く歩けない。ストレスから逃げようとして、私の体が動きを止めようとしているみたいだ。抗うと容赦なく吐き気がやってくる。景色がゆがんでいく。
ベッドが空き次第、入院して下さい。連絡をしますので。
ああ、急患よどんどんはいられたし。私は少なくともこの家で苦しんでいたい。
たぶん、何かの報いなのだけれど、でも私は真正直に生きてきたと思っている。どうして分かってもらえないのかな。どうしてなんだろう。だれか私を根っこから引き抜いてどこかへ連れてってくれないかな。


2004/10/4(月):あなたの言葉を待ち続けている

今日で5日目。断続的に目眩がやってくる。寝返りを打った時に脂汗をかいていることに気付く。全身が重くベッドに引きずられている様な息苦しさを感じて首を動かすととたんに激しい吐き気がやってくる。目をゆっくり開くとベッドの向こうの椅子とインド綿のクロスがぐんにゃりと歪み始める。目を閉じても世界が不規則に波打つのがわかる。じっと堪える。じっとじっと。
耳の奥にさらさらと流れる砂粒の音が続く。少し大きくなって少し小さくなって。
待ち続ける声は聞こえない。灯台の灯りは消えたままみたいだ。


2004/10/4(月):そんな中でも感動はあって

1日の中でも体調の変動がある。気を紛らすためにこんな風に膝にノートをのっけて文字を打ち続けることが出来る時間帯と、嗚咽を必死に堪える時間帯と。
病院で2時間半も廊下の待合いで座っていて、急に呼ばれて立ち上がろうとしたら目の前が一気に黄色くなった。なんで黄色?見事に真っ黄色だった。診察やら検査が終わって点滴を打ちにいく時、地面が突如大海原になってくれてまあ荒れる荒れる。朝から水までも吐ききって何も残っていない胃袋から未だなにがしかを押し上げようとするねじれる様な悪寒に、ああ、もうカンベンしてくれと泣きたい気持ちでおっかなびっくり歩こうとしたら、廊下のベンチで座っていたご婦人が
「一緒に行きましょ」
と、腕をつかんでくれた。その女性が私の腕をつかんだ時の力強さにどきりとした。いけない、もっとちゃんとしなくちゃあ。なんだか先生に叱られた生徒の様な気分だった。その女性は私より背が低くて痩せた温かい手のひらの人だった。気分が悪くて必死に薄目を開けて揺れる足下を見つめる私はその方の顔を見ることができず、ありがとうございます、と、すみません、本当にもうしわけございません、とを交互に言い続けて歩いた。
「大丈夫よ、そこまでついていくだけなんだから気にしないで。私もね、目眩で苦しんだのよ。夜に来たからね、怖くてそれからしばらくは毎晩眠れなかったわ。だから、大変さがわかるの。あなた、まだ若いんだから、がんばってね」
そういって処置室まで腕を支えて下さった。
素敵な方に出会えた。どうして私はいつもやさしさに出会いながらも、ただこんな風にもがいているのか。愚かだな、と情けなく思う。やさしさはリレーしなくては。あの女性の力強さ、温かさを、私はちゃんと他の誰かに手渡したい。
手渡さなくちゃ。


2004/10/13(水):BGM

車の中でしばらくCDを聴いていなかった。J-WAVEばかり。特に朝はジョン・カビラ氏のトークをぼーっと聴きながらの通勤パターンだったのだけれど、ここ1ヶ月ほどは久々に音楽を聴いている。まあ、大したことじゃあないけど、耳の調子が悪くて、ラジオのノイズはキツイなあって思ったのが始まりかな。最近は日によってこの程度の音も時にheavyに感じたりするのだが、ま、ぼちぼち良くなってきてはいるのだけどね。クラスのがきんちょ達の喧噪から比べればまあ、Death Metal級の叫び声だって低音な分だけ耳に優しいくらいだけれど。
ここのとこのお気に入りは、Jamie CullumとJake ShimabukuroとBump of Chickenと定番Penguin Cafe Orchestra
ときどき、車のウインカーやワイパーと、曲のリズムがシンクロする瞬間があって、そうするとそれだけでにんまりしてしまう、脳天気な私。信号待ちの時も黄色信号の点滅とリズムがいい具合にセッションしてくれちゃったりすると、なんか得した気分。安上がりなワタシ。音楽ってスゴイ♪

喉の調子も悪くって(ここんとこの私は故障だらけだ)あんまり大声が出せないが、鼻歌交じりにハンドルを握っていると、気付けばがっこに着いている。授業中もなにげに頭の中を曲がぐるぐるしてたりするのね。最近はBump(またはJoyまたは激シブBoysの)のしょーもないボーナストラックの曲がEndless songになってたりする。授業中に。そーするといい具合に気が抜けて、あほながきんちょ達の奇行も、ま、いっか、てきとーにやってくれ…と眺められる。
「せんせー、いいの?あんなことやってるよぉー!!」
生真面目な女子の追求に
「いーのいーの。ほっとけ」
と返せるお気楽さ。ああ、BGMよありがとう。
まあ、なんだかんだ言って基本線はのーてんきな私だ。最近、クラスの雰囲気も私風に染まってきて仕事もしやすいし、まあ、あとは来週の学校代表授業をこなせばさらに楽になるな。まあ、その前にこの体調を回復させたいところだが。血圧は相変わらずの低空飛行だ。体重がこの2週間で4kg減ったのは嬉しいとして(?)せめて目眩の発作が消えたらいいのになあ。


