・・・ キャンパスに残された廃なもの ・・・

 川崎市多摩区生田の丘の上には明治大学生田キャンパス があります。ここはかつて陸軍登戸研究所のあったところで、今なお当時の建物が残されています。

 そしてもう一ヶ所、東京家政大学板橋キャンパス には東京第二陸軍造兵廠の面影の残る建物が保存されています。
 
(2006年12月 記)
(2008年10月 加筆修正)
(2009年09月 東京家政大学追記)
(2010年04月 登戸研究所資料館について追記)
(2011年03月 登戸研究所5号棟解体について追記)

 【明治大学生田キャンパス】
 小田急線の生田駅を降り、東に徒歩約10分のところに明治大学生田門があります。 この先の丘の上一帯が旧陸軍第九技術研究所、またの名を登戸研究所という施設のあったところです。 戦後の一時期、慶應義塾大学が仮校舎として使用していたこともありましたが1964年(昭和39年)に 明治大学が移転してきました。
明治大学生田キャンパス
明治大学弥心神社
 生田門から右手に向って坂道を登っていきます。上りきって校舎エリアにでたところの右手に 神社があります。明治大学の案内には生田神社となっていますが、弥心(やごころ)神社というのが 本来のものと思います。(末尾参考文献)
 小さな神社ですがその境内には「登戸研究所跡碑」と標された石柱が立っています。 ただ、「登戸研究所」というのは俗称であって正しくは「陸軍第九技術研究所」と表すべきかと思われますが、 研究内容が秘匿を要するためというだけにその存在すら秘匿とされ、 正式名称は伏せられたのだということです。ともあれ、研究中の事故などでなくなった所員を祭るために 建立された神社ということです。
登戸研究所動物慰霊碑
 一方、大学の東の正門寄りには研究のために犠牲になった実験動物のための「動物慰霊碑」(右) があります。昭和18年に建立されたということですが動物の慰霊というには不相応に大きいものです。 それにはわけがあって、人体実験犠牲者の慰霊碑を建てるわけにはいかないので このようにしたのだと考えられています。毎年学園祭のころには慰霊祭が行なわれるとのことでした。
(平成22年4月:この慰霊碑の背後にあった家が取り壊され、更地になっていました。 このため碑の裏側に彫られた「昭和18年3月 陸軍登戸研究所建之」の文字がよく見えるようになりました。 「建之」は、墓あるいは碑に限られた言葉で“これをたてる”あるいは“こんりゅう”とも読むようです。)
陸軍のマークのある消火栓
 キャンパス内を正門から西に少し進むと大きなヒマラヤ杉の並んでいる空間に出ます。 ここに研究所の本館があったということで本館前のロータリーとヒマラヤ杉は当時のものとされています。
 そしてキャンパス内メイン通路に陸軍の象徴である星のマークの入った消火栓を見ることができます。
陸軍のマークのある消火栓
 一つは左の画像のもので図書館の前にあります。そしてもう一つは学生会館の前にありますが (右の画像)半分が地中に埋まってしまっています。しかしそれでも大切なものを残すかのように 四角く囲まれてその存在が忘れられないようになっていました。
登戸研究所5号棟
 南側の農学部校舎である第一校舎1号館に向うとその手前に登戸研究所の遺物が見られます。 向って右側が研究所の5号棟(左の画像)、そして左側が26号棟です。いずれも当時は高い塀に囲まれていて、 研究所内部でさえもさらに秘密にされていたということです。
登戸研究所5号棟
 5号棟は木造平屋建てで建物そのものはすでに老朽化が著しく進んでいました。 実際内部を見ても使用されているようには見えず、物置としてそのまま朽ち果てるのを待つばかりのようでした。
登戸研究所5号棟
 この建物の中では当時大量の偽造中国紙幣が印刷されたといいます。正面入口には 「5号棟C実験室」という手書きの表札がかかっているほか、建物側面にも実験室○○との表記がありました。
(平成23年2月:5号棟の解体工事が開始されました。 偽札は総額約45億元分印刷され、約25億元分が中国上海に運搬され流通されたとされています。 運搬は主として情報戦闘員養成所である陸軍中野学校出身者が担当したとのことです。 また中国経済混乱への効果については見解が分かれているようです。【以上、朝日新聞記事より】)
登戸研究所26号棟
 もう一方の26号棟(右の画像)も木造平屋建てですが老朽化どころかさらにも増して廃墟そのものでした。
 製版・印刷された偽造紙幣の倉庫として使用されたとのことですが、ツタにびっしりと覆われた姿は あたりの校舎と対比したとき何とも異様な存在に見えます。
登戸研究所26号棟
 なぜ、偽札づくりを行なったかということですが、太平洋戦争に先立つ日中戦争の際に 中国に大量に偽札を持ち込み、中国紙幣の価値を下落(インフレ)させ、経済を混乱させようとしたものです。
登戸研究所26号棟
 気になる点はこの26号棟が工事用の三角コーンとトラロープで囲まれていたことです。まさか、 解体工事が始まる、なんてことは・・・。
(平成22年4月:すでに26号棟は解体され、更地になっていました。 26号棟の模型や、建築部材の一部は「登戸研究所資料館」に展示されています。)
登戸研究所36号棟
 キャンパスの西南門近くにあるコンクリートの建物は36号棟といって、ここでは生物・化学兵器の 研究開発が行われていたとのことです。物騒なものが開発されていたのですが現在では農学部の研究室として、 なぜかバイオ関係の研究に使用されているそうです。
 (現在、各方面の努力によりこの建物を「登戸研究所展示資料館」とすることが計画されています。 (2008年10月))
登戸研究所資料館
 (平成22年4月:36号棟の外壁を塗り替え、周辺を整備してリニューアルし、 「登戸研究所資料館」として設立されました。資料館には登戸研究所の活動の歴史や研究内容が 丁寧に展示されています。当時の建物を活用しているため各部屋にある洗面台が印象的です。 暗室の様子も再現されています。)
登戸研究所弾薬庫跡
 キャンパス内には弾薬庫も残されていて、その一つが36号棟の向かい側の通学路から見える位置にあります。
 弾薬庫とはなっているものの実際には研究所で作られた缶詰爆弾、かばん型カメラ、蛇毒注射器、 毒入チョコなどが保管されていたとのことです。
登戸研究所弾薬庫跡
 (平成22年4月:同じ弾薬庫だとは思いますが、 こちらはあまり公にされていません。花卉園芸同好会の学生さんが使用した形跡もありますが今は塞がれています。)

