・・・ 半島に、海の守りの跡を見る(2) ・・・

 三浦半島には幕末から、明治、昭和にかけて東京湾の守りとしての備えがいたるところに存在しました。  以下、深田台、猿島、観音崎、剣崎、城ヶ島と順を追って紹介します。
 
(2006年5月記)

 【剱崎の砲台跡】
 三浦市南下浦から城ヶ島にかけての剣崎を中心とした一帯にも海の備えはありました。 ちなみに剱崎は「つるぎざき」となっていますが筆者がこどものころは「けんざき」と呼んでいました。 その名の由来は徳川幕府の御用船がこの沖で暴風のため難破したのですがその際、 神社の神主が剣を海に投じて神の怒りを鎮めたところから来ています。

 南下浦中学校のところで道路から海岸に下りると、海に面した崖に穴が開いています。 洞窟陣地というものです。海に向けられた小さな穴から銃口を出したのだと思われます。
 もう一つは海岸ではなく、道路に面した崖にあります。場所はカーブのところでラ○ホの反対側の コンクリート吹付けの壁ですが交通量が多いので要注意です。

 南下浦町松輪の雨崎に近いところの台地上には野菜畑が広がっています。その中に砲台跡が2基、 無造作に、そして周囲の雰囲気に溶け込むように存在していました。近くには排気口のようなものや、 砲台の下への通路入口がありました。

 その砲台跡から北に300mほど歩くとなぞの建築物があります。探照灯格納庫といわれていますが、 海に背を向けていました。そして近くには「防衛」と刻まれた標柱が打ち込まれていました。

 そして剱崎の灯台に向かって畑の中を進むと、灯台手前にこのなぞの構造物があります。 その建築物は国土交通省「剱崎無線方位信号所」の敷地内にあって、コンクリート製ですが、 何なのかは良くわかりません。近くの人によると戦争中のものだとはいっていました。 許可を得て中に入れてもらい近づいてみると内部は物置のようで無線機材が置かれているだけでした。

 【金田の砲台跡】
 剱崎の少し奥、南下浦町金田にも砲台の跡があったようです。というのは少し前までの地図には 「砲台跡」と記されていたからです。古い航空地図によれば4基の砲座が確認できます。

 三浦霊園の南を走る農道から岩堂山方面を見たときにその砲台はあったはずです。
 一面のキャベツ畑の中に少し下がり気味の小さな脇道があり、その入口のところにかすかにそれらしい 古いコンクリート製の門柱がありました。しかしそのまま下っていっても何も見当たりません。 しかも窪地になって終わってしまいます。砲台跡は完全に取り壊されてしまったようです。

 せめてもの遺構ということで見つけることができたのがこれです。
 入口からほど近いところの木の茂っている畑の中に埋まるようにしてありました。 上の画像のちょうど矢印の先端辺りの位置です。物置のようにして使われていますが、 ひょっとすると指揮所施設であったとも思われます。

 【城ヶ島の砲台跡】
 最後の場所は城ヶ島です。観光客でにぎわう城ヶ島公園の下にも要塞がありました。

 普通車100円の城ヶ島大橋を渡って、城ヶ島公園に行くとそこの駐車場の中に丸い花壇があります。 これ自体が砲台跡だといいます。そしてこの位置の下には地下要塞がありました。

 駐車場の奥のトイレ北側の崖下にこの迷彩模様の入った要塞入口があります。ブロックで塞がれていますが 壊されていて、木材で進入を防いでいました。心ない人に荒らされることを思うと残念です。
 また、駐車場入口の料金所近くの崖下にも同じような迷彩模様の入った入口があります。 今も鮮やかに残る色使いが印象的です。

 公園の中に入って遊歩道を300mほど歩くと展望台がありますが、その下の扉を見ても分かるとおり ここは砲側観測所という施設でした。
 丸いものはみんな砲台跡に見えてしまい、この展望台の近くにもそれらしいものはありますが 正確なところはわかりません。

 駐車場を出たところにウミウ生息地を望む展望台があります。その崖を下りて海岸に出たところに この洞窟があります。洞窟陣地といえるのかどうかわかりませんが、内部は深い様子でした。

   この原稿を書くためいろいろと調べてみると、この付近一帯にもまだまだ戦争遺跡のあることがわかりました。 またいつか訪ねてみたいと思います。

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