2004/10/16(土):久々の練習へ

合唱団の練習に行ってきた。ものすごく久しぶりに。おそらく、喉の調子がおかしくなってから1ヶ月以上経っているのではないかしらん。いや、しっかし、これだけブランクがあると、本当に体というのはあっという間に衰えるんだなあと思った。何しろ、深く息が吸えない。正しい音が保てない。喉の調子はあんまり改善したとは言い難いので、いい音が鳴らないのは仕方ないにしても、狙った音程に調節するのがこんなにも難しいものなのかと、思い知った。しかも、自分の声が良く聞こえないので、どの程度の音量になっているのかがよく分からない。う〜〜〜ん。困ったもんだ。
「ぞうれっしゃ」の全曲の音とりが終わったということで、頭から通した。2曲目にあるぞうつかいの娘の歌で、私がソリをやる。でも、本当は、まさか今日歌うように言われるとは思っていなかったので、全く練習してなかったし、ソロの部分は飛ばすものだと思って、私はさっさと楽譜をめくっていた。そうしたら学先生が
「病み上がりでなんだけど…ねぇ、歌ってみるぅ?」
と。―――う゛〜〜〜〜〜〜。
イヤ、今日はちょっと…。と心では答えていたのだけど、声にして出たのは
「ハイ…歌います」
なぜでしょうねええええ。ほんとに。なんで私はこういう時に、今日はダメです。って言えないのかな。人前で歌いたくないなあと思ったのは、おそらく生まれて初めてじゃあないだろうか。
まあ、それはそれで、今の自分の状態が見えて良かったのかも知れないが、ぅぅぅぅしんどかった。歌うって、こんなにも難しいことだったんだなあぁ。ふううう。
てなカンジだったんだけど、まあ、久々の練習はやっぱ、楽しかった。知らない人が増えてた。子どもの声が小さかった。学先生は相変わらずだった。男声パートの人が4人しかいなかった。
本番は2月26日だ。大嫌いな冬が来るが頑張らねば。この喉も耳も低血圧もやっつけねば。ううむ。


2004/10/22(金):研究授業

やれやれ。おわった。国語の学校代表授業。
この指導案はびょーきで吐きながらぽちぽち打って作った涙と汗の結晶だ。こんな絶不調のときに限って、大事なお役目がめぐって来ちゃうモノなのね。なんとかかんとかやっつけて、こぎ着けた本時の展開であった。予想していた通りの難しさなどもあったけど…、

「支援の手だてが工夫されており、教師の児童理解が適切で臨機応変であった。子どもたちの反応が非常に良くて意欲的な学習態度が身に付いている。1時限の授業があっという間でとても楽しかった。参観している者までがワクワクするような展開だった」

との指導主事のお言葉。まあ、よしとしよう。
説明文の読み取り学習をしたのだが、手製のくっついたり剥がれたりのワークシートや掛け図などを活用して、視覚に訴えながら学習を進めた。語の役割を意識したからくりカードと、コンピュータで作ったイラストと私の手描きと混ぜたくっつき掛け図が好評だった。まあ、私がやることだから、国語の専門家ではないわけであんま難しいことはできやしないしやりたくもない。なにより、子どもたちがワイワイと楽しんで、大事なことをきちんと学べればそれでOKなのだ。説明文だし。
私自身、大満足というわけでもないけれど、まあ、とりあえずはお役目を終えたところで少し気が楽になった。空も晴れてたし、その後の体育の授業のハンドボールがサイコーに楽しかった。うん。


2004/10/30(土):いい一日。

血圧低下で朝、起きあがるたびに目の前真っ白。キ―――――ンと高い耳鳴りとしゅぅぅぅぅぅぅぅとノイズが混じって頭の中を満たしている。毎朝が騒音公害。市役所に届け出ても改善してくれないが。

10:00に家を出る。今日はいつものように近くの産直センターで一週間分の野菜を買い込んでそのまま学校へ。土曜日の職員室は空っぽだけれどもなぜか親密な空気が流れていて私は好き。誰もいない職員室だからパソコンから流れる音楽に鼻歌で合わせたり、向こうのロッカーに荷物をとりに行きながらステップ踏んだりしても誰からも
「あれ、今日はゴキゲンだねぇ?」「いいね、君はいつも楽しそうでさ」
なんて声かけられて照れ隠しする必要もない。誰もいない職場には私の気配だけが漂っている。歌おうが踊ろうが、それが見慣れた私だ。つくえの周りを片づけて引き出しの中のいらなくなった書類をシュレッダーにかけ、当番のトイレ掃除にかかった。いい調子で鏡や壁も磨くと気分がハイになってきた。ついでに女子更衣室の床を磨いて姿見もピカピカに拭き上げた。いいカンジです♪
来週の週案を仕上げて、教材をいくつか準備して、帳簿を整理して終わりにした。少しおなかもすいたかな?と時計を見ると14:20。おお、お昼ごはんを食べるのも忘れていた。

帰宅してぱそで仕事の続き。18:00に家を出て、高崎へ合唱練習。合唱組曲「ぞうれっしゃがやってきた」「子どもの人権宣言」の通し練習。耳の調子が悪いので音が良く聞き分けられなくて苦労した。特に今日は自分の声がどの音を歌っているのかが分からなくて困った。ピアノの音も変にこもって聞こえるし、全体的に音が下がっているのも気持ち悪かった。それは実際歌がマズイのか耳のせいなのか判然としない。ソロの部分では私の声とピアノだけだから悩むこともなかったけれど。いつもの通り、高い方のシ・ド・レのあたりが出しづらい。それ以上なら逆に気持ちよく声が出るのだけれど。そして、これまたいつものことだけれど、pで高音域を歌うのが難しい。張り上げて歌うなら簡単な音がうまく響かない。ああ、歌うのは難しい。勉強すればするほどにどんどん難しくなる。そしてたいして上達していないというこの事実。やれやれ。2月には3曲ソリがある。神様私に美しく震える声帯を下さい。
歌っている最中、目の前が何度か真っ白になった。動悸が激しくなって足が震えた。冷や汗がどんどん流れる。血圧のせいなのか、他の要因なのかもう、知ったこっちゃない、って感じだ。どうにでもなれ。最近、本当にどうでも良くなってきた。ぶっ倒れようが、吐こうが、まあ、どうにかなるだろう、知るもんか、って感じ。不調が日常茶飯事になりつつある。どうせそう長生きしたいわけでもないのだから、いいんだ、もう。
そうなのだ、結局は。結局は私がこの状況をどう生きるかなのだ。今の私には悩むよりも何かに夢中になり続けることで、自己を圧倒する状況こそが必要なのだと思う。辛い、苦しい、なんて事に関わっているヒマを自分に与えないように、歌ったり仕事したり表現したり。上手にステップを踏み続けることこそが大切なのだ。ダンス・ダンス・ダンス。

21:30に帰宅して、夕食づくり。今夜は山椒の実を沢山入れたakyaオリジナルの四川風麻婆豆腐と、青菜を沢山入れた八宝菜と、スープ。中華ごはんでした。おいしくてお腹いっぱい。お風呂でギネスを飲みながらMasterキートンなんか読んで、お風呂上がりはペリエを飲みながらぱそをながめる。で、今、日記書いてるの。1:45就寝予定?