 登戸研究所では「く号兵器」(くわいりき光線=怪力光線)や「ふ号兵器」(風船爆弾) の開発も行なわれていました。
 風船爆弾とは和紙をこんにゃくで幾重にも張り合わせた気球(直径10mほどの風船に 水素ガスを満たしたもの)に爆弾(焼夷弾)をつるし、千葉県一宮や茨城県大津などの太平洋岸から ジェット気流に乗せてわずか2日ほどでアメリカ本土を襲うものです。 自動高度保持装置や重りとしての砂袋ものせていました。戦争も末期のころ風船爆弾は大量に発射され、 いくつかは到達したということですがその被害については報道規制のため日本側に伝わることがなく、 失敗と判断され中止されました。(実際には7人の犠牲者が出ています。)
   【参考文献】
 (1) 知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社MOOK)
 (2) 旧陸軍登戸研究所見学のしおり(保存を求める川崎市民の会)
 (3) 旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会
 

 【東京家政大学板橋キャンパス】
 石神井川沿いの東京家政大学から帝京大学(医学部)にかけての一帯は旧陸軍の東京第二造兵廠が あったところです。
 東京家政大学は本郷湯島に私塾「和洋裁縫伝習所」として1881年(明治14年)に創設されました。 女性としての教養を深め、新しい時代を担うべく育成をめざしている学校ですが関東大震災と 東京大空襲の二度にわたって校舎を焼失してしまいました。このため空襲の翌年、 1946年(昭和21年)に現在の板橋校舎へ移転しました。東京第二陸軍造兵廠の建物を利用して 授業を続けたのです。
東京家政大学内陸軍造兵廠の建物
 JR埼京線十条駅から徒歩10分弱で120周年記念館の聳え立つ東京家政大学の正門に着きます。 (あらかじめ許可を得て見学させていただきました)
 緑の多い構内を進むと雑木林の中にレンガ造りの建物が現れます。 「21号館生活科学研究所」として使用されている建物です。重厚な赤レンガ造りが特徴的ですが、 窓や内装は付け替えられ空調設備などの配管が後付で設置されています。
東京家政大学内陸軍造兵廠の建物
 低い位置にあるレンガはやや黒っぽい色をしていますが、これは焼き過ぎレンガと呼ばれて 通常の赤レンガよりも強度と耐久性に優れているため建物をより強固にしたと思われます。
東京家政大学内陸軍造兵廠の建物
 近くにはもう一棟、「22号館造形表現学科実習室」の建物がありました。片流れ屋根の赤レンガ造りです。 少し前までは白いモルタルがレンガの上を覆っていたのですが文化財の指定を受ける際に剥がしたとのことです。
陸軍造兵廠の建物内部
 この実習室の内部では屋根までの高い天井に鉄骨の梁が見られ、クレーン用の鉄骨も 一本だけですが残されていました。おしゃれなアトリエの雰囲気です。ちなみにこの周囲に樹木が多いのは 上空の爆撃機から建物を隠すために植えられたものが今に残っているとのことです。 また両建物の間の駐輪場になっているところにもにレンガ棟があったとのことです。
東京家政大学内陸軍造兵廠の建物
 敷地の奥のほうの少し下がった位置には「58号館旧山吹寮」がありました。 現在は休憩室のように使用されているとのことですが、3棟の中では最も軍施設らしい外観です。
 見にくいのですが木でできた電信柱が一本ありました。
東京家政大学内陸軍造兵廠の建物
 東京第二陸軍造兵廠は火薬の製造所であり、火薬はもちろん機関銃や大砲、風船爆弾などの製造も 行われていたといいます。このため堅牢な外壁に比べ、天井は万一爆発した際にも屋根だけが飛ぶように 軽くつくられていたそうです。

 2005年8月17日の朝日新聞多摩版特集記事「戦跡は語る」に以下の記述がありました
『板橋区加賀の東京家政大学のキャンパスは、元陸軍東京第二造兵廠の敷地にある。 今は名残の赤レンガの建物3棟が、生活科学研究所、乳幼児を保育するナースリールーム、 学生寮の調理師らの控室として、それぞれ現役で使われている。同校は1881年(明治14年)、 本郷の地に誕生したが、東京大空襲で校舎のほとんどが焼け、現在の地で工場だった赤レンガの建物10棟を そのまま教室として使用し復興した。』(以下省略)
 
 板橋校舎のスタート時はほとんどが旧陸軍の建物でしたが、徐々に改築・増築が進み 当時の面影を残すのは3棟のみとなりました。そしてこのレンガ校舎3棟はいずれも2008年5月に 板橋区から有形文化財(建造物)の指定を受けました。

   【参考文献】
 (1) 知られざる軍都 東京(洋泉社MOOK)

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