・・・ キャンパスに残る廃なもの(U) ・・・

 明治大学生田キャンパスと 東京家政大学板橋キャンパスにつづいて、 慶應義塾大学日吉キャンパスに残る戦争遺跡についてのレポートです。 横浜市港北区日吉台のここには旧帝国海軍の連合艦隊司令部のおかれた地下壕がありました。

 「日吉台地下壕」というのですが、その保存の会が主催する見学会に参加いたしました。
 
(2010年 2月記)

 【慶應義塾大学日吉キャンパス】
 東横線の日吉駅の駅前に慶應義塾大学日吉キャンパスがあります。このキャンパスのある場所は 周辺よりやや小高くなっていて東海道新幹線がこの部分をトンネル(日吉トンネル)で通過しています。
「日吉台地下壕」の地図
 本来、海軍の司令部など中枢の機能は海上の艦隊旗艦上にあるべきものですが、太平洋戦争末期には 主要な艦船を失いつつもなお、本土決戦に備えて陸上に上がり作戦指揮を行うようになったのです。 そして選ばれたのが大本営のある東京や横須賀軍港に近くて、堅固な建物がそのまま利用でき、 空襲を避ける地下壕が掘りやすく、しかも無線の受信にも都合のよい高台であるこの日吉台なのです。
 上の地図の@が今回見学できた連合艦隊司令部(海軍総隊司令部)のあった地下壕です。 Aは第一校舎に入っていた情報部の待避壕、Bは海軍省人事局の地下壕、Cは日吉の丘公園一帯に掘られていた 艦政本部地下壕です。(ただし、@の東側部分とA〜Cは立ち入ることができません。)
慶應義塾大学日吉キャンパス
 日吉駅東側の正面には緩やかに上り方向の銀杏並木があります。約100本のイチョウの木が幅22m、 長さ220mで4列に植えられています。おそらく昭和初期の開校当初からあったものと思われます。 (1934年、日吉キャンパス開設時に植えられたとのこと)
 右手に陸上競技場があり、この場所でも本大学予科学生の学徒出陣壮行会が行なわれたとのことです。
慶応義塾高校の建物
 正面右手に現在は慶応義塾高校となっている第一校舎の建物があります。白塗りの堅牢な建物です。 校舎の壁面(右の画像の右壁、入口上部)には建築年である1934と2594の数字の入った レリーフがありました。1934は西暦で2594は皇紀です。 昭和9年に建設されたということです。(注:皇紀は神武天皇の即位を元にしています。 ちなみに今年(西暦2010年)は、皇紀2670年です。)
 
大東亜共栄圏を示しているモニュメント
 そしてその下にカップのようなモニュメントがありますが、よく見ると日本が中心のアジア地域の地図です。 大東亜共栄圏、八紘一宇を示しているとのことです。(注:八紘一宇とは「日本を中心(一宇)に、 世界(八紘)を統合すること」の意味で当時の戦争遂行スローガンとなっていました。)
 この校舎には海軍情報部が最初に入ってきました。これを皮切りに次々と海軍が入ってきて、 巨大な地下施設を作り、終戦の日まで活動を続けることになるのです。
日吉台地下壕の入口
 やがて学生は学徒出陣で戦場に行き、あるいは勤労動員で工場に行ったりと教室に余裕ができ、 対して海軍の占める割合が増えていきました。
 第一校舎を曲がりこんで階段を降りると蝮谷(まむしだに)というところになります。 階段の途中から右の山すそに沿ってさらに進むと地下壕の入口がありました。
日吉台地下壕の内部
 入口からは一旦急傾斜で下り、数10mほど過ぎたあたりからは水平になります。 距離にして300mほどはあると思いますが曲がりながらも学生寮(寄宿舎)の真下あたりまで続いています。 コンクリートブロックを積み重ねている跡や両脇の排水溝、通路下に埋められた排水用土管と マンホールなどが見られます。(照明の都合でうまく画像に残せませんでした。)
日吉台地下壕の内部
 とにかく堅牢に造られています。地下壕の中はいくつかの分岐があって、ところどころに地下施設としての 司令長官室、作戦室、電信室、暗号室、そして発電室などがあったそうです。 例えば作戦室は幅4mで奥行きが20m、高さも4mあります。ここの照明は当時民間では全く使われていなかった 蛍光灯が取り付けられていて、かなり明るかったそうです。
日吉台地下壕の内部
 戦争も末期のころですから戦況は悪化の一途をたどり、悲壮な討論を重ねて前線への命令を 下したことでしょう。そして電信室では、集中攻撃を受けて沈没していく戦艦大和からの様子や、 海軍地上部隊の戦況、特攻機が敵艦船に体当たりするときの通信などを受信していたということです。
日吉台地下壕の内部
 ここの地下壕は浅川地下壕(高尾)や赤山地下壕(館山)に比べて規模が大きいです。 しかもいずれも素掘りだったのに対し、立派なコンクリート仕上げです。通風孔もあり、 トイレは地下水を利用した水洗式で下水道も完備していました。