いい一日なんです。これが私の。


2004/11/2(火):つっかえ棒が見えたよ

地球もうまいこと動いてくれるんだな。たまには。

今日は地域の学校の音楽祭で、市内の文化会館に学年の児童を引率して出演した。私はイカサマ指揮者。
いつもあんなに勢いのある子どもたちも、今日はさすがに緊張したみたいだ。
「暗い部屋に入ったら、手がぬるぬるして来た」
「歌い終わったら、足が勝手に階段を駆け下りた」
「帰りに外に出たら、おもわず『まぶしい』って言っちゃった」
などなど、カワイイ感想が作文されてた。
私は指揮をするので本来ならば多少の緊張が必要かとも思うのだが、相変わらずその二文字に無縁の私。
ぼーっとソデ待ちしてたら、向こうからでっかい黒い塊がやってきた。みるみる近づく塊が、がしっと私を抱きすくめた。
「おお、よっしぃ、首、動いてるか?」
優しい低い声。チーフだ!
チーフはギタマンのときお世話になってた、文化会館の舞台エンジニア。勝手に私は彼をチーフと呼んでいる。今までに2回、一緒に仕事をさせて貰っただけなのだけれど、すごく気があう人だ。無愛想を装って、実は優しい兄貴って感じの頼りになる方。私の出番を知って何気に元気づけに来てくれたんだ。声を聴いて嬉しくて
「きゃー!チーフ!!」
思わず声をあげた。ソデでは大人しくしてなさいと仕込まれてた子どもたち。その様子を見て固まってた。あはは。
学校に帰ってきてから、思い出したように次々と、
「何?あれ!ねえ、よっしい先生、あの男何?不倫!?不倫!?」
超ウレシそう。…あのなあ。おまえたち。

夜は久々の声楽レッスン。声が出にくい状態はそのままだが、今はとにかく自分を見定めるために何かを続けたい。歌う、描く、走る。そして文を書き続ける。表現することこそが私が私であり続けるためのすべだ。
でも、出かけていったら学さんの
「体調どう?どうしたの?いいよ。なんでも言ってみて?」
に甘えて、思いがけずここのとこのストレス事件一部始終を頭から尻尾まで話すことになってしまった。学さんはそういうの聞くのとてもうまい。人を集める相の人なんだな。ここんとこのぐちゃぐちゃした想いをようやく全部吐き出した感じで、なんか、少し気持ちが楽になった。でも、あっという間に時間が過ぎて、次のレッスンの時間になっちゃった。で、
「いーの、どうせ家で練習なんかして来てないんでしょ。けんちゃん、そこで黙って弾いてなさい!」
と。中学生のけんちゃんが時々ため息つきながら横で黙々とピアノレッスンしてたのが可笑しかった。結局私は一つもレッスンしなかった。あはは。カウンセリングに行ったってこと?

帰宅後、OutlookExpressを開いたらkaneからmailが来てた。今日はAddressが首相官邸(?)になってた。おいおい、ホント?

そう、私の周りには目に見えないつっかえ棒が、ほら、しゃんとせい、と私を支えてくれてるみたいだ。今日は特にそれを感じた。はい。もう少ししゃんとしましょう。


2004/11/5(金):抱きしめる

T君が今日も朝から職員室へ来た。
「よっしいせんせ、おはよ。ねえ、今日ボク何か忘れ物したかなあ?」
いつの間にか、習慣になってしまったこのやりとり。自分の忘れ物のあるなしを朝一で私にたずねる不思議君。
はじめは、意味不明な会話だなあと思っていたが、この子にはこの子の都合って物があるのだろうと、この調子を維持して受け入れている。
「ん〜、じゃあね、漢字練習の宿題は?」
「あ、それはやってきた」
「社会の教科書は」
「学校に置きっぱなしー!」(ウレシソウ…でもそれだめじゃん!)
「じゃあー…マラソン大会の参加申込は?」
「あ!!それ!忘れたー!!」
職員室中に響くようなとんでもない声で叫ぶのだが、実に満足そうな顔。その後、私がにっと笑って、「こらぁ!ダメじゃないかあ!」のお小言を言うまでが、彼の朝行事フルコース。それを期待して、何かしら忘れ物をすることにしているみたいだ。

この子のお母さんは外国籍の人。日本とは文化も風習も異なるからか、またはお母さんとのコミュニケーションがうまくいかないためか、その子、生活面でも友達関係でも、今ひとつ周囲にとけ込むことができていない。
自分の非を認められない。責められると突然ヒステリックに自己弁護する。周囲の悪ガキどもは抜かりなくそこを突いて、しばしば彼を虐め抜く。ちょっとボタンを押すと泣き叫ぶオモチャみたいなもんだ。

ある日、彼は例によって、必死に泣きながら、私に自分の正当を訴えに来た。全力で、大声で叫び続ける。
「ボクは悪くないよー!!あっちが勝手にボクを悪者にしてる!!ボクにばっかり嫌なことをさせようとしてる!!」
話の内容は大したことじゃあない。掃除の分担がどうのとか、順番がどうのとか、そんなことからケンカになったらしい。T君はどうしても黒板掃除がしたかったのに、させてもらえないんだと訴える。周りの子は「順番なんだからしょうがないでしょ」と、一生懸命説得するが、T君、耳を貸さない。
「ボクの好きなことをみんながさせないようにする!ボクだってやりたいのに!なのに、自分勝手とか言う!」
まあ、そりゃそうだろう。順番なんだから。一層声を張り上げ身振りの激しくなる彼に、周囲の視線はどんどん意地の悪い光を帯びていく。彼の非を責めるのでなく、彼のヒステリックな様子を面白そうに囃し立てる。子どもの残虐性。それも致し方ないものではあるが。しかし、まあ、そういって眺めているわけにも行かないよな。かといってこの調子じゃあ、私の声も耳に入らないのだろう。

