技術マネジメント論
2006.6/28〜7/12
志田基与師
キーワード:専門分化、教養、説明責任、科学・技術者集団、科学論、ノーマルサイエンス、パラダイム、デュエムのテーゼ、森鴎外、脚気、野口英世、黄熱病、科学・技術者の責任
第一回(2006.6.28)
T
授業の目的と予防線
この講義は、前のお二人の先生の講義と内容的にずいぶんと隔たりがあるであろう。場合によっては、他の先生方のお話と矛盾する内容になることもあるだろう。「技術マネジメント」というトピックについて、私は私なりに考えて受講者に伝えるべきだと考えた内容を講義する。その結果が前後の齟齬を来したとしても、それは立場や観点が異なることからする、ある種の必然である。受講者は頭を切り換えて、別のストーリーが始まるのだと認識してほしい。
さらに述べるならば、この講義は、受講者の個々の「専門」には直接役に立たない。しかし、受講者が「専門家」として「高度職業人」として人生をおくる際に決して忘却してはならないことを伝えようと思う。ひょっとすると幸福な専門家は生涯こうしたことに縁がなくてすむかもしれない。人間や社会についての洞察を持ち合わせている専門家は、すでにこのようなことを熟知しているか、あるいは経験の中で自然に学ぶかもしれない。しかし、多くの専門家を襲うであろう「限界」や「危機」あるいは「挫折」に遭遇したとき、以下の講義の内容のいささかでも思い出せれば、彼(女)に幾分かの救いと、場合によっては解決の糸口を与えるかもしれない。
それは「人間としての生き方」あるいは「人生の英知」にかんすることなのかもしれない。そうしたことは、ほんらい大学院の授業で語るべきことではないかもしれないが、幸いなことに、私の「専門」である社会学は、専門分化や専門職業人が社会の中でどう位置付けられ、どのように期待され、どう処遇されるか、について客観的にいくばくかのことを述べうる。社会学は、ある意味で「専門」や「専門分化」あるいは「専門家集団」についての専門分野でもあるからである。
(そのほかに私の授業の方針に何かの手がかりを与えてくれるものに「私のアカデミック・ポリシー」がある)。
全体の構成
まず、分業が高度化し、すべての職業活動が多かれ少なかれ「専門性」をもつようになった社会について理解してもらう。
つぎに、大学院(それも理科系を中心とする)で学ぶ「科学・技術」の構造について観察しておく。さらにこれを学ぶ人々が将来就くであろう「科学者」「技術者」という「専門家」あるいは「専門性」の「運命」についても理解してもらう。
その後、具体的な事例として、森鴎外と野口英世(日本人にとっては比較的なじみのある「偉人」であろう。外国からの留学生の方ごめんなさい)を襲った「悲劇」を事例としてとりあげる。そこでは「専門」がある意味で恐るべき災厄の原因にもなりかねないことを学ぶであろう。
最後の時間には、先輩の学生から「私の専門と社会」について語ってもらう。このテーマはそのまま課題レポートのテーマでもある。参考にしてほしい。
時間が余れば、これらを総括して受講者も交えて議論の場を作りたいと思う。
*今回の資料も含め、授業資料はhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~SHIDA/に掲載する。前日中にはアップロードするので、次回以降は受講者が各自ダウンロードして準備をしてほしい。
U.専門分化する社会
科学と技術
受講者の中には、専門の科学(研究)者を目指す方もあるだろうし、専門の技術者を目指す方もあるだろう。科学と技術とは似ている点もあるが、異なる点も多々ある。ただし、ここではそれらが「知」の領域における、ある種の「卓越」を意味するものとして、同様のものとして扱う。
環境情報の大学院で学生とつきあってきた経験からは、科学志向と技術志向とでは、「マインドの違い」としかいえないようなある種の相違点があるが、それはここでは無視する。科学とは「何かについてなぜそうなるのか know-why」を、技術とは「何かをするのにどうすればいいのか know-how」を「知っている」ということであり、それは広い意味での「知っている」すなわち「知識」に属すことなのである(さらにいえば、それは「暗黙の知識
tacit knowledge」をも含む)。
知識の公共的領域(Public Domain)
それでは、そもそも「知っている」とはどんな意味があるのか? また「知っている」ことが職業に結びつく科学者や技術者とはいったいどんな存在なのか。
