・・・ 南房総・戦争遺跡ツアー ・・・

 南房総に残されている東京湾防衛のための戦争遺跡を訪ねました。 始めに@大房岬の要塞跡を、 次にA館山海軍砲術学校跡B館山海軍航空隊の地下壕跡C128高地「戦闘指揮所」地下壕跡を、 そして最後にD洲崎に残る砲台跡を紹介します。
 
(2007年11月記)
(2016年12月C追記)

 【大房岬の要塞跡】
 この画像は「大房岬(たいぶさみさき)自然公園」のビジターセンター内にあったジオラマを 撮影したものです。東京湾に突き出したこの岬に砲台が据え付けられ、探照灯格納庫や弾薬庫などの 要塞施設がありました。


 大房岬は現在自然公園として生まれ変わっていますが、軍事施設の多くのものが残されていて 自由に見学することができます。また一部を除き保存状態もよいといえます。

 公園駐車場から少し歩いて展望塔に近づくとその真下に海に向って二つの砲台跡が見られます。 一つは花壇として利用されていました。

 もう一つは海の見える展望台として活用されていました。そしてそれぞれの砲台跡の近くに弾薬庫があります。 この画像は弾薬庫の入口です。

 ビジターセンターの方向に歩くと「要塞跡地」と記された看板が出てきて、 左の画像のような建物に出会うことができます。この建物の側面にも入口があり中に入ることができます。


 ここは探照灯施設の一部なのだそうです。

 建物は窪地にあり、この建物の正面に対面するところにも穴が開いていて少し下り気味のトンネルがあります。

 探照灯の照明座跡の入り口ということで、入ってみると50m位先に右のような画像のところに出ます。 複雑な構造をしていましたがエレベータ式に格納できる探照灯があったそうです。

 ビジターセンターのすぐ隣にも古い建物と倉庫がありましたが火薬庫や兵器庫だったようです。 今は物置として使用されていました。

 ビジターセンターには大房岬の歴史に関する展示もされていますが小銃弾薬箱が展示されているのが 印象的でした。

 ビジターセンターから海岸方向に下っていくと水の湧き出している池があり、 そこはまた別の弾薬庫になっていました。入口は二つあって丘の上に通気孔もありましたが中は浸水しているようです。

 そしてその先に見られるのがこの建物で「要塞跡地発電所施設」と表示されていました。 入口は埋められていて入ることはできません。正面の樹木と共に時の流れを感じさせま す。 

 さらに海岸まで下りていくとコンクリート製のレールが海岸から海に向って据え付けられているようすが 見られますがここが魚雷艇の発進所跡ということです。

 あたり一面はキャンプ場などの自然公園で、 この日も海岸園地で磯遊びをする子供たちの歓声が響いていました。


 【館山海軍砲術学校跡】
 館山市佐野、国道410号線沿いの房南中学校から東の一帯に館山海軍砲術学校の跡地があります。 田畑の広がるなかにぽつんとあるのがこの「平和記念の塔」です。 平成3年にこの学校にゆかりのある人たちによって建てられたものです。


 すぐそばに錆びてはいますが小型の大砲が展示されていました。 平砂浦海岸一帯(南房パラダイスのあるところ)を演習場として使用していたそうです。

 そしてもう一つ、近くの畑の中には砲術学校のボイラー室だったという建物のレンガ造りの外壁だけが 残っていました。唯一の遺構だと思いますが美しい赤レンガでした。
 房南中学校の北側にはプールがあるはずでそこでは落下傘降下訓練が行われたという場所なのですが、 金網が張られていて入ることはできませんでした。20mの高さの塔の上から訓練兵たちが突き落とされたということです。



 【館山海軍航空隊の地下壕跡】
 続いて同じ館山市の海上自衛隊館山基地の近くにある戦争遺跡、赤山地下壕と掩体壕を紹介します。
 海上自衛隊館山基地の場所には元の館山海軍航空隊が置かれていました。 1930年(昭和5年)のことです。そして1945年(昭和20年)、終戦直後の9月3日、 この基地の東北端に米軍が上陸しました。わずかな期間(4日間)でしたが軍による統制が行われたということです。

 基地の少し南にちょっとした小高い山の宮城公園があり、そこに赤山地下壕がありました。 戦争末期の1944年(昭和19年)ごろ急いで掘削し、主に防空壕として使われたものといわれています。 (地下壕前の案内板より)

 公園入口にある事務所に地下壕見学の申し込みをするとヘルメットを貸してもらえます。 懐中電灯を用意して中に入りました。電灯照明があり足元も平坦なのでで危険なことはありません。

 それでも側面の穴は暗いため懐中電灯は必要です。掘りぬいた岩に描かれた地層模様が印象的でした。 一部には断層の跡も見られます。縦横複雑に枝道があり地下壕の合計長は約1.6kmということでした。