で、私は特に考えもなく、とっさに彼を抱きしめた。ぎゅっと。
「そうか、くやしいなあ、でも頑張るか。ね」
彼はびくっとして泣きやんだ。それから小さく泣きじゃくった。
「もうイヤだよう」
そして押し黙った。私が彼を抱きしめている様子を周りの子達は黙って見ていた。ちょっと不思議な時間が過ぎた。
「さてと。お掃除しよう、みんな」
腕をほどいてそういうと、みんな、あ、そうか、というように散っていった。T君も。
抱きしめるってことは無条件のOKサインなのだと、あとづけで考えた。そう、特に考えた末の解決策ではなかった。ただ、私にはそうするしかなかったのだ。本能に近い部分の選択だった。でも、結果として、T君が一番欲しかったのは理屈抜きで自分を受け止めてくれる誰かだったみたいだ。
そうか、と後から気付いた。
それから、忠実な犬のように、毎朝、T君は職員室にやってくるのだ。にこにこと。

人は多分、ただじっと抱きしめる暖かみと腕の力から心をほぐす何かを感じ取ることがあるんだろう。理屈はないのだ。自分はしっかりと丸ごと受け入れられているという実感だけ。何でもいいからとにかく首を縦に振ってくれさえすればそれでいい、その刹那は嘘でもいいから認めて欲しい。
一方で、私の中には、どんな悪者だってあなたならOK、全肯定なのだという人が何人かいる。それはもう無条件の肯定だ。たとえ、その人がどんな悪事をはたらこうとも、私をどれだけ困らせ傷つけようとも、受け入れざるを得ない人だ。

その胸を求めて叶わず、少しずつ心を病んで大人になるのかもしれない。わたしも?
せめて今、子どもたちをまるごとすっぽりと受け止める腕を、抱きとめる胸を持っていたいと思った。


2004/11/12(金):喧噪の果てに人は無を欲する

ああ、そうなのさ、無色透明になってやる。それこそ完全な無に。
今週は嵐のように過ぎ去った。いや、ほんとに疲れた。学区内の中学生のチャレンジウィーク。職業体験をしに小学校へ中学2年生がやってきた。うちのクラスにも男の子が一人。それはいい。たまにはそういう存在がクラスにいるというのも緊張感があって私としては大歓迎だ。ところが。
驚いたのは我がクラスのがきんちょどもの反応だ。ここんとこようやく秩序の見えてきたがきんちょ達の一気に退化したこの状況を何といったらよいのだろう。

すなわち、このミニ見習い先生に、自己の存在をアピールせんとして、愚かな行動に走りまくっているのだ。授業中に奇声を発する・下品な(そして誰も笑わない)ギャグをとばす・ズボンを脱ぐ・掃除中に踊り出す・教室内を走り回る・ヨワイヤツのち○ち○を揉みまくる・そして勃○だと大喜びする・おそらくよく意味も知らない聞きかじりのすさまじいエロ単語を叫びまくる(幸いなことに大方の子には意味が分からずノー反だったりする)・この喧噪の中にあって普通の会話すらも全力で叫びあおうとする狂った生き物ども。この姿は何だ?これが日常だったら、明らかに学級崩壊(いや集団発狂かな)だよね。でも、それにしても、だ。
子どもたちは、それらの所業を、間違いなく本能的にか意識的にか、そこは分からないが、「面白いこと」だと思って実践に移しているのだと思う。これで人気者になれると思っている。そして、注目を集めればラッキーだと思っている。はあああ。すっげー…。これが面白いことだと、彼らに認識させたモノは何だ?何なんだ?

これって、学級で指導する内容なのか?家庭教育の明らかな失態じゃあないのか?と、いちいち疑問がよぎる。もしもこの子がうちの息子だったら、私なら明日からこの子を家で監禁するな、恥ずかしくて。…いや、むしろこれって社会の問題か?少なくとも、昨今の「出せるものなら全部出す」お笑いブームに責任がないとは言えないとも思うが、それにしたって、ここまで下品な子どもっていったい何なんだ?

まあ、仕方ないから、一つ一つ冷静に(実際、あきれて冷静にならざるを得ない)君たちがやったことは本当に面白いことなのか、その自分を人に見せることが本当はいかにみっともないことなのか、を話した。ねえ、それ、本当に面白いと思ってるの?じゃ、お母さんの前で、そのままのことをしてご覧?出来る?なんなら、今日君のしたこと、お父さんとお母さんに伝えてみようか?

子どもたちは一様に、反省する。あ、まずかったんだな、という顔になる。おそらく、その瞬間はかんがえる。客観的にとはいわずとも、多少は我に返っているみたいだ。しかし、注意した次の瞬間に別の子どもが教室の反対側で同様のバカを始めるのだ。ひえええええ。こりゃ、日本の未来は薄暗い闇の中か?または実に原始的な本能的な直情的な時代が来るのか?
仕方がないからすべての児童を着席させて、いったん全員の口を閉じさせる。静まりかえるまできっちり動きを止めさせる。やむを得ず、腹筋に力を入れわざと低くてどデカい声を出して威圧する。
「静かに」
ああ、こんなつまらぬことに私の喉を痛めたくない。
そしてたっぷりと全体指導。

まあ、いいけどね。子どもと関わって、そこになにがしかの種を蒔き育てるのが私の仕事なんだから。なんか消耗だなあとは思うがま、そのつかれっぷりは決して嫌いじゃあない。それが仕事だからね。なんか、とにかくもう、うむうむ、今日もがんばり抜いたぞ、という得体の知れない大きな頷きとともに週末を迎えた。ああ、そうさ、頑張るのだ。まさに今週は給料の5倍くらいは働いた気分。時間の切り売り。心のすり減り。労働ってヤツさね。

英会話の授業のときも、がきんちょどもは狂ったように元気だった。いや、Angelaが言ってた。
Oh!Crazy!nn?
うん。そうなの。They are crazy and are going mad sometimes. ふうぅぅ。That's today's children. もうやんなっちゃうけどね、Yes,just up-to-date.
私の片言英語にAngela大爆笑。ふん。そうさ。そんな発狂集団の中でよくぞご無事で、エライゾ私。
はあ。二日間の休日、脳みそ空っぽですごそ。ああ、もうカランカランでいくさ。
ふゆのくうきのすかすかのあおぞらのきんきんのゆるゆるの無になる。