 一方、大学敷地の南端には学生寮(寄宿舎)がありますが、 この建物も1937年(昭和12年)に完成していてその設備の優秀さから連合艦隊司令部として使用されました。
日吉台地下壕の耐弾式堅穴抗
 学生寮は3棟ありますがそれぞれ約6畳の洋式個室をもち、当時としては非常に珍しい パネル・ヒーティングや水洗トイレが備わっていたそうです。高台のため眺望もよく、 地の利を生かした円形のしゃれた風呂(ローマ風呂)もあったそうです。 (注:この付近は私有地のため立ち入れません。また写真撮影はできません)
 この地上の司令部からも地下壕へ直接降りる階段があったとのことです。そして、 唯一地上で見られる構造物ですが、地下壕に繋がる「耐弾式堅穴抗」があります。 茸(きのこ)型の出入口ですが「弥生時代住居址群」のところにあります。

 日吉に造られたその他の海軍の地下壕ですが、埋もれたままです。戦争遺跡としての保存が望まれます。
 例えば「日吉の丘公園」の艦政本部地下壕については東西に伸びる10本の地下壕があり、 その間がアミダくじのように結ばれていたそうです。ただ、終戦の日の前日に完成したため使用されませんでした。 現在は埋め戻されたりして立ち入りができません。

 また、日吉の北西、約2kmのところに川崎市の蟹ヶ谷がありますが、 ここにも海軍の施設と地下壕がありました。東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊です。 周囲に比べてやはり小高くなっていますが、ここに現在東京航空局の通信塔(下の画像)があります。 戦時中は6本あったそうですがその内の一本が再利用されているそうです。蟹ヶ谷分遣隊では 敵国の通信傍受がおもな任務でした。
東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊
城法谷に残る地下壕
 そしてその通信隊からほぼ西の城法谷(じょうほうや)という谷筋に地下壕が残っているようです。 この付近は高津区久末という地名になっていて、城法谷という古い地名は小さな公園にその名を残すだけになって いました。この地下壕は「耐強受信所」といい昭和18年〜19年に造られています。 厚さ40cmのコンクリートでアーチ状になっていたそうです。 川崎市平和館(中原平和公園内)の展示資料によれば3か所の入り口と通信室、発電室がありました。
城法谷に残る地下壕入口
 しかし付近の開発によって地下壕も一部破壊されているようです。残った部分については現在補強され、 保存されているようなのですが公開はされていません。 遺構としては3箇所あった出入り口のうちの一つがかろうじて見られますがどれかはわかりません。 また埋もれているためかとても地下壕入口には見えません。そばに説明板がありました。 川崎市平和館に分遣隊地下壕の縮尺模型が見られます。

 明治大学生田キャンパス東京家政大学板橋キャンパスの場合はもともとその地域に軍関係の施設があって、 戦後、そこに学び舎を求めて大学が移ってきたのですが、慶應義塾大学日吉キャンパスの場合は学び舎が 旧海軍の都合によって転用されてしまったのです。
 終戦直後から日吉キャンパスはGHQに接収されてしまい、授業ができなくなっていましたが、 昭和24年になってようやく返還され、学生たちも戻ってきました。

   【参考文献】
 (1) 戦争遺跡を歩く「日吉」(日吉台地下壕保存の会編)
 (2) フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕(日吉台地下壕保存の会編)
 (3) 日吉台地下壕保存の会
 (4) 川崎市平和館展示資料
 (記述の中に誤りや疑わしい点がございましたらご面倒でも管理人までご連絡ください。)

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