 地下壕を出て公園の西側をたどっていくと畑の中にコンクリートの小さな丸いものが見えてきます。 これは掩体壕のお尻の部分で少し下ってゆくと入口があります。

 掩体壕のこの形は海軍特有のもので調布などで見たものとは少し違います。

 さらに近くには洲ノ埼海軍航空隊の射撃場跡があるはずですが、 アプローチの道がわからず確認しませんでした。



 【128高地「戦闘指揮所」地下壕跡】
 海上自衛隊館山基地から南の山側に向かっては周辺とは異なる直線の道路があります。 館山海軍航空隊の施設や滑走路だと思われます。そしてそのはずれの山の中腹には「128高地」と言われた 戦闘指揮所の地下壕があります。
 (なお、現在この場所は福祉施設の敷地内のため一般公開されていません。 NPO法人安房文化遺産フォーラムの学習により入場しました。)

 赤山地下壕は素掘りで地層が見えていましたがこちらは薄いコンクリート張りです。 ところどころ劣化で崩れています。「128高地」とは作戦図に記載された山の呼称のようです。

 中に進むとすぐに「戦闘指揮所」と書かれた額の掛けられた場所になります。 この額には「昭和十九年十二月竣工 中島分隊」となっていました。戦争末期の本土決戦に備え、 敵上陸を阻止するための抵抗拠点として設置されたとのことです。

 さらに奥には「作戦室」と書かれた額のある場所がありました。

 この地下壕の最も特異な点はこれです。作戦室からさらに奥に進むと天井いっぱい(約3m四方)に 竜の彫り物(レリーフ)が見られました。誰が、何のために彫ったのかよくわからないそうですが 他には見られない独特のものです。眼光鋭く、髭も針金のようなものでしっかりしています。


 【洲崎(すのさき)の砲台跡】
 明治のころからの東京湾防衛のため、館山では早くからその要塞強化のため洲崎第一砲台と 洲崎第二砲台が設置されました。
 洲崎第一砲台は1932年(昭和7年)に完成し、西岬小学校の裏山にあるはずですが 民家の中のようなので見るのは諦めました。洲崎第二砲台は1927年(昭和2年)に完成したもので、 坂田(ばんた)地区に多くの遺構を見ることができます。

 県道を洲崎灯台に向かって進むと左手にコンクリートの柱が2本立っているところがあります。 これは門柱でこの場所が砲台地区の入口にあたるところです。(この画像は門の内側からのものです)
 狭い道を登っていくとすぐに竹薮になって行き止まりになりますがこの辺り一帯が砲台跡です。

 その行止まりの民家の中にすでに住宅の下になってしまったコンクリート製の弾薬庫がありました。 そして近くには埋まってしまった砲台があったということです。

 住宅の裏手にはやはり防空壕のような弾薬庫のようなものがあって物置として利用されていました。 入口は2ヶ所あったのですが、扉は鉄材利用のためなくなったとのことです。

 竹薮の中に入るとわずかに円形とわかるコンクリート製砲台の跡がありました。 砲台は全部で4基あったとのことですがそのうちの一つがこれです。

 竹薮を進むと半ば埋もれかけた壕を見ることができました。このような壕はいくつかあったのですが 奥深く進むうちにその数さえわからなくなりました。

 内部はきれいなところもありましたが、崩れてしまっているところもありました。

 おそらく弾薬庫に使用されたのではないかと思います。

 そしてこれがトンネル式弾薬庫です。

 さらに進むと井戸の跡や、兵舎の跡だと思われるコンクリート基礎がありました。 中にはレールが引かれていたというので資材置き場のようでもあります。

 これらの要塞施設を結ぶ道を整備するために小川の護岸工事や、コンクリート橋も作られたとのことで、 いずれも今もってしっかりした石組みが見られました。

 竹薮の中を歩くこと約200m、多くの遺構を見ることができました。 この竹薮もかつて畑であったというのでその成長力に驚くと共に遺構が朽ち果てないよう祈りたくなりました。
 この洲崎第二砲台につきましては、たまたまその行止まりにおいて 民家の方がおられましたのでお尋ねしたところ、快く案内していただけたものです。 もしおられなければ門柱以外は何一つ見ることはできなかったものです。この場を借りて感謝すると共に、 厚く御礼申し上げます。

 東京湾の要塞建設については明治30年代に富津岬と観音崎との間に3つの海堡を築くことと、 三浦半島側に横須賀軍港を始めとして、走水、観音崎、久里浜、三崎の各地区に、 また房総半島側に富津、金谷、大房岬、洲崎の各地区にそれぞれ東京湾口を射程に入れた 多数の砲台を築くことで実施されました。これは日露戦争の際のロシア艦隊から 首都防衛のためにとられたいわゆる分散型要塞です。
 しかし各要塞に配備された砲塔は、ワシントンで行なわれた海軍軍縮条約の調印によって 艦船の保有量が制限されたために、やむなく解体の決まった主力艦の砲塔を陸上用に改修したものでした。

    【参考文献】
 (1) 知られざる軍都 東京(洋泉社MOOK)
 (2) 学校が兵舎になったとき(千葉県歴史教育者協議会:青木書店)
 (3) 館山まるごと博物館(NPO法人安房文化遺産フォーラム)

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