2004/11/20(土): I 先生のこと

I先生と初めて会ったのはいつだったろうか。たぶん、高校1,2年生だったろうと思う。美術部で絵を描き始めて、毎日何を見るのも何を描くのも面白くて面白くて、目にとまったモノは片端から描いていた。いつもセーラー服の胸ポケットには月光荘のミニスケッチブックが入っていた。鉛筆と紙さえあればゴハンなんかいらなかったあの頃。
多分、I先生の個展か、I先生の所属していた会の群馬県支部グループ展か、そんな感じの作品展に行ったんだと思う。I先生は群馬の画壇でとても有名な方だ。真摯な眼差しで軍服を描き続けていたひと。小さい頃からその絵を何度も目にしていた。その度に胸がずきずきと痛んだ。そのI先生に会える。美術部顧問だった岩崎先生と一緒にお会いしたのだったと思う。何を話したのか全く覚えていない。ただ緊張して頬を紅くしてワクワクしながら、大人の人の美術を語る眼差しにうっとりしていたのだろう。
それから、I先生は、私たちの部の美術展にも来て下さった。それは多分、私が高校3年生のときだ。
その頃、「女」である自分や、女友達の美しさ不思議さにとっても興味があった。同時に、花の美しさ強さに興味があった。特に、芥子の花に、女性の美しさや怖さやあざとさや妖しさや色々な情念のようなモノを感じて、そこを表現したいと思った。高校3年生なんて、今思えば未だがきんちょだけど(今もそう中身は変わって居らぬが)「女」が描きたかったのだ。
それで、「芥子」と画題が先に来て描きはじめた。自分の姿を鏡に映して、自分を描くと言うよりも、その向こうにいる芥子の化身のような女を書きたいと思って描いた。背景に、沢山の芥子の花を描きたかった。少ないお小遣いをはたいてひなげしの紅いのばかり選んでたくさん部屋の中に置いた。芯に宿る想いを描きたくて夢中に描いた。その作品を部展に出したのだ。
I先生は、私の絵をとてもいいと批評して下さった。そして、あの花は消してしまった方がいい、花があることで人物の持つ力が殺がれてしまう。造形的な色の対比も、背景と黒い人物のシルエットの方がいい、とおっしゃった。私にとっては芥子の花がまず大事だったんだけれど、そして芥子の花をかなり苦労して描いたんだけれど、I先生にそう言われれば全くそうだと思えた。芥子の花を描こうとした私が本当に描きたかったモノはもう既に人物の中に描かれていた。花は添え物みたいにしか思えなかった。だから、部展が終わって家に持ち帰ったその絵の背景の花をすべて塗りつぶしてしまった。確かに、そのほうが、主題が明確になった。
その作品はその後伊勢崎市の市民展に出品した。市長賞をいただいた。
その後、I先生から、手紙を戴いた。芥子の花、よく消しましたね、勇気がいったでしょう、あんなことを言わなければよかったかなと、後で少し後悔したのです、けれど、やはり、消したことで、ずっとよくなりました。人物の命が明確になりました。 と。
私は恐縮してしまって返事を書こうにもなんと言ったらよいのかわからずそのままになってしまった。そんなに私は自分の絵に真剣じゃあなかった。消した方がいいとアドバイスされて、単純にそうかと思って消しただけ。真剣に悩んだり勇気を出したりなんかしてない。私は絵描きとして、自分の創り出したモノに対する思いが薄いのじゃあないかと悲しくなった。才能ないな、きっと。って。
その後にもう一通、何のときか、I先生からお手紙を戴いた。そこに、I先生はここう書いて下さった。

あなたは、才能がある。そこを、ほんとうに生かしていくことが大切です。

今思えば、こんなにも励ましていただいたのに、私って、何してきたんだろう。

今日、合唱団で、I先生の娘さんと隣同士で歌った。彼女とは教員として今までに何度も話したことはあるけれど、I先生の娘さんとして話し合ったことはなかった。けれど、ひょっとしたことからI先生の話題になった。今、I先生はParkinson氏病で、だんだん体の自由を奪われているのだそうだ。絵筆を、とうとう持てなくなってしまったということだった。それを聞いてものすごいショックをうけた。
私はこんなに自由なのに、いったい何をしてるんだろう。好き勝手に動く両手で、何を創ったのだろう。いったい何をしているんだろう、たくさんの人の示唆や助言や思いやりや温かさを何処に放り出してきたんだろう。私の持っている物を本当に生かさずにのうのうと生きてる私は何だ。逃げ回って楽ばかりして来たこのザマは何だ。

もう一度、きちんと生きて行かなくちゃと思った。I先生がもう表現出来なくなってしまった物を私は私の目で見て私の手で表現しなくては、いま生きている意味がないと思った。


2004/11/26(金):校内マラソン大会

子どもの表情にヤラレタ。たくましく、前を見つめて歯を食いしばって。頬を紅くして、必死に前だけを見て。創り物じゃあない本物の真正直な真剣さ。ゴールに駆け込むときの全力疾走。力を出し切ってもなお前へと心が叫ぶから、足がついて来れるぎりぎりで走る。もう今にももつれそうなその運びにどきりとした。
最終周でようやく1位に躍り出し、2位との競り合いで転げ込むようにゴールしたyu-ya。1位の着札を見て、おもわず声をあげて泣き出した。これが欲しかったんだ、やっとやっととれた。そうだ、1位だ!うれしくてうれしくてどっとあふれてきた涙に、おさえきれずに肩を大きく揺らして泣いている。たった10歳の子どもが、こんなにも精一杯になるなんて。泣き出すくらいに頑張るなんて。yu-yaはもうじき転校する。時々、寂しそうな顔をする。この学校で最後のマラソン大会だったんだね。
「よし、これで決まりだ。yu-yaに会いたいヤツは、陸上練習を頑張って、市の記録会に出ること。そうしたら、きっとyu-yaもそこにいるはずだから」
ね、そうだろ?っと聞いたら、泣きながら、「うん」、と大きく頷いた。そして、ぐっと喉に力を入れて
「ゼッタイ負けねえ」
とyu-ya。そうさ、その意気!
走り終わったら思わずゴロンと天を仰ぐ子。否、腹這いになって地面に突っ伏しているnatsumiとyumi。もう全力を使い果たしてべったりと大地に抱かれているような二人。あごもおでこも可愛く結った髪も、体操着もひざこぞうも砂まみれにして。そう、この屈託のなさがこの子たちの素晴らしさなんだ。
お隣のクラスのtinatsuが、泣いている。どうしたの?とたずねたら、隣の子が
「10位に入れなくて、悔しくて泣いてるんみたい…」
と。そうか、涙が出ちゃうほど悔しくて悔しくて仕方ないんだね。そりゃあ、泣いた方がいいよ。もう、いっぱい泣くといいよ。悔しがるって大切だよ。すごく大事な気持ちだよね。ぐりぐりっと頭をなでたら少し笑った。今日はみんな素直。