まず、「知識」というものが、社会に多く存在する「もの」のうちで特別の様態をもっているということを確認しておこう。それは「いくらでもコピーをとれる」ということである。通常の「もの」あるいは「財」は、ある人が所有していれば、他の人は排除される、同様に、ある人が使用中は他の人は使用できない、という性質(競合性と排他性)をもつものであるが、いくつかの例外があり、それを「公共財」と呼ぶ。すなわち、「知識」は典型的な公共財であり、ある人が「知っている」ということは、他の人が「知り得ない」ことあるいは「知らないこと」を意味しない。
ところが、世の中の多くの人が知っていることと、ほんの少数の人しか知らないこと、の間には社会全体としてと知識の分量は変わらない。
したがって、「知識」を商売の種にするためには、「自分だけが知っている」ということにある特別の仕掛けを施す必要がある。これを「知的財産権」という。他人が「自分だけが知っている知識」を無断で使用しないようにする社会制度である。これが知識本来の性質といかに矛盾するかは、「ソフトウェアの違法コピー」問題を考えるだけで十分な例証となるであろう。
「知的財産権」の施されていない(コピー取り放題)分野を「知識の公共的領域 Public Domain」と呼んでいる。
大学(もちろん大学院も含む)で学ぶということは、(最終的に、ではあるが)公共的(だれでも使える)な知識の領域(Public Domain)を拡張することである。公共的な知識(教科書に書いてあって「読めばわかる」)を自分の中に取り込む(そしてその「取り込み具合」を試験される)という「高校まで」の学び方と、本質的に異なる。大学の入学試験はいってみれば「コピーとしての完成度」を見ているのである。
Public Domainの知識を取り込んだ人間は確かに「賢く」なる。しかし、人類全体にとって有益な知識が「増えた」ことにはならない。人類にとって有益な知識は、「今まで誰も知らなかった」ことや「今まで正しいと思われてきたことが誤りであった」という種類の知識である。これが
Public
Domainに付け加えられることによって、
反対に、大学で学ぶことは、非常に多くをPublic
Domainに負ってもいる。公共的な知識に依存して初めて「オリジナリティ」が主張できるのであり、すべての知識を無から生み出すことができない、という意味で、われわれは公共的知識という巨人の肩に乗って
以上をまとめると、大学で「学び」に関連することがらは、(1)必ず「新知識・新発見」(オリジナリティ)がある;(2)他人の仕事を無断で使わない(だれのどんな仕事か明示する)、の2点が求められるのである。
大学院生であるならば、なおのことである。
教養教育の経験
学部学生対象の教養教育科目で、私は学生につぎのように講義している。このことは大学院生相手でも変わらない。主題は「教養」はなぜ必要か、というものである。
*
「教養とは何か」とか「教養が何の役に立つか」は時代とともにその意味が変化する。
かつて、「教養」はある階層、「支配階級」のメンバーとなるためのパスポートであった。「支配階級クラブ」の会員資格である。高等教育を受ける人間がごく少数であったため、教養という特殊なアクセサリーを備えていることで身分の証とした(講義では「デカンショ節」の例を取り上げるであろう)。「知識」や「教養」はかつての社会では最高のアクセサリーであったのである。
実生活には役に立たない、立たないからこそ地位の象徴である。ソースタイン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』の記述を参照されたい。女性服におけるコルセットのような、この非実用性をいまだに教養の本質と考える人が多いのは悲しいことである
これに対して、現代では教養は「役に立つ」。教養は実用的である。教養のない専門家というものは存在できない。それを証明しよう。
現代の先進社会においては大学が大衆化している。「支配」の道具ではなく、「専門家」を養成するための大学教育になっている。これは分業が高度化したためである。したがって、大学卒業者はエリートで専門家ではあるが、少数の支配者ではなくなった。
ところが、大学進学率が50%にもなれば、他の人々もみな、専門家でエリートで、支配者でない人々である。それぞれの専門家が非専門家に自分の知識技能を売って生計を立てている。
こういう時代に「専門ばか」でよいのか?(「反語」というものである)。他の専門家に「だまされる」かもしれない。自分の技能や知識に金を払ってくれる(あるいは専門の存在を認めてくれる)のは、非専門家であるほかの人々である。自分の専門を大衆化した大学の時代における教養とは、専門の基礎というだけではなく;(1)「生きる力」、(2)分業の中で、他の専門を理解しチェックする能力、(3)同じく自分の専門を他人に理解させる能力(説得力・説明責任能力)のことである。社会の専門分化が進むにつれ、この種の「教養」の必要性は益々高まっている。
