*** 府中の下河原線廃線跡 ***

 JR中央線国分寺駅から多摩川に向って下っていく旧下河原線の跡地を探索しました。

 筆者が昭和40年に府中に住み始めた頃、たしか甲州街道を線路が横切っていて1輌か2輌編成ぐらいの 茶色い電車が走っていました。それが下河原線であってそこには旧国鉄の駅名で日本一長い 「東京競馬場前」(とうきょうけいばじょうまえ:13字)という駅があるということでも有名でした。 もちろんそのころまだ武蔵野線はありませんでした。

 
(Rev.1 2001年4月)
(Rev.2 2006年11月 画像および記述の追加)
(Rev.3 2010年10月 北府中駅付近の記述追加)

(画像をクリックすると拡大できます)

 下河原線は、1910年(明治43年)、東京砂利鉄道として 多摩川の砂利運搬を目的に国分寺〜下河原(今の府中市南町5丁目付近)間に開通しました。 1920年(大正9年)に国有の貨物線となり下河原線と改称、のちに東京競馬場の開設に伴い引込線が設けられ、 旅客業務も行うようになりました。しかしその後、1973年(昭和47年)の武蔵野線の開通によって 旅客輸送は廃止され1976年(昭和51年)に廃線となりました。

 1974年(昭和49年)当時の様子でさえ現在と大きく変わっています (国土地理院:WEBマッピングシステムより引用)。左上が西国分寺駅で、画面中央のほとんどは後述する 中央鉄道学園です。

 下河原線は国分寺駅の西方から分岐し、南にカーブして下っていきました。 現在の西国分寺駅にさしかかる手前からです。
 その分岐前の線路の一部、長さにして2〜300mは現存していますがこの画像のいちばん左のように 雑草に埋もれてかけています。(画像中の列車は上りの「かいじ」)
 ちなみに西国分寺駅は現時点では中央線において最後に設けられた駅で、武蔵野線開通に合わせて 開業したものです。


 分岐したあとは掘割を進むようにして府中街道側に向っていました。現在の武蔵野線の位置と合流する 直前にJRの寮があります。府中街道とはたぶん立体交差だったと思われますがわかりません。

 そのJR寮の外階段から中央線側を見ると府中街道から微妙なカーブを描いて国分寺側に向う痕跡が 認められます(2001年の撮影、左上が西国分寺方面)。
 このあたりは国鉄清算事業団の用地で、今では高層マンションがいくつも建ち並び、今なお工事中です。


 JRの寮は府中街道と武蔵野線の線路に挟まれていますが、その寮の外壁は下河原線の線路跡に沿って これまた微妙なカーブを描いています。(左奥が西国分寺駅です)
 

 現在の武蔵野線が北府中で地下にもぐるまでは下河原線と同じルートです。その間、 下河原線には東芝府中工場や自衛隊府中基地(旧陸軍燃料廠)などいくつかの分岐がありました。 (昭和21年の米軍作成地図によれば府中刑務所にも分岐していたようです。 府中街道に面した通常閉じている門からです。)
 【後述する北府中駅付近の分岐を参照してください。】


 下河原線跡は北府中駅の少し先(南)で、武蔵野線が地下にもぐろうとする地点で止まっています (左側単線部分)。付近はインテリジェントパークとして急速に発展しているところです。
 

 上の画像の車止めの延長線上、甲州街道に交差する直前には「下河原線広場公園」として 下河原線の歴史を記した掲示板とともに線路敷きが残されています。


 そしてここから先は下河原緑道として、歩行者・自転車専用道路が整備されています。
 

 旧甲州街道を過ぎると「みょうらいばし」で南武線を跨ぎ、引き続き一直線に河原へと下っていきます。


 下った先には分岐があり、左手方向に東京競馬場前駅があった場所に続きます。
 

 緩やかでここちよいカーブの先は南武線の線路に直角に突き当たり、そこに「東京競馬場前」駅の跡があります。 漢字で書けば5文字ですが「とうきょうけいばじょうまえ」と ひらがなで13文字となります。


 駅ホームの跡は3列に並んだ欅の並木で想像できます。 ここから競馬場には今でもある正面の地下道をくぐって行きました。なおここまでは旅客線としての位置づけです。
 

 一方、もとの分岐からさらに直線で延びる路線は貨物線です。
 中央道高架下をくぐると少しだけ田園風景が広がり、やがて「郷土の森」のところから右にカーブしていきます。



 カーブの終わるころ少しばかり広い、いかにも貨物ヤードのように見える場所があるのですが 確かではありません。その広場の右手に沿って遊歩道は続いています。

 古い航空写真(昭和49年当時)を見ると このあたりに貨車が止まっているのが確認できます。また逆方向に河原側へとスイッチバックで分岐している様子 もわかります。河原との接点は現「南通り入口」の信号付近と思われますが、 この分岐線についてはその痕跡はどこにも見られませんでした。

 下河原緑道は下河原線の終点といわれるこの場所、神社の手前の南町四丁目交差点のところで終わります。 (中河原駅方面にまだ直線の道が続いていますがあまり関係ないようです。)

 ちなみに多摩川の砂利を輸送することによって砂利穴があちこちに出来ました。 その大きな穴を利用したのが多摩川競艇場とのことです。そして、武蔵野線のトンネル工事で出た土砂を利用して 砂利穴を埋めたところが健康センターや郷土の森となっているのだそうです。


 【中央鉄道学園の跡】

 冒頭の画像を見てもよくわかるのですが、中央線から下河原線への分岐は、 下河原線廃止後も旧国鉄の教育施設である「中央鉄道学園」への引込み線としても利用されていました。 中央鉄道学園の跡としては陸上競技場や野球場が目立つのですが、右側に教室や学生寮の建物が何棟か並んでいます。
 しかしそれも国鉄の分割民営化の際に廃校になってしまいました。1987年(昭和62年)のことです。 跡地は高層マンションや都立武蔵国分寺公園となりましたが、公園の一角に鉄道のシンボルともいえる 蒸気機関車の動輪をモチーフにした記念碑が建てられています。



 【北府中駅付近の分岐】

 武蔵野線北府中駅は下河原線としての開業当初、富士見仮信号場でした。 その後軍需工場への従業員専用電車が運転され富士見仮乗降場となり、北府中信号場となっています。 そしてこの駅からは3方向に支線が伸びていたのです。
 一つは駅の西側にある東芝府中事業所への引込線で、側線から複数の引込線が工場の中へと入っています。 現役で使用されています。
 次が東隣にある府中刑務所への引込線ですが、すでに撤去されているものの線路が引き込まれていた部分に 刑務所の長い塀にへこみが見られます(下の画像:その後の外壁工事により少し変わっています)。 道路に対して微妙な角度が付いているのでそれとなくわかります。 現在は出所した人が出てくる場所らしくそれらしい看板もがありました。分岐後の長さはわずか600mです。 刑務所内で製造された製品輸送に用いられていたそうです。
 そして駅の南東方向へ、富士見通りに沿って旧陸軍燃料廠 (航空自衛隊府中基地内にある陸軍燃料本部の碑) への引込線がありました。総延長は2km弱です。陸軍の燃料廠は戦後米軍が接収しましたが、 基地が返還されたのち府中の森公園、航空自衛隊府中基地となりました。


(参考資料:(U.S)Army Map Service 1946 CHOFU)


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