教室に戻り、作文を書いてもらった。帰りの会では、とにかく今日は全員をベタ褒めに褒めた。みんなみんな、本当に素晴らしかったよ。
頑張った直後の作文には、充実して満足した子どもたちの言葉がたくさん並んでた。「今年は最高のマラソン大会だった」「自分に勝った」「超気持ちよくなった」「もっと走りたいと思った」
放課後、提出された作文をニヤニヤしながら読み、まるで私が頑張ったかのようにいい気分だった。けれど…

seiyaの作文を目にして胃がきゅっとなった。題名は「出たかったマラソン大会」……。
―――ぼくは、マラソン大会に出れませんでした。はじめて出れなかったので、ちょっとさびしかったです。来年はぜったい出たいです。マラソンをしたら、ぜったいぜんそくをおこしてしまいます。三年の時もぜんそくをおこしました。自分のかんりが悪いのです。五年生のときはぜんそくをおこさないようにします。五年生は、マラソンの練習でぜんそくをおこさないようにします。やっぱりマラソン出ないのはきぶんが悪いです。走ったほうが気持ちがいいです。五年になったらおもいきり走ります―――
seiyaの作文には「ぼくは出たい」「出たかった」という言葉が繰り返し繰り返し何度も何度も出てきた。読み進むうちに涙がこぼれてしまった。私はいつもクラスで、風邪を引くのは自分の体調管理が出来ないのが悪いんだよ、お母さんのせいにしちゃあダメ、と言っている。私自身への戒の念も込めて言っているその言葉をseiyaは真正直に受け止めて自分を責めていたのだ。風邪じゃあなくて、ぜん息なのに。まじめなseiyaには病気を理由にすることが悪いことのように受け取れてしまったんだろう。お母さんやお兄ちゃんからも、明日は習っている空手の世界大会に行くからぜん息の発作が出ないように、今日は休めと強く言われたのだそうだ。出たいといってもやめておけと言われたのだそうだ。いつも大人しい、真面目で優しいseiya。努力の結果を誇り、仲間とたたえ合う子どもたちの中で、担任までが舞い上がったように頑張った子どもたちを褒めちぎるのを、彼はどんな思いで聞いていたんだろう。seiyaが悪いんじゃあないよ、仕方がないんだよ、来年はきっと走れるよ…ああ、私がもっと早くseiyaの気持ちに気付いていたら、ゆっくりとしたペースでいいから参加させて下さいとお母さんに話せたのに。何の役にも立てなかった。ごめんねseiya。
子どもって本当にかなしいくらい素晴らしい。純粋で無垢な心を見つけると何だか自分がずいぶん薄汚れているように思えてしまう。ああ。

そんなマラソン大会。


2004/12/5(日):お風呂うぃずawabi

昨夜はネコのawabiとお風呂に入った。だって草の実だらけだし、なんだか近くの牛小屋と同じ匂いを体中からさせてるの。キミ、一体何処で何してたのさ。
awabiはペルシャとの混血児。もうじき7歳になる。体重約5s。ネコにしては重い方じゃあないかと思う。腕がぶっとい。体中長毛でもこもこ。それがもう外アソビで汚れまくってまるでぼろ雑巾か古モップ。うん。お風呂入ろうね。
じっとawabiを見つめたら、身に迫り来る危機を感づきおったか微妙に及び腰。ふふ。勘のいいヤツ。
で、脱衣室まで体を硬直させるawabiをえっちらと運んだ。服を脱ぐ私を見上げるawabi。状況を悟って、自分から浴室に入る。
「ああ、また風呂かあ?しょうがないなあ付き合ってやるか。でもさ、顔に水かけるなよぉ。アンタ、結構ぞんざいにするんだもんな」
大丈夫、今夜は上手にやってあげるからね。なんて言ってすでにワイン飲んで酔っぱらいの私。そう、だいたいが素面でネコと入浴する気分にはならないワタシなのだった。ふっふっふ。今夜はいいカンジにノってます。さあ、awabi、かくごぉ〜!体全体にあったかいシャワーをかけてシャンプーを塗りたくった。えーい。
ん〜…。なかなか泡が立たない。お湯をかけたら薄汚れた泥色の水が流れていく。うわー!スゴイねえ、awabi!
でも、彼は泣かない。じっとがまんしてるのか、あきらめてるのか。
時々こっちを見て恨めしそうに語りかける。
「おい、いつまで毛皮なで回してんの?なあ、この匂いって何だよ。鼻がムズムズするゼ?ねえ、おれ、水って嫌いなんだけどさ、ガマンしてやってんだ。手早く頼むよ、な」
しこたま泡立てた。シャワーを勢いよくかけたら、アメリカセンダンギクの細いカギ爪を持った硬い種がすいすいっと流れていく。でも、まだまだ体をなでてみるとちくちくざらざらと手に触る。ブラシでこすってもこの細長い実は取りきれない。ええい!湯船に入っちゃえ〜!
awabiを抱いて一緒に湯の中へ。一瞬、さすがの彼もたじろぐ。
「おい!オレを溺れさせようってのか!?」
いんや、ダイジョブよ、一緒だからさ、ね。ほらいい気持ちでしょ、ほら、フワフワと草の実が浮かんできたゾオ…。
awabi、あせりつつもツメを出さずに手のひらで私の肩にしがみつく。そう、ツメを出さないのがawabiのえらいところ。こう言うときに我が家で飼ってた他のネコは慌ててもがいて人間をひっかくのが常だった。
湯船に浸かって、しばしの間。腕の力も抜けて、なんとなくくつろぎ状態のawabiとなる。
「ふうう。ま、いい湯じゃないか。ちょっとあせったけどさ、ま、オツなもんだよな」
膝にawabiをのせてユラユラとお湯を波立たせたら、フワフワのawabiの毛皮が湯になびいてる。キレイだなあ。