「幅広い知識」という意味での「教養」は、暗黙のうちに学問分野の「水平的な」分化・分業を前提にしている。教養教育というのは、したがって、この暗黙の前提のもとでは、どんなに工夫をしても所詮専門を入門者向けにしたものか、水で薄めたようなトピックの羅列に終わるショーケースに過ぎない(「トリビアの泉」)。
現代社会における「教養」は専門家が他の専門家(当該分野については素人)に直面しているという状況に対応したものでなければならない。
*
上のようなことを、「社会学者」として語ってしまうと、なにやら社会学の特権性を主張したような気がする、他の学問分野が、固有のフィールドなり方法なりに没入している(それゆえ教養ではショーケースを置くかカタログショッピングにとどまっている)のにたいして、社会学では学問や知の分業体制そのものについて学生に伝えなければならず、それは、ダイレクトに学生にとって不可欠の技能であるはずなのである。つまり、社会学は、いろいろな学問分野や専門技術が水平にどんな風に並んでいるか、相互にどんな関係をとっているか、について幾分かは語るべき使命をもっている、メタ科学でもある。またその意味では、社会学は学問の水平的分業の例外である(実はほかにも例外があるような気がする)。
現在の高等教育や、学問分野、文教政策は、すべて暗黙のうちにこの学問の水平的分業を前提としている。それは、科学の内実が要求する必然ではなく、もっと別の制度的な要請からきているように思われる。それは「専門職化」であり、大学における学科制という行政上の要求による。
専門性ということ
大学や、文教科学政策への参加権をえるためには、それが専門であることが必須である。ある一つの学問分野が専門であることは、政治体制における主権国家のようなものである。それは内側に対して自治を、外側に対しては互恵平等を建前とする分業システムの構成要素となることを意味する。他の専門家が口出しすることは「内政干渉」であり、そうした干渉をしないかぎり、お互いの専門は尊重されあうのである(社会学のように、そしていまここで議論しているような「専門化」を主題にする限り、それは決定的に内政干渉たらざるをえない)。
ぎゃくに、こうした制度的要請の中では、学問分野は(その内的な成熟の度合いとは無関係に)専門にならざるをえない。これは擬制(fiction)による専門化、制度化である。
すなわち、ある専門分野は、固有の専任教員を持たねばならず、固有の学生を持たねばならず(社会学科の学生は何を習って卒業するのであろう?)、固有の研究費を要求しなければならない。そうでなければ、それは専門分野としての発言資格を失う。
専門性の持っている特徴は、上に述べたように、内側に自治、外側には同等の権利要求となる。これは内外にたいして異なる規範的要求を行うということで、共同体となる宿命を持っている。
いったん共同体が成立すれば、それは己の生存を優先し、社会的な効率の敵となるであろう。分業の体系は分業の体系を再生産する。それは定常的な過程であることもあるが、大きな変化を伴うこともある。そのとき専門の共同性は専門を盾にとる「抵抗勢力」となる。
一般的にいって、連続的な分業の体系の中で、どこまでを同一の専門とし、どこからは専門外とするかには明確な基準はない。それは幾分かの恣意性と便宜性をもっている(市場における、一つの財がどのような単位ででも想定しうるように)。しかし共同体と化した専門は、一つの政治的な実体となるのである。世間を騒がしているさまざまな事件の多くの背後には共同体化した専門家集団が存在する。
大衆社会
現代社会は大規模な専門分化による、高度な分業社会である(リカードーの比較優位の原理に従って、人々はとりあえず短期には何かの専門に特化することで互いに利益をえる)。個々の人間は、この分業システムの中で、幾分か専門家であり、その分他の分野にかんして素人である。したがって、ミクロな構図では、他人はみな素人であり、その逆もまた成立する。
分業理論の現代的な意味は、とりあえず、限りなき専門分化による、社会の不可視性の増大(不安)および制御不可能性にある。分業がそもそもどんな原理原則に支えられているのか、にたいする初歩的な解明抜きには、社会学者にとっても現代社会は巨大な迷宮に過ぎないであろう。
U 科学論
キーワード:科学・技術者集団、科学論、ノーマルサイエンス、パラダイム、デュエムのテーゼ
1.教師は嘘つきである:科学技術の進歩
科学的知識や技術の運命について考えてみよう。
大学(院)にも教科書がある。しかし教科書に書いてあることは10年で古くなる。300年前の本で勉強する人は(ほとんど)いない。「古い」ものは「嘘」になってしまうからである。「科学」の「進歩」とは、「定説」「法則」「原理」などが捨て去られて行くことによっている。それは「真理」に近づいていく過程であると同時に、大量の「嘘」を生産し続ける過程でもある。だから、どんなに一生懸命、真摯に教えてくれる先生でも、基本的には(意図せず)「嘘つき」なのである。騙したほうが悪いのは当然だが、大学では騙されたほう(真に受けたほう)がもっと悪い、というのがルール(掟)である(もちろん教師に都合のよいルールだが)。
レポートや卒業論文を書くところから始まって、ノーベル賞まで、同じ構造である(大学はノーベル賞のままごと!)。他人の何を古くさせるか(先行の業績に対する知識・理解)と、自分のどこが新しいのか(オリジナリティ)の組み合わせでできている。
2.騙されないためには、なにをすればよいのか
(1)論理的であるか? つじつまが合っているか。筋の通らない話、非論理的な話は、当然間違っている。簡潔に明瞭にいえないことは、同様に間違っていることが多い。
(2)事実に合致するか? 事実に反していないか。歴史的な事例に照らしてみる。自分の体験や知識に照らしてみる。原理や原則からはずれた「例外」を見いだすことは、必ず新しい「真理」に至る道である。
(3)騙す者も騙されていないか? 「裏」をとってみる。参照する文献や、依拠する実験観察結果が違えば、結論が違うことはよくある。教師の言ったこと、本に書いてあること、でも別の文献や資料からチェックをすることは必要である。思い違い、記憶違い、読み間違い、写し間違い、誤記、誤植などは、絶対にあることだと思え。最近のショッキングな例は「捏造」。
(4)願望や希望的観測に目がくらんでいないか? 妙に「威勢のよい話」もあやしい。
3.批判してあげるのが、最高に褒めたことになる
批判するのはまともにつきあってやった証拠である。全面的に賛成して、本や教師の鼻息をうかがうのは、全面降伏の印であるだけではなく、本を書いた人、講義をした人に、少しも利益を与えない。知識の発信者に新しい情報が何も帰ってこないからである。
上の基準に照らして、批判を試みよ。その説が偉大であればあるほど批判に強いのはもちろんであるが、ばあいによっては思ってもみなかった「痛撃」である可能性もある。
批判を全く受け付けない人(教師)は、こうした知識の構造を知らない二流以下の人物である。気をつけて付き合うべきである。権力の関係は知識の構造とは独立なのである。
4.真理に近づいていくために(科学論と科学史1)
(1)「真理」は実在するか? 実在することを前提にして、科学の営みはできている。
(2)どうすれば「真理」は得られるのか? 真理は怠け者のためのものである。最小の知識で最大の効果! それを「法則」という。法則性は一般的言明すなわち全称命題でできている。
●理論と法則
ヘンペル(Hempel)のD-N説明(Deductive-Nomological Explanation)、三段論法。
説明と予測の同型性。
●理論の構造
公理axiomと定理theorem、証明derivation/proof、数学的真理、トートロジーtautology。
●理論と実証。
5.すべての理論は仮説である(科学論と科学史2)
(1)検証主義と反証主義の対立:繰り返し確かめられたことは、より確からしいか? 経験的一般化、思いつき、直観は、科学の敵であるのか?
カルナップ(Carnap)の検証主義(verificationism)。
ポッパー(Popper)の反証主義(falsificationism)。
(2)科学法則は仮説hypothesisにすぎない(K.ポッパー)。仮説であるとは、それを取り扱う人々の態度によってそうである。科学命題の形式によるのではない。科学の進歩とは、捨て去られた「誤った仮説」の蓄積である、ともいえる。
6.「われわれは理論を背負って見ている」(デュエムのテーゼ)
ハンソンHansonはこれを観察の「理論負荷性」theory-ladenと呼んだ。人種偏見、民族差別、エスノセントリズム、文化相対主義。われわれは、偏見(先入観)から自由ではない。
自然科学ですら先入観や偏見から自由ではない。
ノーマルサイエンスnormal scienceとパズル解き。科学革命scientific revolutionとパラダイムparadigm(T.クーンKuhn)。われわれの「科学」そのものが日々先入観と偏見とを産出する。
ここに「お絵かき」をします。中身は講義のお楽しみ。
【参考文献】
竹内薫 2006『99.9%は仮説』光文社新書。
A.F.チャルマーズ 1985(原著1982) 『新版科学論の展開』恒星社厚生閣。
カール・ポッパー 1971(原著1959) 『科学的発見の論理』恒星社厚生閣。
トマス・クーン 1977(原著1962) 『科学革命の構造』みすず書房。
カール・セーガン 2001 『人はなぜ似非科学にだまされるか(上・下)』新潮文庫。