てなわけで、今夜はやや湿り気味のawabiとベッドイン。デロンギヒーターのおかげで夜半にはふわりとしたお上品なネコにもどっておった。


2004/12/7(火):幻のB級グルメ

伊勢崎市民なら一度は耳にしたことがあるのではないかという、超レアな幻の屋台。とある神社の南にあるお寺裏の空き地にお昼くらいに現れて3時くらいには完売店じまいしてしまっていたと言う。その商う品は「神社コロッケ」。
ん?なになにぃ?じゃあそこはお寺の敷地でしょう?それなら、「お寺コロッケ」じゃん。始めてこの話を聞いたときはなんだか脳みそがねじれるような奇妙な気分になった。さらに奇妙なことには、そのコロッケは厳密に言うとコロッケとも違うのだという。はぁ〜?!なんだってぇ?
神社じゃないところにある、コロッケじゃあない物が「神社コロッケ」。ああ、感動のぱらどっくす。
話によると、そのコロッケはもうずっと昔から伊勢崎市中心街にほど近い、そのお寺裏の空き地に昼頃にやってくる屋台で売られていたらしい。屋台と言ってもリヤカーを改造したもので、おじいちゃんとおばあちゃんが二人でこぢんまりと開いていたらしい。そして、おじいちゃんが黙々とコロッケ(?のようなもの)を揚げ、かかあ天下の本場上州の勇ましいおばあちゃんがダミ声で客をさばいていたのだとか。客はその屋台を見つけると長蛇の列をなし、一人が30枚40枚と購入していたのだとか。できあがったコロッケはその場でびしゃびしゃのウスターソースと思しき物にくぐらされて、独特のソースの香りが食欲をそそりまくったそうな。コロッケ本体はなんか、「もちもち」してるのだって。え?ほくほくじゃなくて、もちもち?……う〜ん…。

その話を聞いたときは、なんだかアンダーグラウンドな匂いを感じた。超ローカルでディープな暗い衝動に突き動かされた食欲の物語。ああ、なんといっても、キーワードはおばあちゃんのダミ声と、コロッケという洋食の典型に「神社」をくっつけてしまう隠れキリシタンぶりだろう。それは食べたい。いや、ぜひダミ声おばあちゃんと黙々おじいちゃんにお目にかかりたい!
しかし、そのお店はもう1年近く開かれていないと聞いていた。なにぶん、お二人とも80歳を越えるかというお歳なので…と聞いた。うー…残念だ!

しかし!見つけたのだ。出張に出かけた展覧会会場の近くに。通りかかったのは出張にて会場受付係を終えて職場に帰らんとしてたお昼時は12時頃。信号待ちの列でふと停車した道ばたになにやら賑わいを感じた。ん?なに?
店の前には10人ほどの行列が出来ている。青いのれんに白く染め抜かれたその文字には確かに「じんじゃコロッケ」と書かれている。へえええ?こんなとこであの神社コロッケを売っているの?コピー商品?屋台の姉妹店?(んなものあるのか?)…にしてもこんなとこに平日の昼間からこれだけの行列ができてるってただごとじゃあない!
でもその時はまだ勤務時間内だったし、がっこにもどってがきんちょたちの給食指導しなきゃだしって事で、横目でじいっとみつめながら青信号にしたがって車を出した。よお〜し、次の出張は夕刻だし、そこを狙うぞぉ…っと密かに企みつつ。

で、本日。同じ道に通りかかったのは午後4時50分。後10分で勤務時間も終わるし、30分の時間調整を含めればもう直帰してもいい時間だ。心おきなく並んでやろうじゃあないの。Hey!Come on!Shrine-croquette!
夕暮れ時の車道際に、すでに7,8人の人が肩をすくめて並んでいる。私もその行列についた。店の名は小諸庵。車道に面した大きな硝子窓から、お店の中の作業の様子が丸見えの作り。おばちゃん2名。おじちゃん1名。黙々とコロッケの中身と思しきネタを大きめのコッペパン状に捏ね、端から包丁で薄く切り分けてパン粉を付ける人と、ひたすら揚げて、ソースにくぐらす人と、パックにつめてお会計をする人と。残念なことにだみ声おばあちゃんも黙々おじいちゃんも見あたらないが、ウインドウに貼られたポスターにはそのおじいちゃんがコロッケのネタを仕込む写真がレイアウトされていた。「11月3日。当店にて1年ぶりに復活!神社コロッケ!」なんていうキャッチもついている。ひええ。神社コロッケ専門店だあ。お品書きはコロッケとポテトフライといか天。コロッケは50円。いかはモンゴウイカのような肉厚の切り身を大胆にごろんごろんと揚げている。うひゃあ。そしてお客のみなさんの注文はと言うと…
「コロッケ30枚といか20個ちょうだい」「コロッケといか3:3づつで8個の包みにしてくれる?」「コロッケ50枚で」
頼む数が尋常じゃあない。どう考えても一家で食べる数じゃないだろ。ご近所さんへのおみやか、職場への差し入れか…。お店の人も頑張って揚げまくっているのだが、いかんせん、油の鍋が小さすぎる。この能率の悪さ、さすが神社コロッケだ。と、妙に感心して責める気すらおきない。
かれこれ2〜30分も待ったろうか。ようやく私の番が来た。ここで「1枚下さい」なんていうのもどんなものかと思わされてしまった私…。どうせ学校に戻るんだし、そもそもうちの学区内の名物コロッケだったんだ。もうこれは地域の教材研究でしょう!教師なら食べなきゃあ!と勝手ないいわけをつけ、かわいく20枚頼む。アツアツを持って帰って職員室に残ってる人たちと食べよっと♪

てなわけで、職員室の反響は…
「なつかし〜い!もう食べれないんだと思ってた!」「すご〜い!これ、なかなか買えないのよ〜」「おいし〜もちもちしてるねえ」「ねえ、どこどこ?どこに売ってたの?」「いやあ〜、オレが子どもの頃はさあ…(以降昔話)」
…おおさわぎ。
さて、私の感想は……。うん。B級だ。満足。


2004/12/18(土):気がつけば

もう年末じゃないか。って気付くの遅すぎ。でも今日、頑張って通知票の所見も書き上げたし、授業も順調に終わりそうだし、まあまあって感じだよね。この2週間、完徹×2+2時間睡眠×3をこなしてもう一気に老け込んだ気分だが、まあ、それもよしっっっっってなカンジで、順調にこの年の瀬を生きてる私だ。ふう。

来年の誕生日でいよいよきょーふの大台に乗るのだが、まあ、それもまたよし。なんか、人生を楽しむのに年齢とかお金とか地位とか名声じゃなくココロのありようが何より重要なんだってことと、人とのつながりがすごく大切って事が見えてきた。歳取るのはダテじゃあないぜ。えへん。
誕生日と言えばその記念すべき大台の1月22日に、教育研究集会がある。そこで、なんか知らぬうちに、私がリズム構成のことで発表することになってるらしい。「らしい」なのだ。なにせ、私、一言も「うん」と言ってないのに決まっちゃうんだもん。あのね、お誕生日なんだからね、みんな。わかった?わたしの発表聞きに来る人は、何かいい物用意しといてね。ケーキとかさ、プレゼントとかさ。ふん。

来年は楽しい忙しい一年になりそう。バンドも再開したし、合唱団のコンサートが2月26日と7月29日と、もう一つの合唱団のが8月んー…何日だったかな。ぞうつかいのおばば(?)役で2回も舞台に立てる。うれし。

ああ、年末だ。空には星が降り続ける聖夜も間近。 きよし このよい。


2004/12/31(金):2004年の足跡を眺めてみる

さあ、もうすぐそこに新しい年がやって来た。ちょっと手をさしのべればよいしょっと届くほどのすぐそこに。

今年は私にとってどんな年だったかな?なんて、反省しながら振り返るような素晴らしい性質の私では全然無いのだけれど、ぼんやりと歩いて来た道筋を振り返り眺めておくのもいいかなと思う。
ようやくに職場復帰して、子どもたちと悩んだり話し合ったりするのが楽しくて仕方なかった1月。立て続けの生徒指導で頭の中は常に子どものことばかり。夢の中でも中学生と話し合ってた。
卒業式に向けた服装指導でイライラいっぱいになってた2月。なんとか子どもの人権を尊重しながら生徒指導が出来ないものかと、指導者としての立場と、クラスの一員としての立場の中間点を上手くすり抜けながら子どもたちと考えることに日々を費やしていた。納得のいく生徒指導って何だ?押しつけの髪型・お仕着せの制服。でもその中で、子どもも私も折り合いの付けられる指導が出来ないかって、一人で悶々としてた。でも、生徒にはなるべく飄々と笑顔で話せるように…。答えはまだ見つからない。尻切れトンボの勤務だったから。
3年生と別れるのが辛くなっている自分に驚いた3月。そして、あろう事か、大好きな赤ジャージの子どもたちともこれでお別れなんだと知った日の虚ろな気持ち。やっぱり私は中学生が好きなんだなって痛感した。頭に来ることばかりのガキんちょどもめに、本当は私が支えられていたんだ。部活の方向性もようやく見えてきて、よし、これからだと思ったら、いきなり乱暴にぶちりとプラグを引っこ抜かれた。
信じられないほど落ち着きのない子どもたちがどかんとつまった教室に飛び込んだ4月。今まで2000人近い子どもたちと出会ってきた教職経験の中で、これほど集中力のない子どもたちをはじめて見た。試行錯誤と闘いの始まり。そして、この子たちが、素晴らしく機動力とやる気を持てあましていることに気付いた。
明けても暮れても「合唱劇カネト」に没頭の5月。そしてあのあふれる照明の下で、眼前にカネトの世界がくっきりと、そしてめまぐるしく去来していた2Stage…その時から体調を崩し始めていたのだけれど気付かなかった。
6月7月はとにかく学級の子どもたちの問題に追われ続けた。根本から、発想から、何かが違う、という肌に馴染まない不快感を感じ続けていた。ただ、幼いということではなく、何かが決定的に間違っている。一言で言うなら「本物とは何か」を知らない子達だ、と感じていた。心の底から、そして体全体で、「面白い!」と痛感できるような体験をさせたいのに…。そう思い続けていた。
8月は走った。とにかく走った。色んな事をふっきりたくて走った。体にまとわりつく濁った服をはぎ取りたくて走った。そして9月。
運動会でリズム構成「オンチャと三コ」に取り組んだ。一生忘れられない作品がまた一つ増えた。子どもたちはへとへとになりながら、喜びに満ちた顔をしていた。嬉しさの中で、私は気付かぬうちに心身共に病んでいた。
10月…医者に支払った金額を計算してみた。………入院してた方が安かったんだな、きっと。でも、学校から遠ざかりたくなかった。ここで子どもたちを放り出す勇気がなかった。信頼していないのではなく、あまりに中途だったのだ。しかも、良い兆候がそこここにたくさん見えて来つつあったのだ。手放したくない。だから、心が向く先を突然に遮り築かれたBarricadeを何が何でも乗り越え、ぶちこわしたくて必死になっていた。
11月。ようやく見えてきた風景に、自分の足がかりを見つけた。黙って支えてくれる手の中で、きちんと立って歩くぞ、と身震いをしてみたら、いつの間にか自分を取り戻していたことに気付いた。棘は抜けないまま、傷は癒えないまま。それでも大丈夫、やっていくぞって決意した。見えない壁の向こうにそしらぬ顔で語り続けよう。何のことはない、私は私流のステップしか踏めないのだ。それを上手に踏み続けるより他に方法を知らないのだ。だからもう煩わされてばかりはいまい。
12月。クラスの子どもたちがきちんと前を向くようになっていた。もっと勉強したい!と言う子が増えてきた。淡々と過ぎ去る日々のいかに大切なことか。時間はかかったけれど、時間をかけてよかった。

この日記に助けられもした。心の中で歯車が軋む音を立てるとき、日記を書いていると少しだけ軸の歪みが戻るのだ。きっと。そしてまたゆっくりと回り出す。さて、2005年へ。


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